初恋との別れ
「リリーさん!」
そう叫びながら、ファンはベッドから飛び起きた。
「お、おい。大丈夫か、ファン」
「まだ起き上がらないほうが……」
エドモンとダミアンが、心配そうにファンを見ている。
(俺はいままでいったい何を?)
と、ファンは、まだ半覚醒の頭を二、三回振り、考え込んだ。
夢の中で、リリーと会った。
ファンは、リリーと二人で手をつなぎ、故郷のビュリダン城の城下町を散歩していた。
ああ、これは夢なのだな。こんなこと現実にできたらどんなにいいか。そう思いながらも、ファンは、いまこの瞬間、まどろみの間だけでも幸福ならばいいやと満足していたのである。だが、夢の最後、リリーはふいに悲しそうな顔をしてファンを見つめ、
「さよなら」
と、言った。これが最後の別れなのだと察し、ファンは悲痛な気持ちで叫んだ。そこで夢は終わった。
「ファン。ボーっとして熱でもあるのか? 君、学院の前で倒れていたんだぜ。モンテーギュ学院の奴らにやられたのかと思って心配したが、向こうも昨夜は大騒ぎだったらしい。嘘つきグレンと巨人のドゥドゥーが、発狂しながら学舎に戻って来て、わけの分からないことをたくさん言っていたそうだ。豚のオバケがどうのこうのと」
エドモンの話を聞いて、ファンは、昨日ソフィーが見せた交換の魔法とやらのことを思い出した。そして……。
ソフィーが魔法を使っているところをバジルが目撃していたのだ。ソフィーのことをカトリーヌが産んだ魔女だと勘違いしたバジルは、ソフィーを殺すと言って、ファンが邪魔しないように気絶させたのである。
「お、思い出した! いま何時だ?」
急に慌てふためきだしたファンを不審に思いつつも、ダミアンが、
「もうすぐお昼ですよ。今日も講義は休講になってしまいました」
と、答えた。
(俺は、そんなにも眠っていたのか! なんて役立たずなんだ! ソフィーはすでに殺されているのか? そ、それに、リリーさんの病気は?)
ソフィーの教会へ行くべきか、リリーとジャネットのもとへ行くべきか。
彼女たちのことだけでなく、従者のナタンのことも心配だった。ナタンはいまバジルに捕まっているはずだ。助けに行かないと。
「そ、そうだ……。とりあえず、バジルを捜さなければ!」
そう言いながらファンはベッドから降りようとしたが、ダミアンとエドモンに止められた。
「今日はゆっくり寝ていろって」
「し、しかし……」
起き上がろうとするファンと、それを止める友二人。三人がもめていると、部屋のドアを誰かがノックした。
「何を騒いでいるのですか」
部屋に入って来たのはガノレス助教授だった。
「助教授。何かご用ですか?」
また夜遊びの誘いかと思ったファンがそう問うと、ガノレスはファンに一通の手紙を手渡した。
「先ほど、とても美しい修道女が学院を訪れて、ファン・ビュリダンという学生にこれを渡してくれと言い残して去って行きました」
「え? 修道女?」
ソフィーが来ていたのか。良かった、生きていたのだ。
ファンは、妙な胸騒ぎを感じながら、受け取った手紙に目を通した。そして……。
――リリーが今朝死にました。
その一文に、頭を斧でガツンと叩き割られたような衝撃を受けた。
ファンが、情けなく気絶させられて眠っている間に、初恋の人は昇天していたのである。
(あの夢は、リリーさんが俺に別れを告げに来ていたのか)
ファンの顔は見る見るうちに蒼白になっていき、本人も知らぬうちに「リリーさんが死んだ!」と叫んでいたらしく、彼女のことを知るダミアン、エドモン、ガノレスも険しい表情で押し黙った。
「い、行かなければ……。リリーさんのところへ……」
ファンは何かに憑りつかれたかのようにふらふらと立ち上がった。
「ファン、行くってどこにだよ」
「エドモンさん。こんな状態のファンさんを一人にはしておけませんよ。我々も行きましょう」
こうして、ファンはダミアンとエドモンに付き添われ、ジャネットの本屋へと向かうのであった。
* * *
外は十一月の冷たい雨がしとしとと降り、ジャネットの家へと急ぐファンたちの身体を濡らした。
途中、街の人々の噂話が耳に入ってきた。
「大火事が……」「死人がたくさん出て……」「犯人は男……」などと、断片的にしか聞こえなかったが、ソフィーがまた事件を起こしたらしいと思われる内容だった。
ただ、いつものボヤ騒ぎではなくて本格的な火事らしいことと、放火犯が男だと言われていることが気になった。もしかすると、ソフィーの放火事件とは別件なのかも知れない。気にはなったが、いまのファンにはリリーの死という受け止め難い事実と向き合うことで精一杯だった。
あの手紙はソフィーのたちの悪い嘘で、リリーはいまごろ病気も治ってジャネットと楽しくおしゃべりをしているのでは……などと妄想し、現実逃避をすることで心の平静を何とか保っていた。いくらソフィーでも友人の生死で嘘を言うわけがないと分かっていても、そんな甘い幻想をいつまでも思い描いていたいと願ってしまうのであった。
だが、幻想などというものは、現実の死を目の当たりにして粉々に散ってしまうのだ。
「最後まで意識が戻ることはなかったけれど、死ぬ間際、かすかに『ファン』って呟いたような気がしたんだ。たぶん、あんたの夢を見ながら旅立ったんだと思うよ」
ジャネットの家に着き、ベッドに安置されているリリーの遺体と対面したとき、ジャネットがそう教えてくれた。
「リリーさん……。ごめん。俺は、あなたに何もしてあげられなかった。俺のような人間など気にかけずに、もっと君を幸せにしてあげられる男を探せばよかったのに……」
ファンは冷たくなったリリーの手を握って泣き崩れ、言葉を詰まらせながらそう言った。ジャネットがファンの肩に手を置き、
「そんなこと、リリーの前で言わないの。あんた、自分のことを何ひとつ価値のない人間だと思っているみたいだけれど、ファンの価値はちゃんとあるのよ。……リリーみたいな可愛くてとびきりいい女に愛された男っていう価値がね。あんたはいい女に好かれた、いい男なのよ」
そう優しく慰めてくれたが、最期を看取ってやることもできなかったことに対する怒りと悲しみはファンの胸の中でずっと渦巻いているのであった。




