魔女の善意
リリーは、ファンに背負われて、ジャネットの家に運ばれた。
ジャネットの義父であるジャックは、見知らぬ女が担ぎ込まれた時は何事かと驚愕したが、
「この子、施療院にいた頃の友だちなの。父さん、お願いだから、医者を呼んで来て! ちゃんとした、藪医者じゃない人を!」
娘のジャネットにそう言われると、家を飛び出し、十五分後に知り合いの医者を連れて来てくれた。
ジャネットのベッドで寝かされていたリリーは、意識が混濁している中、医者の診察を受けた。
「この子には、病と闘うだけの力がもうないかも知れない。風邪をこじらせて弱っていた病弱な身体が、冬の夜を野ざらしで歩き明かしたのだ。とても耐えられるものではない」
医者が気の毒そうな顔をしてそう言うと、ソフィーは「何とか助けてあげてください。お願いします」と懇願した。
「もちろん、医者として全力は尽くすが……。覚悟はしておいて欲しい」
医者の自信なさげな言葉に、ファンは絶望しそうになった。
優しくて、明るくて、母親のようなリリー。
彼女がただの風邪を引いただけで、ペストと間違われて家から追い出され、救いようのない無残な死を迎えようとしている。このようなことが許されていいのだろうか? リリーを見捨てたエリザ、リリーを陥れた藪医者がのうのうと生きているというのに、なぜリリーだけが?
(理不尽だ。人間の幸不幸、生死はなぜこんなにも不公平なんだ)
このような不公平な運命を実体験として味わい、ソフィーは放火の魔女となったのだと思うと、ビュリダン城で平和に暮らしていたファンは、おのれに露ほどの価値もないのにリリーやソフィー、そして、ジャネットが授かるべきだった分までの幸福を横取りしてのん気に生きてきた卑怯者なのではないかと考えてしまうのであった。
「ファン君。あんた、そろそろ学院に戻りなさい。無断外泊は学生としてよろしくない。ソフィーさんも教会の人たちが心配しているじゃろう」
ジャックにそう言われても、ファンとソフィーは帰ることを嫌がったが、
「リリーのことは私が寝ずに看病しているから。ファン、無断外泊が原因で退学処分とかになったら、いくら何でも情けなさすぎるわよ。ソフィーも帰らないと、神父様のお叱りを受けるわ」
ジャネットが気性の荒い彼女にしては優しい口調でそう言うと、二人はしぶしぶ従うのであった。
「明日、また来る。……リリーさん、絶対に死なないでくれよ。俺は、もう一度、あなたと話がしたいんだ」
ファンは、眠っているリリーにそう語りかけると、ソフィーとともにジャネットの家を出た。
「ソフィー。送って行くよ。夜の街は物騒だから」
ファンがそう言うと、ソフィーは大人しくこくりと頷いた。彼女も、友人のことが心配で元気がないようだ。ジャネットの話によると、施療院にいた頃、ジャネットとリリー、ソフィーは同い年ということもあって、いつも一緒で仲良く遊んでいたらしい。出会って一か月ほどしか経っていないファンなどよりも、今回のリリーのことは、よほど大きな衝撃を受けているに違いない。
* * *
ブヒィ、ブヒィ。
ファンとソフィーが無言で歩いていると、豚の鳴き声が夜の闇に響いて聞こえてきた。
「……獅子王がまた路上の汚物を掃除してくれているのか?」
ファンがそう思い、鳴き声が聞こえてきた方角を見ると――彼は自身でも驚くぐらいの大声で絶叫してしまった。
「ぎゃぁぁぁ!」
ブヒブヒと鳴きながら獅子王が近づいて来る。
ただし、「獅子王」と呼べるのは頭部だけで、頭から下は人間の身体だった。しかも、かなりの大男、ドゥドゥーと同じくらいの体格だ。
その頭だけが豚の人間(?)がブヒブヒと鳴いてファンに近寄って来た。自分のことを真っ当な豚だと思っているらしく、四つん這いで歩いている。
「な、何だ、こいつ! 何なんだ、こいつは!」
肝っ玉が太いファンも、これにはさすがに驚愕し、動転のあまり尻餅をついて倒れてしまった。
ブヒィ!
顔をなめられた。なつかれているらしい。
まったく嬉しくない!
ファンは、全身が総毛立った。
「…………あっ。元に戻すのを忘れていました」
「え? な、何? ソフィー、これは君がやったのか⁉」
ファンがガタガタ身を震わせながら言うと、ソフィーはちょっと料理が失敗したのが気まずくて誤魔化し笑いをするように微笑んだ。
「うっかりしてました。あの学生たちもそろそろ戻してあげないとかわいそうですね」
ファンにはソフィーが何を言っているのか分からなかったが、十秒後にすぐに理解することになる。
「だ、誰かーっ! 誰か助けてくれぇ! ば、化け物だぁ!」
嘘つきグレンが、声がかれるほどの悲鳴を上げながら、こちらに走って来た。何者かに追われているらしい。グレンの背後からは、
「待ってくれよぉ! 俺だよぉ! 友だちだろぉ?」
という半泣きの声が聞こえてきた。あの声はドゥドゥーではないか。グレンはなぜ親友のドゥドゥーから逃げ回っているのだろうか。などと思っていたが、グレンの後ろから走って来るそれを見てしまい……。
「こ……今度は、頭がドゥドゥーで、身体が獅子王……?」
ファンは、もはや恐怖を通り越して滑稽とも言えるその光景を見て、「ふっ、ふふふ……」という変な笑いが込み上げてきた。
ソフィーが魔法を使い、ドゥドゥーの頭と獅子王の頭を入れ替えた……そうとしか考えられない。
火の魔法以外にこんな能力が彼女にあったとは驚きだ。魔力が宿っているのは片目だけであったはずなのに。そういえば、「私の切り札は、右目だけではありませんから」などとソフィーは言っていた。それにしても、こんなとんでもない魔法を持っていたとは……。
「ふ、ファン! た、助けてくれ! 化け物が……化け物が追いかけて来るんだ!」
ファンのもとへ走り寄って来たグレンが、ファンの肩を揺さぶってそう懇願した。
(こいつ、俺をつけ狙っていたくせに)
と、ファンは思ったが、さすがにこれは助けてやらないといけないかと考え直した。しかし、どうやったらドゥドゥーを元に戻せるのだろう。
「ファンさん。その人、殴って気絶させてください。これを使うのを見られたくないので」
ソフィーが懐に手を入れてそう言った。透視すると、美しい装飾がほどこされた短剣を握っている。そんなものでどうするつもりなのか。
「昼間にこれを使ったときは、この学生さんがよそ見をしているときに使ったのですが、何度も人前で使うような代物ではないのです」
「よく分からないが……」
ファンは、あまりためらわらずにグレンを容赦ない一撃で気絶させた。「ぐへぇ……」とうめきながら、グレンは倒れる。はっきり言って、モンテーギュ学院の学生たちの様々な悪行を思い返すと、これぐらいのことをしても気の毒だとは思えなくなっていた。
「ありがとうございます」
ソフィーはそう言うと、短剣を鞘から抜き、ドゥドゥー(身体は豚)と獅子王(身体は人間)の間に立った。
「…………」
ファンは、ソフィーはいったいどんな魔法を使うのだろうと固唾を呑んで見守った。
しかし、それはほんの一、二秒で終わったのである。
さっ、さっ。
ソフィーは、ドゥドゥーのほうに一振り、獅子王のほうに一振り、短剣を振った。それだけだった。
「え? それで終わり……?」
ソフィーが短剣を振った際、剣から魔法の力が解き放たれるのを感じたが、ほんの一瞬のことだった。
「さっきので本当に元に戻るのか?」
ファンはそう言おうと口を開きかけたが、その直後、驚愕すべき光景を目撃した。
まばたきをした次の瞬間、交換されていたのである。
ドゥドゥーと獅子王の頭が。
巨人と豚は、気を失っているのか、ソフィーの足元で倒れていた。
「な、何だ? ソフィー、君はさっき何をしたんだ?」
「見ての通り、交換していた頭部を元に戻しただけですよ」
ウフフと笑い、ソフィーは短刀を鞘におさめた。
「殺すなとは言ったが、こんなたちの悪い悪戯をするなんて……」
「最後にはちゃんと元に戻したのですから、いいではないですか。まあ、しばらくは今日見た悪夢に怯え、あなたたちの学院に悪さはしないでしょう」
ソフィーは、同じ魔法使いであるファンを助けるという善意のつもりで、こんなことをしたのだろう。やはり、魔法に魅入られてしまった人間の善悪の価値観には歪みが生じてしまうものなのだろうか。この先、母が正気に戻ることがあっても、普通の人間として生活していけるかどうか……。
ファンは、いまもビュリダン城の奥深くで幽閉されているだろうカトリーヌのことを思い、複雑な気持ちになるのであった。




