魔法使い
教会からジャネットの本屋までたどり着くのに、かなりの時間をかけてしまった。
バジルがファンを尾行している可能性があると思い、わざとカルチェ・ラタンの街をぐるりと遠回りをして、さらに三度本屋を通り過ぎ、猫も通らない小路を行き、自分でも道が分からなくなりそうなほどメチャクチャな歩き方をして、三十分で着く道のりを一時間半もかけて本屋に訪れたのである。
左目の透視の魔法を使えば、たとえ尾行されていても人影や物陰に隠れているバジルを見つけ出すことは容易なのだが、この時のファンは精神的にかなり動揺していたため、魔法を使えなくなっていたのである。透視はかなりの集中力を要する魔法だったのだ。
ファンは本屋に到着すると、左右を見回して誰も怪しい人間がいないことを確認し、すかさず店内に入った。だが……。
「う、うおっ!?」
「ブヒィ!」
なぜか本屋の中に巨大な豚。
危うく豚とぶつかりそうになったファンは、体をよじらせてよけ、その場に尻餅をついた。豚のほうは、
「何だ、てめえ。邪魔なんだよ」
と言いたげにファンを見下ろすと、ブヒブヒ鳴きながら本屋から出て行った。
「……獅子王。どうしてこんなところに」
ファンは豚の王様のお尻をあ然とした表情で見つめていると、店の奥から、
「よかったわねぇ、獅子王の機嫌が良くて。虫の居所が悪かったら、牙で頭をかじられていたわよ」
ジャネットの陽気な声が聞こえてきた。ずいぶんと酒が入っているらしく、ジャネットのほうこそ機嫌が良さそうだ。
「い、いてて……。あの豚、うちの学院だけでなく、ここらへんでもでかい顔をしているのか」
「カルチェ・ラタンで獅子王を知らない人間はもぐりよ」
「ふ、ふうん……。でも、どうして店内に入れているんだよ」
「一度エサをあげたら、なつかれちゃって」
「初めて俺と会った夜、汚物の臭いがするから店内に入るなと言ったくせに、汚物を食い散らしている豚は入ってもいいんだ……」
「私、そんなこと言ったかしら?」
ジャネットは完全に酔っぱらっているようだ。ファンが、まだ痛む尻をさすりながら立ち上がり、ジャネットを見ると、彼女はとろけるような笑顔でべろんべろんになっていた。かなり酒に強いはずのジャネットがこんなふうになるとは、昼間からいったいどれだけの量の酒を飲んだのだろうか。
「ふらふらじゃないか。水でも飲んだらどうなんだ」
「いま飲んでいるじゃないの」
「それは葡萄酒だ」
「私にとって、酒は水なのよ。うん? ていうことは、水が酒ということになるわね。ねえ、ファン。水を持って来て。お酒飲みたい」
(何を言っているのか分からないが、まともな思考ができなくなっていることは確かだな)
しばらく身辺に気をつけろと忠告をしに来たというのに、これではまともに話もできない。ファンはため息をつきながら店の奥の台所に入り、水がたっぷりと入った水甕を見つけると、お椀に水を入れてジャネットに飲ませてやった。
「ごく、ごく、ごっくん……。何よ、これ! 水じゃない! わたしは、酒を持って来いって言ったのにぃ!」
「水を持って来いって言っただろ! この酔っ払い!」
理不尽な罵声を浴びせられ、ファンも思わず怒鳴り返していた。どういうわけか、ジャネットが相手だと遠慮というものがなくなるというか、ファンの素直な感情をさらけ出してしまう。
「何じゃぁ、うるさいのう……」
本屋の主人であるジャックが、店での騒ぎを聞きつけ、店の奥の自室から出て来た。
「あの……ジャックさん。この酔っ払いに店番をさせておくのは、商売上、かなり問題があると思うのですが」
「ジャネットはこう見えて儂よりも商売上手なのさ。儂は人見知りが激しいから、客に愛想笑いのひとつもできん。ジャネットは客にお世辞も言えるし、金のありそうな客には抜け目なく高価な本や酒を買わせようとする」
「ジャネットがお世辞を……。ちょっと想像できないな。俺には言いたい放題言うのに」
「それは、あんたが本や酒にほとんど興味がないことを見抜いているからじゃろ。金にならん客には愛想笑いやお世辞なんかせんよ」
(うっ……。たしかに、俺は書物に興味がない……)
図星を突かれ、ファンは赤面した。
学問第一であるべき聖バルブ学院の学生として、それは恥ずかしいことだという自覚があったのである。
「……とはいえ、こいつはちょっと酔い潰れすぎじゃな。学生さん。悪いが、娘を部屋まで運んでやってはくれないかね。……いつもは、店番ができなくなるほど酒を飲むような子ではないのだが」
(店番中に飲酒すること自体、問題だと思うのだが)
ファンはそう心中で呟きながら、ジャネットをおぶった。小柄で華奢なジャネットはとても軽く、いつも男勝りなことを言っている彼女もやはりか弱い少女なのだなとファンは感じた。……酒臭いのはおっさんみたいだが。
* * *
ジャネットを彼女の部屋まで運ぶと、床に転がっている衣類や酒瓶を踏まないように注意深く室内を歩き、ベッドにジャネットを寝かせた。
「頭が痛い……。水を持って来て」
ジャネットは、コンコンと自分の頭を小突き、ファンにそう言った。
「今度は本当に水でいいんだな?」
「何を言っているのよ。水は水じゃない。酔っぱらっているの?」
「……酔っ払いはあんただ」
そうぼやきながら、ファンはまた台所に行き、水を持って来てやった。ジャネットはそれを美味しそうに飲み、
「ふう……。生き返ったわ」
幸せそうにホッと息をつくのであった。
「まったく……。昼間からべろんべろんになるなんて、年頃の娘とは思えないな」
「年下の男にそんな小言は言われたくはないわね」
「……俺があんたの生き別れの弟だったとしてもか?」
「…………」
そんなことを言うつもりはなかったのに、ファンは弾みで思い切ったことを口にしていた。どんな反応が帰って来るだろうと身構えたが、
「あははは! 馬鹿みたい!」
ジャネットはファンの冗談だと思い、大笑いするだけだった。いきなり生き別れの弟だなどと言われても、大真面目な話だとは誰も思わないだろう。
「……十九年前、一人の魔女が女の子を産んだ」
ファンは、一度言い出してしまった勢いをかりて、そう告げた。
ジャネットは「魔女」という言葉にピクリと反応し、ファンをすわった目で睨みすえる。
「その魔女は、本来は聖女のごとき美しい夫人だったが、悪魔の術を持つ男によって魔女に変えられ、子どもを孕まされた。それが、その女の子だ」
「……何の話をしているのよ」
「魔女の夫は、妻が汚された結果産まれてきた女の子を憎み、人買いの商人に売ってしまった。だが、その商人もまた女の子が魔女の血を引いていることを知ってしまい……パリのある施療院の前に置き去りにしてしまった」
「…………」
「その女の子と思われる人物が、この街に住む三人の少女……つまり、娼婦のリリーと修道女のソフィー、そして、ジャック・カドウの養女であるジャネット……あんただ」
「……私たちのこと、どこで調べた」
「施療院で子どもたちの面倒を見ているじいさんからだ。……そして、魔女の眼を持つあんたは、俺の姉である可能性が高い」
ここまで言って、ファンはジャネットの反応を待ったが、彼女は黙りこんだまま何も語ろうとしない。
「……俺は、女の子が捨てられた後に、城主である父が気の狂ってしまった母を無理に犯して生まれてきた人間だ。妻を汚した悪魔の男に対する嫉妬をぶつけて、この女は自分の物だと証明するためだけの、愛の欠片もない乱暴な行為で……俺はこの世に生を受けた」
そんな自分だからこそ、
(俺は価値のない、誰かを愛するには値しない人間なのだ)
と、ファンはまるで呪われたかのようにそう思い続けている。そんな価値のない自分が、狂気から戻ることのない母のためにしてやれることは、行方不明の姉と再会させてあげることだけである。そう考え、ファンはずっと姉捜しをしてきた。だからこそ、姉の可能性がある少女を父の魔の手から守らねばならないのだ。
「そういうことなら、あんたのお姉さんもファンと同類よね。いわゆる不義の子じゃない。そんな姉を捜し出して、あんたの母親は喜ぶの?」
ようやくジャネットが口を開いたが、どことなく突き放したような冷たい口調だった。
「気が狂い、夫や息子たちのことが分からなくなった後も、母上は『娘に会いたい』とうわ言のように言っている。もしかしたら、自分の娘と再会したら正気が戻るかも知れない」
「そんな魔法みたいなこと……」
「魔法使いのあんたが、そんなことを言うのか?」
ジャネットは、一瞬、ビクリと身体を震わせたが、すぐにファンを睨み、
「……右目と左目のどちらかに、相手が魔法使いかどうか見破る力でもあるわけ?」
「まあ、そういうことだ」
「つまり、ファンも魔法使いなんだ。ずるいなぁ」
そう言うと、ジャネットはファンの腕を足で少々強めに蹴った。
「私、この変な力のせいで、小さい頃は相当苦労したんだけれど。どうしてあんたは普通の生活を送れているのよ」
「魔法の力は絶対に他者にばれてはいけないと、助言してくれる人がいたからだ」
「ずるいわねぇ」
また蹴られた。本心から「ずるい」と思っているのだろう。
「もういいわ。そこまで見破られているのなら、私のこと話してあげる」
ジャネットは、自分の幼少の頃の話、施療院時代の話をファンに語り始めた。




