悪魔の医者
ファンの父であるトマ・ビュリダンは、若い頃は学問を志してパリの聖バルブ学院で学び、青春を謳歌していた。
だが、先に述べた通り、兄たちが立て続けに亡くなり、やむを得ず帰郷してビュリダン城の主となったのである。
パリでは貪欲に知識を吸収して学友たちと夢を語り合う日々を送っていたトマにとって田舎貴族の退屈で変化のない毎日はとても苦痛だった。
何事も自分の思い通りにならないと嘆いていた彼の慰めとなったのは、城主となるときに妻として迎えた可憐なカトリーヌの存在だ。彼女は聡明で信心深く、まさにキリスト教徒の理想の妻というべき女だったのである。
トマはカトリーヌを溺愛した。青年期の夢を失い、貧乏な田舎貴族の生活を強いられる輝きを失った彼の人生にとって、カトリーヌだけが光といえた。
やがて、カトリーヌは長男のピエールを産んだ。父となったトマがおのれの人生における諦めと妥協を許容し始めた頃、最愛のカトリーヌの前に悪魔が現れたのである。
ピエールを出産した四年後の春、カトリーヌは聖ヤコブの遺骸があるとされる聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の旅を行なった。しかし、無事に巡礼を終え、スペイン領からピレネー山脈を越えてフランス領に戻ったとき、カトリーヌは急に具合が悪くなってしまったのである。
慌てた従者たちは宿の近辺に医者がいないか捜し回り、ジルダ・ポワズと名乗る旅の医者にカトリーヌの診察を頼んだ。ジルダも旅の途中で、カトリーヌが宿泊した宿に偶然いたのである。
「気が散ると診察できない。夫人以外はみんな部屋から出て行ってくれ」
診察を依頼した時から不機嫌そうな顔をしていたジルダは、気難しげにそう言って従者たちを部屋から追い出した。
従者たちは医者を怒らせて主人が診てもらえなかったらまずいと思い、大人しくジルダの命令に従った。
それがいけなかったのだ。
熱が出て頭がぼんやりしているカトリーヌは、ジルダが調合したとろみがかった液体を薬だと言って飲まされた。
しかし、体熱は一向にひいていかず、それどころか手足にしびれを感じ始め、満足に身動きを取ることもできなくなってきたのである。「先生、これは……」とカトリーヌは問おうとしたが、唇が震えて言葉を発せられない。
「臭い。あなたからは敬虔なキリスト教徒の臭いがプンプンする。……まあ、宿泊客の大半が巡礼者であるこの宿には、あなたの同類がたくさんいるのだが。それにしても、夫人からは私の鼻が捻じ曲がりそうなほどの悪臭がしますね。私は、その臭いが我慢ならない」
「…………?」
この医者は何を言っているのか。カトリーヌには全く分からなかった。だが、ベッドに横たわったカトリーヌを見下ろしている彼の両眼が妖しく光り、懐から短剣を取り出した時には、彼女が薄っすらと感じていた身の危険は確信へと変わった。
(こ、殺される!)
口がきけないカトリーヌは心の中でそう叫んだ。すると、
「殺しはしない。あなたは、久方ぶりに見つけた、我ら同朋を生み出す母胎となる女性だ」
ジルダはカトリーヌの耳に口を寄せてそう囁き、短剣でおのれの左胸を突いた。驚愕したカトリーヌが見ると、短剣からはゆらゆらと揺れるたいまつの火のごとき光が……。
(これはいったい何?)
カトリーヌがそう疑問に思った次の瞬間、心臓を自ら刺して死んだはずのジルダが短剣を胸から抜き取り、今度はカトリーヌの心臓を貫いたのである。
「かっ……はっ……!」
「これで交換は終了だ。あなたは、火を起こす、風を起こす、透視、物の本質を見極める……四つの魔法を得て、二十年の寿命を失った。そして、私は四つの魔法を失うかわりに、二十年分の命を手に入れた。……後はあなたが子どもを産めば、我らの同朋が増えるだろう」
「な、何を……何を……」
ジルダの言っている意味が分からない。
胸を刺されてなぜ生きているのか分からない。
そして、いま、ジルダに組み敷かれてしまった自分が何をされようとしているのか……。
小さなうめき声しかあげられず、身体がしびれてほんのわずかな抵抗もできず。助けを呼ぶことも逃げることもできないカトリーヌは、その日、魔女となり、夫以外の男に我が身を蹂躙された。
* * *
「……魔女となった?」
ファンの話を聞き終えたグベア博士は、眉間に深い皺をつくり、ファンを見つめた。
「ファン君。それは、いったい……」
「安心してください。魔女になった、というのは父の妄想なのです。そう決めつけているのです。不思議な……悪魔のような男に母が汚され、それからすぐに妊娠したことに衝撃を受けた父は、『妻が悪魔と契約して魔女になってしまい、悪魔の子を身ごもっている』という妄想にとらわれてしまっただけです。……もしも本当に母が魔女になっていたら、いまごろ生きていませんし、俺も生まれていませんから」
「……そうか。そうだな。悪魔に魂を渡してしまった人間は、魔女裁判によって火刑に処されなければならない。うむ、そうか……」
あまりにも恐ろしい話に、グベア博士はファンの言葉を無理に信じようとしたが、ファンの顔色を見ていると、明らかに真っ青になっていて何かを必死に隠そうとしていることは明らかだった。だが、ここで、
「本当は、母上は魔女になってしまったのだろう?」
と、たずねる勇気はグベア博士にはない。もしその真相を知ってしまえば、キリスト教徒として異端者を訴えなければならないからだ。教え子の母親を、そして、旧友の妻を魔女として訴えたいとはグベア博士は思わなかった。ファンがこのまま白を切ってくれたほうが助かる。
「君、その話はもう誰にもしないほうがいい。私だけだ。学院の他の者には決して言ってはいけない。魔女という疑いをかけられただけで、お母さんは破滅してしまうのだよ」
「はい。ただ……母はすでに人の心を失ってしまっています。ジルダという男に汚され、その男の子どもを出産してしまった母は、父に激しく責め立てられました。そのせいで精神に異常をきたし、その後に生まれてきた俺の物心がつく頃には廃人同然になっていたのです」
「……トマは、そこまで妻を追いつめたのか。いや、それほど妻のことを愛し、嫉妬に狂ったということなのかも知れない。だが……」
「だが……何ですか」
「いや…………」
グベア博士は言葉を濁した。
カトリーヌは不義の娘を出産した後、ファンを産んだことになる。ファンの話によると、その時、彼女はすでに廃人一歩前の精神状態だったはずだ。ということは、つまり、トマは頭がおかしくなってしまった妻を……。
「何でもない」
グベア博士はふと頭にわいた疑問を打ち消した。これはビュリダン家の人間ではない自分が追及してはいけないことだと思ったからである。
「そ、それで……。お姉さんは君が生まれる前に捨てられたのだね。魔女の子として」
「はい。最初は、城内でこっそり、ビュリダン家の子としてではなく召使いの子という扱いでもいいから養って欲しいと、まだ正気を保っていた母が懇願していたそうですが、生まれて半年たった頃に、父は人買いの商人に細かな事情を伝えずに姉を売り渡してしまったのです」
「そうか。しかし、そんな生まれる以前の話を君はどうやって知ったんだ。お姉さんがいまパリにいるらしいという情報もなぜ分かった?」
「五年ほど前、その人買いの商人がビュリダン城に再びやって来て、城門の前で『よくも悪魔の子などを押しつけたな』と罵ったのです。生き別れの姉がいることを薄々察していた俺は商人の話が気になり、門兵によって城外へ追い出されたその商人を追いかけ、事情を聴きました」
商人は、何らかの方法でビュリダン城において生まれた悪魔の子の噂を耳にし、「魔女の子を連れ歩いていたら異端者として殺されてしまう」と怯え、六歳になっていた少女をパリの施療院の前に置き去りにしてきたのだという。
ファンはもっと詳しく姉の話を聞こうとしたが、そこにトマが差し向けた追手の兵が現れ、商人を殺してしまったのである。トマはカトリーヌにまつわる噂を商人によって広められてはならないと考え、商人を永遠に黙らせたのだ。
「姉は六歳の時にパリの施療院の前で再び捨てられた……。それだけが手がかりなのです」
「ふむ……。パリの施療院で孤児の面倒を見ているのは、サン・テスプリ施療院だ。それで、君はその施療院の場所を私にたずねたのだね。……分かった。ならば、放火犯の調査とともに、お姉さんの行方も捜すといい」
「えっ、いいんですか?」
「だめだと言っても、君はこっそり捜そうとするだろう? 顔に出ている」
ファンは、思わず自分の顔を撫でて、目をパチクリさせた。
「はい……。精神を崩壊させた母が、いまでもうわ言のように、娘に会いたいと言っているんです。俺はどうしても母の願いを叶えてやりたい……」
「一人で調査するのは大変だ。同室のダミアン君とエドモン君にも外出の許可を与えるから、年内は授業がない時間以外は学院外を好きに出歩いていい。ただし、外出するときにはあらかじめ私にそう伝えてくれ」
「分かりました」
ファンは大きく頷き、
(これで堂々と捜索ができる。姉さんを連れて帰ったら、母は正気を取り戻してくれるだろうか……)
美しく、賢い女性だったというカトリーヌ。
息子であるファンはそんな昔の彼女を知らない。
いまのカトリーヌは目隠しをされ、囚人のごとく城内の奥深くの窓のない部屋に閉じ込められている。こっそり忍び込んで声をかけても、ファンには理解できない言語……と言っていいか分からない言葉を呟き、意思の疎通は不可能なのだ。
たった一度だけでいい。母と言葉を交わしたい。そのためならば、魔女でも何でもいいから姉をこのパリの街の中から見つけ出してみせるとファンは決心していた。




