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カルチェ・ラタンの魔女  作者: 青星明良
一章 学生の街
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夜明け前の炎

 少女に連れられて見知らぬ道を歩いている間、ファンはこれからのことについて考えていた。


 パリの地理に詳しくないファンが夜中の街を歩き回るのは、目隠しをして迷路を行くようなものだ。それに、リリーが言っていた通り、夜更けの訪問者に対して施療院が対応してくれるとは思えない。やはり、昼間に学院の外へ出る手立てを考えないとだめだろう。


「ほら、ここからなら帰れるでしょ」


 いつの間にかル・デ・シャン通りにたどり着いていて、少女が投げやりにそう言った。常にぶっきらぼうな言葉ばかりの彼女だが、根は面倒見のよい親切な性格らしい。


「じゃあ、私は家に戻るから。ふわぁ、眠い」


「ありがとう。……でも、君一人で大丈夫か? このあたりは俺みたいに夜の街を徘徊している学生がいるし、さっき言っていた放火魔もいる。俺の従者をつけようか」


「えっ、さ、さっき……ひっく、来た道を、ひっく、ひっく、往復しゅるんでしゅか?」


 ようやく一人で歩けるようになっていたナタンが不服そうな声を上げた。呂律が回っていない。


「彼女には世話になったんだ。それぐらいの礼はするべきだ。それに、お前、今夜は勝手についてきたくせに酔い潰れて醜態をさらしたじゃないか。名誉挽回のためにも、ちょっとは働け」


「は、はひ……。ひっく」


 ナタンはしゅんとなって返事をした。


「別にいいよ。私、こんな頼りなさそうな男に守られるほど弱くないもの。ゆすりをしている不良学生や放火魔にあったら、金玉蹴り潰してやるから。それじゃあ、さよなら」


「えっ、ちょっと。お、おい」


 少女は、ファンが呼び止めるのを無視して、さっさともと来た道を走り去っていった。ファンとナタンはぼう然と見送ることしかできなかった。


「なかなか気のつよい、ひっく、娘でちたね。ひっく」


「気が強いっていうものじゃないぞ。お前は寝ていたから知らないだろうが、俺はほうきで何回も叩かれたんだ。……まあ、悪い人間ではないようだが」


 放火魔騒ぎなどで治安が悪い夜のカルチェ・ラタンを道案内してくれたのだから、文句を言いながらも困っている人は助ける性分なのだろう。今度会うことがあったら、ちゃんと礼を言わなければとファンは思うのであった。


「さあ、学院に帰るぞ。あと一時間もしたら、空が白み始める」


「お姉様の手がかりは全くつかめませんでしたね。ひっく」


「半分はお前のせいだぞ。何せ、酔っ払いの世話を焼きながら迷子になっていたのだからな」


「め、面目ない……」


「やはり、昼間に何とか行動できる方法を考えよう。夜では行ける場所も時間も限られてくる」


 そう主従が話し合いながら学院への帰路を歩いていたとき、遠くから複数の悲鳴が聞こえてきた。


「む? 何だ?」


「さっきの声はモンテーギュ学院の方角からですね。何やらあそこだけ明るい……」


「おい、見ろ。火だ。火事だぞ。モンテーギュ学院が燃えている!」


 叫ぶと同時にファンは走り出していた。「あ、ファン様!」とナタンも慌てて主人の後を追う。だが、まだ酔いが完全に醒めていないため、足がふらふらで満足に走れない。


「ファン様、ファン様。ち、ちょっと待ってください」


「火事だ。学院の建物が燃えている。あの悲鳴は誰かが助けを求めているんだ」


「危ないですよ、ファン様。ファン様は隣の聖バルブ学院の学生なのですから、わざわざ危ないことに首を突っこむ必要はありませんよ」


 ファンはナタンが止めるのも聞かず、モンテーギュ学院の前まで来たが、門が閉まっていて入れない。


「塀をよじ登るしかないか」


 そう呟き、ファンは石塀に目をやった。そのとき、塀から飛び降りる人影を目撃したのである。


「誰だ!」


 そう叫んだが、人影はカルチェ・ラタンの夜の闇に走り去っていった。ファンは後を追おうとしたが、三歩先の地面から小さな火の柱が突然ぼうっと立ち、ファンの前髪を若干焼いたのである。


「な、何だ? さっきのは……」


 火はすぐに消え、火柱が立った場所を足で叩いてみても何の異常もない。あれは、もしかして、母と同じ……。


「火事だ! 消せ! 消せ!」


 塀の向こう側ではモンテーギュ学院の学生たちが怒鳴り、喚き、悲鳴を上げ、恐慌状態になっていた。


「そ、そうだ。こんなことをしている場合ではない!」


 ファンは急いで応援に行かねばと、石塀の積み重なった石と石のすき間に手と足をかけたが、急に後ろから肩をつかまれた。


「邪魔するな、ナタン! 仲の悪い学院同士でも、こういう時は助け合わないといけなんだ!」


 ナタンが自分を止めようとしているのだと思ったファンは、そう言いながら振り向いた。しかし、そこにいたのはガノレスだった。夜明け前に学院へ戻ろうと、売春宿から帰って来たのだ。


「じ、助教授」


「ファン君。厄介ごとには関わらないのが吉ですよ。聖バルブ学院のあなたが出て行ったら、おそらく、ファン君が放火の犯人だと言いがかりをつけられるでしょう」


「まさか。証拠もなく、そんなわけ……」


「それぐらい、うちの学院とモンテーギュ学院は犬猿の仲だということです。さあ、帰りましょう」


「で、ですが……」


 あまりにも薄情なガノレスの言葉に不満を抱いたファンだったが、ガノレスに左肩を、ナタンに知らぬ間に右腕をつかまれていて、二人がかりでモンテーギュ学院の塀から引き離されてしまった。


「ナタン。お前、主人を裏切るつもりか」


「ファン様。落ち着いてよく見てみたら、それほど大きな火事じゃありませんよ。あれなら、すぐに消火されます。ファン様が応援に駆けつけるほどのものではありません」


 ナタンにそう教えられて、ファンは塀の向こうで舞っている火の粉を見た。たしかに、火の勢いは弱く、モンテーギュ学院の学生たちの先ほどまでの慌てようも少しはおさまってきている。しかし、


「だからといって、助けに行かなくていいという理由にはならない」


「ファン様は昔からそうですが、自分のことよりも他人のことを優先しすぎです。大事なお体に火傷を負ったと聞けば、お父上が悲しまれますよ」


 ファンは、父と聞いて「ぐっ」と唸って顔を歪めた。そして、恨めしそうにナタンを睨んだのである。


(ナタン。父の名を出すのは卑怯だろう)


 ナタンはファンの気持ちを察しているらしく、申し訳なさそうな顔をしながら、ファンを聖バルブ学院のほうへと引っ張っていくのであった。

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