(Happily ever after)
「優!」
私が台所に飛び込むと、優は不思議そうに振り返った。彼の複雑な名前は私には発音できなかったから、私は優と呼ぶことにしている。ユーハンス、の頭の部分をとって、"ユウ"だ。
「ああ、舞。おはよう」
「おはよう。……じゃなくて! 今日は私が朝御飯作るって言ったのに、どうしてアラーム止めちゃうの!?」
慌てて駆け寄ると、彼の手の中のフライパンには、綺麗な出し巻き卵が乗っていた。
「舞が気持ち良さそうに寝てたから」
「優だって、ちゃんと寝なきゃ駄目だよ! 昨日も結局私が先に寝ちゃったし、優は寝たの遅かったんじゃないの?」
優は今、あの二駅先の電気屋で、パソコンの整備士として働いている。共働きで、しかも帰ってくるのは彼の方が遅いというのに、朝御飯を作らせることになってしまうなんて信じられない。
「大丈夫だよ。俺は寝なくても平気だし」
彼はしれっとそんな嘘をついて、卵焼きをナイフで切り分ける。
「嘘! もう人間と同じ体にしてるんだよね? ちゃんと寝ないと駄目だよ!」
「大丈夫だって、本当に」
彼は困ったように笑っていたかと思うと、出汁巻き卵を一切れつまんで、私の唇に押し当てた。ふわりとおいしそうな匂いが鼻腔をくすぐって、私は思わず口を開く。出汁巻き卵が口の中に転がされた。程良くだしの効いた卵が、口の中でふわりととろける。
「おいしい」
思わずそう声を上げると、優は嬉しそうに笑った。
「良かった。さ、朝御飯にしよう。早くしないと、遅刻だよ」
「うん。じゃあ私、緑茶を入れるね」
今日の朝御飯は和食のようだから、緑茶がいいだろう。緑茶の葉を摘んで、急須に入れる。
「まーいっ」
ふいに後ろから抱きしめられて、私はびっくりして急須を落としそうになった。優は私の手に自分の手を重ねて、素早くそれを受け止めた。彼の大きな手が、私に触れる。それだけで、胸がどきどきする──。
一緒に暮らし始めてもうすぐ一月が経つのに、彼が私に触れることに、抱きしめてくれることに、全然慣れない。
美雪に言ったら、それが恋だって言ってたけど、そんなものなのだろうか。
彼の傍にいると、いつもドキドキして苦しい。
だけど、言葉では言い表せない程に、とても幸せだ。
結局、私に一年前の映像を見せてくれたあの日以来、お父さんが私にくれたあのパソコンは、ぷつりと動かなくなった。やっぱり元々、一年前にはもう壊れてしまっていたのだろう。それでも、最後に一度だけ、あのパソコン自身が見た記憶を見せてくれたのは──九年間共に過ごしたあの子からの、最後の贈り物だったのかもしれない。
あの子を捨てるのは何だか忍びなくて、あのパソコンは今もリビングに置いてある。多分、私と優が死ぬ時まで、あのパソコンはパソコンデスクの上に鎮座しているのではないかと思う。
引越しも、止めることにした。パソコンの整備士としてかなりの腕を持つ彼が、私なんかよりもずっと多い給料を稼いできてくれるようになったから、今のまま、この家で暮らしていけそうなのだ。優は、いずれ家族が増えたら、大きい家が必要になるのだから、このままでいいと思うよ、と言う。彼は人間ではないのに、私たちの間に子どもなんて出来るのかな? そう問い掛けたら、彼は曖昧に笑っていた。
「……そういえば、優。本当にその姿で良かったの?」
私が振り返ると、優が不思議そうに私を見下ろした。
結局彼は今、あの一週間を過ごした時と同じ、白瀬拓真にそっくりの容姿で日々を過ごしている。
「いいんだ、これで。──舞に初めて会った時の姿がこれだったから、結構思い入れがあるんだ」
優はそう言って、ふわりと笑った。私の大好きな優しい笑顔を向けられて、胸がとくんと甘く高鳴る。
残念ながら、私は初めて優に会ったときの姿をよく覚えていない。電気屋の店員さんに、直せるかは分からないけどやってみます、と言われて嬉しかったことは覚えているけれど、その時の店員さんがどんな顔だったかまでははっきり覚えていないのだ。
ただ、私の家で初めて優に会ったとき、どこかで見たことのある顔だと思ったのは、白瀬拓真に似ているからという理由だけではなく──もしかしたら、電気屋で会ったときの彼の姿が、記憶の片隅に残っていたからなのかもしれない。
「優、ずっと傍にいてね」
優の胸にこてん、と頭を預けたら、殊更に強く抱き締められた。
「うん、もう離さない。……好きだよ」
彼のその言葉に、嬉しいけれど恥ずかしくなって、頬が熱くなっていくのを感じる。
「私も、大好き」
囁くようにそう返したら、額に羽根のようなキスを落とされる。私は、ぎゅうっと目を瞑った。
優の腕の中にいると、胸がドキドキしておかしくなってしまいそうだ。心がとても温かく満たされて、幸せだなあ、と思う。
──私には、彼がいったいどういう生き物なのか、正直なところ良く分からない。だけど、彼は私と同じように年を取って、一緒に人間として生きていきたいと言ってくれた。
私はそれが嬉しくてたまらない。
これから先もずっと一緒にいられたら、それだけでもう、十分すぎるほどに幸せだ。
私のパソコンが人間になりました。 [完]




