胸に秘めるもの1
王妃の執務室にある小さな執務机には、小さな鉢植えが置かれている。コレットの手のひらに収まるほどの大きさで、シンプルな青い陶器の鉢に植えられた白い花が二輪。ラッパの形にも似た小さな花が寄り集まって一つの花を成しているこれは、陛下がコレットに贈ったものだ。先日のお出かけの折、摘んだ花を台無しにしてしまって悲しむコレットを見、せめてもの慰めになればと陛下が命じて取り寄せたもの。
この花はお菓子のような甘い香りを持っているので、執務中でもお腹が空いてしまうのがちょっと玉に傷。けれども、あれから沈みがちだったコレットの気分を上げるには、十分すぎるほど素敵な贈り物になっている。陛下は女心を掴むのが上手だ。
コレットは王妃として、ただいまお仕事の真っ最中。左に置いてある書状の束から一つを取り出して読み、文末にある空白の場所に名前をサインしていく。羽ペンの扱いにも手慣れたもので、サラサラとなめらかに動く。かなり板についてきたものである。
小さな案件から大きなものまで、毎日出される申請書や報告書の数は多い。
最近は使用人同士の喧嘩の始末書なども、コレットに回ってくるようになった。喧嘩と言っても小さなもので、お互いの勘違いから始まったような、落ち着いて話し合えば収まるものばかり。多分重大なものは陛下にまわっているのだろう。そんな激しい喧嘩があるかどうかは知らないが。
すべての書状に目を通して可否を判断し終わり、コレットは小さな息をついて壁に目を向けた。
そこには小さな振り子時計があり、針は午後二時の少し前を示していた。お茶の時間までには、だいぶ間がある。コレットは扉の前に立つと、廊下にいるであろう者に声をかけた。
「今から書庫に行きます」
アーシュレイからは呼び鈴を鳴らすよう言われているが、このほうが手っ取り早い。すぐに用事が伝えられるから、事がスムーズに進むのだ。
裏山で襲われてから警備が厳重になっており、廊下には護衛の騎士が控えている。コレットが一歩出ればスッと後ろについて、周りに鋭い視線を配るのだ。
書庫までのほんのわずかな距離でも近衛の騎士がつくなんて、庶民のコレットにすれば、お手数をかけてしまい申し訳なく思える。なぜなら、城の中ならば安全だと思っているからだ。山の中のように隠れる場所もないし、騎士以外に弓矢や剣などを持つ者がいれば速攻で捕らえられるし、なにより人目が多い。けれど、陛下の考えは違っていて、襲われた日の夜にしっかり言い含められていた。
あの夜、いつものように部屋に来た陛下は……『少々調べてもいいか?』と言いながら、窓際のひじ掛けの椅子に座って刺繍をしていたコレットの体をスッと抱き上げて、ソファにそっと下ろしたのだった。
そして、『え?』とか『あの』など戸惑いの声を上げるコレットの肌に、指先で丁寧に触れてきた。頬、首筋、デコルテ、腕、それに足までも。どこかに傷がないか、調べているかのように。ツーッと肌を滑る指先からは甘い熱が伝わってきたけれども、陛下はとても真剣な表情をしていた。
最後にコレットの指先に唇を落とした陛下は、とてもホッとしたような表情をして言ったのだ。
『これからは、私が傍にいるとき以外、常時騎士をつけることにする』
『え……でも、お城の中は、安全でしょう? アーシュレイもいますし、外出するときだけでいいです』
騎士たちはお城の見回りや剣の鍛錬、それに近衛の騎士としての仕事などでとても忙しいはずだ。仮初め王妃の自分についてもらうのは、コレットにはどうにも気が引けてしまう。アーシュレイだけはコレットの素性を知っているので、すごく気楽だからいろいろと甘えてしまうが。他の騎士たちは、コレットが陛下にミルクを浴びせてしまったあのときの娘で、偽物王妃だとは夢にも思ってないのだ。彼らは本気でコレットを敬ってくるだろう。
『駄目だ。君は私の支配下にあるんだぞ。以前わがままを言えとは言ったが、こればかりは聞けない』
『でも、陛下。わたしは……』
『君に、拒否権はない』
唇を指先で止められて、厳しい顔つきでたしなめるように言う陛下の瞳にはぬくもりもあった。陛下にとってコレットは、ガルナシアの大切な民の一人なのだ。守る責務があるのだろうと思う。お沙汰で城にいる身としてはなにも返す言葉がなく、コレットはおとなしく従うしかなかった。
「では、ここで待っていてください。手早く済ませてきます」
護衛の騎士に声をかけて書庫に入れば、いつものごとく時の流れを感じさせる重厚な雰囲気に圧倒される。
たくさんある棚の間を、背表紙を眺めながらゆっくりと移動する。探しているのは、外交の記録が書かれたものだ。今までどんな国の訪問を受けて、どんなおもてなしをしたのか、勉強しておこうと思っている。なぜなら、一週間後に隣国ハンネルから王太子が来て、城に滞在されるからだ。
コレットには初外交となり、王妃としてはどうもてなせばいいのか分からない。陛下は隣で笑っていればいいと言ったが、外交はそんな簡単なものではないと思うのだ。
「えっと……?」
勇んで来たのはいいが、どの書物に外交の記録が書かれているのか、ちっとも分からない。いつも陛下のオススメしてくる書物ばかり選んでいるので、コレットひとりじゃ難しすぎて棚の間をうろうろするばかり。
「やっぱり素直に訊いたほうがいいみたい」
がっくりと肩を落として執務室に戻ろうとすると、どこからか物音が聞こえたような気がした。耳を済ませれば、コト……とはっきり聞こえ、コレットの体がカチンと固まった。
「今のは……なんの音?」
自分以外誰もいないはずの王の書庫の中で、物音などするはずがない。風が揺らした窓の音とは異質なもので、背中に冷たいものが走った。
まさか魔の仕業……? そう思えば、途端に書庫の中が恐ろしい空間に変わる。
ミネルヴァの言っていた『禁じられた書物』が、実は『呪われた書物』で不思議な力を持っており……と子どもの頃に読んだ物語のような世界が頭に浮かぶ。
再びコツンと音がして、コレットの体がビクッと震える。
まもなく正体の分からない音が連続でし始めた。それは、コレットのいる場所まで迷いなく近づいてくるように思える。
カツカツとリズミカルなのは、誰かの足音のようだ。誰かが書庫にいるのだろう。ホッとするコレットだが、同時にぞくっとする。だって、扉を開閉する音がしなかったのだ。じゃあ、この足音は誰の物?
まもなくしてガクガク震えているコレットの瞳に、棚の陰から現れた陛下の姿が映った。恐ろしい空想が一気に消えて、ふぅっと大きな息を吐く。そうだった。王妃の部屋に来るときも、扉の音をさせないのが陛下だった。今は足音が聞こえた分だけマシかもしれない。正体が判明して安心すれば、変なことを考えていた自分が可笑しくなって、クスクスと笑いがこぼれた。
「まったく君は、いつも意外な反応をするな。なにが可笑しい?」
楽しそうに笑うコレットの体を、陛下の腕が囲う。抱きしめているわけではなく背中辺りで手を組んでいるので、コレットの動きが制限されず、笑っていても苦しくならない。
ひとしきり笑った後コレットは、勝手な想像を巡らせて恐ろしくなったことを話す。『禁じられた書物』のことも自然に話していることに気づくが、陛下の表情は特に変わらなかった。
「……陛下も、書物を探しにきたんですか?」
「いや、少し時間が空いたので、一緒に散策をと思ったんだ」
陛下は、コレットの執務室を訪ねたが留守だったので、とりあえず書庫に来てみたと言う。
「ところで、君はこの棚でなにを探していた?」
「外交記録を探していたんです。でも、どれがいいのかさっぱり分からなくて」
「外交か……何もしなくていいと言ったのに、君は本当に真面目だな。だけど、ちょっと的はずれだ」
「え、どういうことですか?」
首を傾げるコレットの手を引いて、陛下は別の棚へと誘った。
「あちらは、法の書物が収まった棚だぞ。外交の記録ならこっちにある。そうだな……これが君にオススメだ」
コレットの小さな手に、朱色の書物がのせられた。陛下は、即位して一年足らずでここにある書物を全部読んだらしく、コレットが希望を言えばすぐに答えが返ってくる。どの書物になにが書かれているのか、全部覚えているみたいだ。陛下は強いだけでなく、とても頭がいい。これくらい朝飯前でなければ、政務などこなせないのだろう。
「ありがとうございます」
「ところで、君は、閲覧を禁じられた書物のことを誰から聞いた?」
「あ……」
声は穏やかだけれど、見下ろしてくる瞳はとても鋭くて、コレットはこくんと息をのんだ。さっき話したときは無反応だったのに、聞き流してはいなかったのだ。
コレットは、ミネルヴァに言われたことと、四角い扉を見つけて開けることを試みたことも話した。
「なるほど、君はなかなか好奇心旺盛だな」
そう言って口角をあげた陛下は、コレットの手を引いて書庫の奥へと進んでいき、四角い扉の前に立った。
「君が見つけた扉はこれだな?」
「はい。陛下は、どんな書物か知っていますか?」
「ミネルヴァの言う書物が、この小さな物入れの中にあることは知っている。なにが書かれているかは知らないが、禁じられてるのは、国王が読む必要のないものということだ」
そんなものがどうして代々残されているかは、先代から正式に書庫の鍵を受け継いでいないので、陛下には分からないという。
「陛下は、どんなものか確かめてみたいと思わないんですか?」
ちょっぴりわくわくしながら尋ねるコレットに、陛下はきっぱりと言った。
「思わないな。必要のないものには興味がないし、時間を割きたくない」
陛下は会議の参加や執務があるうえに、街に視察に出掛けたりするのだ。合間を縫って、騎士団とともに剣の鍛錬をしているはずだ。ちょこちょこっと執務をしてお茶を飲むコレットより、はるかに忙しい人だ。
「陛下は、仕事以外にはなにも興味がないのですか? 趣味はありませんか?」
「そうだな。私が今興味があり、全部を知りたいと思うももならば、たったひとつだけある」
「ひとつだけ? それは、なんですか?」
「ひとことでいえば、謎めいたもの。手に入れたくても、なかなか手を出せないものだ。強引に欲っすれば、きっと壊れるだろうな。まったくもって、難しいものだ」
陛下の瞳には憂いがあるように見える。狼と呼ばれるほどに強く、しかも一国の王であれば、ひとこと命じるだけでなんでも手に入るはずだ。そんな彼でも難しいものがあるとは、いったいなんだろうか。
紫色の瞳の中心には、コレットが映っている。けれど今の陛下の心中には、ほしいものが浮かんでいるのだろう。切ない瞳をさせるほどに、欲しているもの。それがなんなのか知りたいけれど、コレットには尋ねることができない。持っていた書物をぎゅっと抱きしめた。
「さあもう戻るぞ。君の部屋には、お茶が運ばれてくる頃だ。私も時間切れだな。執務に戻る」
陛下に背中を押されて書庫を出て、お互いの執務室へ戻った。
王妃の執務室に入れば、途方に暮れた表情のマリアがワゴンの脇に立っていた。時計に目をやると、お茶の時間をとうに過ぎていた。
「マリア、ごめんなさい。お茶は冷めてしまったかしら?」
「いえっ、大丈夫ですっ。すぐにお入れします。少々お待ちください!」
マリアが入れてくれたお茶を飲んで、陛下の“ほしいもの”発言を頭から懸命追い出し、コレットは外交記録のページをめくった。




