いつかこの手を離してあげられますように
夕暮れ時の庭園に秋の冷たい風が吹き抜け、花々や香草を揺らした。
ダリアやアイスバーグが色鮮やかに咲き、ラベンダーやディルが快い香りを放つ。よく手入れされた庭園はどこに居ても目を楽しませ、良い香りに満ちていた。
ステラが庭園の手入れ状況を一通り見終えた頃には日が沈みかかっていた。空気はひんやりと冷たく、見回りについてきた侍女のリリーは肌寒そうにしていた。
「先に屋敷に戻っていてください、私も後で戻ります」
「ですがお嬢様……」
リリーは寒さに震えながらもその場を動かなかった。彼女の言わんとするところはわかっていた。領主の言いつがあるためステラを一人にできないと言いたいのだ。
「そんな薄着では寒いでしょう。私は屋敷からよく見える場所に居ます、どこにも行かないと約束するから」
「……承知いたしました。お嬢様もお早めにお戻りくださいね」
リリーが屋敷へ戻るのを見届けて、ステラはベンチに腰掛けた。白く塗られた木製のベンチもまたひんやりとしていたが、着込んでいたのであまり気にならなかった。何より貴重な一人の時間を手に入れて、気分が上がっていたものある。
目を閉じると植物の香りがますます強く感じられた。
明日の区長会議の日程を思い起こし、それぞれの段階で必要な準備を終えたことを再確認し、ほっとして目を開けた。
「こちらでしたか、お嬢様」
肩がびくりと跳ねたのは完全に油断していたせいだった。
ステラの反応に対し、男は傷つくふりもしなかった。ただじっと琥珀色の瞳でこちらを見下ろしていた。それは屋敷の人々の眼差しの奥に在るもので、一瞬たりともステラから離れてはくれないものだった。
「キアラン」
名前を呼んで、ようやく男は表情を和らげた。
男の名前はキアラン・ブラックウェル。彼こそがこの屋敷の主人であり、ここストーンフェルトの領主だった。貴族ではなく平民の生まれだが、王家に仕える騎士であり、ウィンターミュート家の反乱鎮圧の功で叙勲された。強大な魔物の討伐や剣術大会での優勝などでさらなる手柄を立てたことで、サー・キアランのことを知らない者は今やアストラム王国には一人もいないほどだった。
戻るのが早かったんですね、と心の中でだけ言った。口に出せば彼が傷つくことが明白だったからだ。
「ケルピーの討伐はどうなったんですか?」
「すぐに終わりましたよ」
キアランは何てことないように言ったが、ケルピーは危険な魔物だった。馬の形をしており、水辺に誘き寄せた人間を溺死させて食べてしまう。ストーンフェルトを流れる運河でも度々目撃されるありふれた恐るべき危険だ。
ステラは彼が怪我をしていないかじろじろ見てしまった。それに気づいたキアランは、風のように軽やかに笑った。
「かすり傷一つ負っていません。私にはこの剣もありますから、ご心配には及びませんよ」
キアランは腰に黒い剣を佩いていた。それは魔物殺しと言われる世界に七つある魔剣の一つだった。地上のあらゆる魔物の血から取り出した鉄で打ったとされる魔剣の中で最も血腥い伝説を持つ。さらなる血を求めて魔物の接近を持ち主に知らせるため不覚を取ることはないと、王から魔剣を賜ったばかりの頃のキアランが少年のようにきらきらした目をしながら教えてくれた。
「それよりお嬢様、夜風はお体に障りますから屋敷に戻りましょう。ほどなくご夕食の用意も整いますから」
キアランは手に持っていたウールのケープをステラの肩にかけた。ステラは寒さを感じていなかったが、せっかくの厚意を無下にはできなかった。生まれ育った城では真冬に冷水を浴びせかけられた時でさえ誰も気にかけてくれなかったのだから。
古めかしい石造りの屋敷に近づくにつれて気分が塞いでいった。仕事に集中している時か、わずかばかりの一人の時間でしか、ステラの気分が軽くなることはなかった。
屋敷の中に入ると、気まずそうな顔をしているリリーや他の使用人たちの姿が在った。
「お嬢様」
キアランの声色には、冷ややかなものが混じっていた。それは一瞬で屋敷の空気を変え、使用人たちの表情にも緊張が走った。
「屋敷の魔除けは強力ですが、敷地内でも絶対安全とは限りませんから、お一人にならないでくださいね」
決して、と付け加え、じっとステラを見つめた。
その言葉はステラにだけ向けられたものではなかった。側に控えている使用人たちにも向けられていた。
おまえたち、次にお嬢様を一人にしたら許さない、と。
キアランの背後では意図を汲み取った使用人たちが顔を伏せたり青ざめたりしていた。
「気を付けます」
ステラが答えれば、キアランはすぐに刃のような空気を消して微笑んだ。
食堂に移動するとすぐに夕食がテーブルに並べられた。どの皿にも一口大でない食材はない状態だった。それは食卓にナイフを置かなくて済むようにするためだ。
常に監視されるのも、刃物が遠ざけられているのも、キアランの指示だ。
ごめんなさい、もう死んだりしません、と何度謝っても、キアランは許してくれなかったし、信じてくれなかった。
屋敷に来た頃はこうではなかった。だが、今やステラの生家との違いは、誰もが優しく気を配ってくれること以外、日に日に変わらなくなっていく。原因を作ったのは自分だと理解していたが、キアランに信じてもらえない日々の辛さは筆舌に尽くしがたいものがあった。
夕食を終え、風呂で体を清めて寝室へ向かうと、いつものようにキアランの姿があった。彼はベッドの脇の椅子に腰掛けて窓の外を眺めていたが、ステラの姿を認めると目を細めた。
「今日はどんな一日でしたか?」
ベッドに横たわったステラの手を握り、キアランは問うた。カーテンの隙間から差し込むかすかな月明かりだけが辛うじてキアランの輪郭を浮かび上がらせていた。
「今日はストーンフェルト移住者向けの支援制度の話し合いをして、明日お客様をお迎えするための準備を終わらせました」
ステラはキアランの代わりに領地経営を担っており、日々屋敷で仕事をしていた。特段趣味もなく、休みも取らないので、仕事以外には読書以外ほとんど何もしていなかった。
これがキアランの望む答えではないことはわかっていた。だが、ステラは他の答えを持たなかった。
「いつもありがとうございます、お嬢様」
キアランの言葉はおそらく本心だったが、落胆していることは想像に難くなかった。
今日は楽しかったですか、嫌なことはございませんでしたか、何かいいことはございましたか。お嬢様、生きる理由は見つかりましたか。
昨年の冬にはそういった質問をいくつも投げかけられていたが、いつしかキアランは尋ねてこなくなっていた。彼はもう限界なのだ、失望する余裕すらないほどに。
うつらうつらし始めると、反射的にキアランの手を握り返してしまった。キアランは何の反応も示さず、闇に溶けるようにその気配ごと消していた。
誰かが傍に居てくれないと眠れない幼子でもないのにこうされていると、自分がステラ・ブラックウェルではなく、いまだにステラ・ウィンターミュートであるような錯覚を覚える。父が君臨していたグラキエース城で暮らし、キアランが護衛騎士だったあの頃のように。
この屋敷の誰もがステラをお嬢様と呼び、奥様と呼ぶことはない。それはひとえに屋敷の主人であるキアランがその様に振舞っているからだ。
キアランは領主となった今でも、ステラの前ではウィンターミュートに仕える騎士だったときと変わらない振る舞いをしている。忠誠を誓ったステラを守る騎士で在り続けること、それがキアランの望みだからだ。
しかし、二人の関係はとっくに昔のそれとはかけ離れている。かつてステラはウィンターミュート公爵の一人娘であり、王太子の婚約者だった。だが、ウィンターミュート家は反逆罪によって滅び、王太子との婚約も破談になったため、今のステラは何も持たないただの人間に過ぎなかった。
ステラが処刑されなかったのは、王室の命で十年に渡りウィンターミュート家に潜入していた功臣サー・キアランが褒賞としてステラを欲したためであり、そして様々な思惑を抱いた王室や貴族たちの駆け引きの結果だった。
「おやすみなさい、お嬢様」
ステラの意識が落ちる寸前にキアランがささやいた。安らぎの色を帯びた、解放の喜びの言葉だ。彼は今日一日をステラが生き延びたことを毎日心の底から安堵するのだ。
ステラに確固たる生きる理由はなかったが、願うことはあった。
この手を離してくれますように、この手を離してあげられますように。
明日こそは、そう思いながら、ステラは眠りに落ちた。




