第三七話 嵐の後の宴と、静かな夜の告白
嵐のような朝の宴の、片付けを終えて少ししたその時だった。
家の戸口を、誰かが訪ねてきた。それは、先ほど梅さんを乗せていった不動産屋の男だった。
「梅様が、皆さん全員来るように、と。しかも、帰り支度をして荷物を全て持ってくるように、とのことでございます」
訳が分からないまま、一行は言われた通り全ての荷物をまとめ家の外へ出る。
ゴードンが、スタンバイした状態で、人力車と共に待っていた。
魔車と、人力車に分乗し、十分ほどで着いた先。
そこは、街の中心街に立つ今にも崩れ落ちそうな、古ぼけた三階建ての雑居ビルだった。
梅さんは、そのビルの前で、満面の笑みで一行を出迎えた。
「おう、来たかいな。ここに新しいビルを建てることにしたんじゃ」
そして彼女は、その壮大な計画を語り始めた。
このビルを取り壊し、新しいビルを建て、その一階に薬局を入れる。
そして、上の階は全てテナントとして貸し出すのだ、と。
もはや、そのあまりにも迅速で、先を見据えた経営手腕に、誰も驚くことすらしなかった。
「そんで、ワシらはここから帰るからのう」
梅さんは、そう言うと、ゴードンの人力車にひょいと乗り込んだ。
そして、またしても、嵐のように去っていった。
その後ろ姿を、見送りながら一行は、ため息しか出なかった。
「……とりあえず買い出しにでも行くか」
龍也は、気を取り直し銀行へと向かった。今夜の食費くらいはおろしておかないと。
そして、ATMで残高を確認した龍也は、自分の目を疑った。
「「⁉」」
後ろを振り返り皆の顔を見る。
何度、見直しても、金額は変わらない。
「……ひゃ、百万……!?」
役員報酬。一体あのばあさんは、どれだけの額を稼ぎ出しているというのか。
その、あまりにも現実離れした金額を前に、じんたとゆうこが爆発した。
「ひゃ、百万!百万だべか!タツヤさん、おらこんな大金生まれて初めて見たど!」
じんたは、まるで自分の金のように、大興奮で、その場でぴょんぴょんと飛び跳ねている。
「梅さん、一体何者なんじゃ!こりゃあもう、ただの薬屋のばあさんじゃ、ないわい!経済を牛耳る闇の女帝じゃ!」
ゆうこも、目をキラキラと輝かせながら、腕をぶんぶんと振り回している。
「これだけあれば、最強の武器も、防具も、買い放題だべ!」
「いやいや、まずは、美味いもん腹一杯、食わんといけんじゃろ!」
「だったら、あのレース場で、一発大儲けするのも夢じゃないべ!」
「それもええのう!」
二人の妄想は、どこまでも、どこまでも、膨れ上がっていく。
もはや、借金返済のことなど、頭の片隅にもないらしい。
その、あまりにも能天気で、騒がしい二人の様子を、龍也はぐったりとした、疲れた目で見つめていた。
(……俺はこの二ヶ月、トイチの利息に、どれだけ怯えていたと、思ってやがるんだ……)
昨日から本当に、心を休める暇がない。
シンジだけが、そっと龍也の隣に来て「……お疲れ」と共感の視線を送ってくれた。
龍也は、その言葉に、心の底から救われたような気がした。
その日の買い出しで、改めて、ゆうこの回復祝いのための豪華な食材を仕入れた。
もちろん、とびっきりの美味い酒も、忘れずに用意して。
午後も、日が傾き始めた帰り際。
一行は、それぞれのバイト先に、顔を出した。
龍也は『HEAVEN'S HELL』の準備中のママに、これまでの事情を話し、今夜バイトを休ませてもらえないかとお願いする。
「あら、大変だったじゃないの!もちろんよ!ゆうこちゃんにも、よろしく言っといてちょうだい!快気祝いに今度、シャンパンでもご馳走するわよん!」
ママは快く、承諾してくれた。その優しい言葉に、龍也の心も少しだけ軽くなる。
じんたも、ギルドに寄り、マスターに挨拶をしていった。
そして、新しい手品のレシピをもらい、仲間募集のチラシの状況を尋ねる。
するとマスターは、にやりと笑った。
「おう、じんた。一人あんたたちのチラシを見て、会いたがってるって奴がいるぜ」
その一言に一行の空気が変わった。
待ちに待った魔法使い。一体どんな人物が現れるのだろうか。
明日その人物と、会えるよう手配をしてもらった。
家路につく。
お金のこと、借金のこと、そして新たな仲間候補のこと。
あまりにも、色々なことが、一度に起こりすぎて、龍也の心はもはや、喜びと、驚きと、疲労で、フラフラだった。
しかし彼は気を取り直した。
今夜は、宴だ。ゆうこの快気祝い。そして、これまでの全ての苦労を、ねぎらうための特別な宴なのだ。
家に帰り着くと、早速その腕によりをかけて準備を始めた。
市場で仕入れた、新鮮な食材。そして、とびっきりの美味い酒。
仲間たちの、喜ぶ顔を思い浮かべながら、一心不乱に包丁を握る。
その夜、温かな明かりと、楽しげな笑い声が満ちていた。
テーブルの上には、腕によりをかけて作った、豪華な料理が所狭しと並べられている。
宴が始まった。
最初は穏やかに話が飛び交っていた。
「この豚、めっちゃ美味いがな!」「ゆうこ、熱が出た時は、本当に、心配したんだど……」「そういえば、シンジと、ゴードンさん、なんだか、妙に、仲が良く見えたな?」
そんなたわいもない会話が、酒と共に場を和ませていく。
やがて、酒が進むにつれて、いつもは口数の少ないシンジも、静かながら話に参加し始めた。
いつものクールな雰囲気はすっかりと消え、どこかフランクな素顔の彼がそこにいた。
時折、彼がぽつりと新宿での日々を懐かしむように話し出す。
「……あの街も、悪くなかったな」
その言葉をゆうこは、聞き逃さなかった。
「ほうほう。そりゃ新宿に、ええ人がおるからじゃろう?なつみちゃんのことかいな?」
ニヤニヤと、茶化すゆうこに
「ち、違う!」
と、慌てて否定する。しかしその顔は、満更でもないというように、正直に笑っていた。
「まんざらでも、ないみたいだべな!」
じんたもそれに乗っかってくる。
あまりにも微笑ましく、そして幸せな光景に、龍也は、心の底から笑った。
ああ、なんていい夜だろうか。
宴は、もう最高潮に盛り上がっていた。
酔いが回り、上機嫌になったじんたが、テーブルの横で奇妙な、しかし、どこかキレのある踊りを、踊り出した。
シーフだからか、その身体は、驚くほどに柔らかい。
プロのダンサーでもやれそうな、見事な動きだった。
まあ、足元はかなりフラフラに、酔ってきていたが。
宴の熱気が、少しずつ静まっていく。
床では、踊り疲れたじんたが、幸せそうな顔で眠ってしまっていた。
シンジも、「少し、眠い」と、静かに自室へと戻っていった。
テーブルの上にはまだ、酒が残っている。ゆうこは、その手酌で、ちびちびと飲み続けていた。
「なあ、タツヤ。もうちいとだけ付き合わんか?」
龍也は、眠っているじんたに、そっと毛布をかけながら頷いた。
「ああ。まだ、眠くはないから、いいよ」
二人はしんみりと、差し向かいで飲み始めた。
たまに、テーブルの上を片付けながら、交わされるのはたわいもない会話。
「体調は、もう、本当に大丈夫なのか?」
「ああ、ええよ。心配かけたのう」
あの時、本当に心配したことを改めて伝えた。
そして、今後また、同じようなことがあった時のために、ゆうこが持っている薬の種類や、使い方を、自分たちにも分かるようにしておいてほしいと、真面目な話をした。
その、龍也の言葉を遮るように。
不意に、ゆうこが言った。
「……なあ、タツヤ。あんた、わしのこと、どう思うとる?」
時が、止まった。
彼女は酔ってはいるが、その目は真剣だった。真顔で、龍也の答えを待っている。
なんて答えればいいのか。龍也の頭は、さすがに酔いで、うまく回らなかった。
ただ、静かに、正直な気持ちを、話し始めた。
「……かけがえのない、仲間だ。もう、ゆうこなしでは、このパーティは、やっていけないだろう」
「……んで?」
彼女の顔が、テーブル越しに、ぐいっと迫ってくる。
「……時々、女として、見てしまう時が、ある」
言ってしまってから、龍也は、はっとした。だが、もう言葉は戻せない。
「……だけど、俺には、どんなに冷めていても、妻がいる。それに、この最高の、仲間という関係を、壊したくはない。……おかしな話だが、感情はある。ただ、どうすることも、できない」
目の前に迫った彼女の顔は、まさしく、一人の「女」の顔だった。
龍也の、その拙い告白を聞き終えると、彼女は、
「ふう〜ん」
と、ゆっくり身体を、元の位置へ戻した。
そして、グラスの酒を、くいっと、一口飲んだ。
その顔は、満更でもないというように、少しだけ嬉しそうに見えた。
「……わしはな、……好きやぞ、タツヤ。……一人の男としてな」
「……じゃがな、別に、どうこう、なりたいわけじゃ、ないんよ。……心に、惚れた男がおる。そして、その男と共に歩んでいける。それだけで、生きていけるんじゃ。色恋なんぞ、したいわけじゃない。……このままでええ」
それは、龍也の言葉よりも、ずっと漢らしい、潔いセリフだった。
(……こんな、しがないおっさんのどこに、惚れたんだか)
そう思ったが、その理由は、聞かないでおこうと思った。
それは、野暮というものだろう。
「……ありがとう」
龍也は、ただ、それだけを伝えた。
そして、そっと、手を出しお互い握り締めた。
ゆうこは、何も言わずに、静かに立ち上がると、自室へと戻っていった。
龍也は、一人、残されたリビングで、もう一杯だけ、酒を飲むと、その温かい、手の感触を胸にしまい込みながら、自分も、静かに床についたのだった。