第56話 「“彼女”って言葉」
放課後。
夕暮れ前の廊下。
窓から差し込むオレンジ色の光が、 床を長く染めていた。
玲緒菜は両手でノートを抱えながら、 一人で資料室へ向かっていた。
玲緒菜
担任に頼まれたプリント整理。
本当なら面倒なだけの仕事。
でも今日は、 少しだけ気が楽だった。
――最近、学校楽しいかも。
そんなことを考えてしまうくらいには。
曲がり角を抜けた瞬間。
前方から女子の声が聞こえた。
「え、マジで?」
「うん、たぶん付き合ってるって」
玲緒菜は反射的に足を止める。
話しているのは、 別クラスの女子二人。
こちらには気づいていない。
「黒崎くんが名前呼びしてるの見たって」
「えー、意外すぎ」
「でも最近ずっと一緒じゃん」
玲緒菜の心臓が止まりそうになる。
――まさか。
「玲緒菜ちゃんだっけ?」
その名前が出た瞬間、 玲緒菜は固まった。
女子たちは楽しそうに続ける。
「黒崎くんって誰にも興味ないタイプだと思ってた」
「わかる。“彼女できる”とか想像つかない」
「でもなんか、玲緒菜ちゃん相手だと雰囲気違うらしいよ」
“彼女”。
その単語が、 頭の中で何度も反響する。
玲緒菜は思わず後ずさった。
その時。
「……何してんだ」
低い声。
玲緒菜がびくっと肩を震わせる。
振り返ると、 そこには雷斗が立っていた。
黒崎雷斗
「ら、雷斗くん!?」
女子二人も気づく。
一瞬で空気が凍る。
「げっ……」
「く、黒崎くん……」
雷斗は無表情のまま、 玲緒菜を見る。
「立ち止まってるから邪魔」
「え、あ、ご、ごめん……」
玲緒菜は慌てて動こうとして、 持っていたノートを落とした。
「あっ」
プリントが散らばる。
最悪だった。
玲緒菜はしゃがみ込む。
「ごめん、ごめん……!」
その横で、 雷斗も無言でプリントを拾い始めた。
女子二人が明らかに気まずそうな顔になる。
「じゃ、じゃあ私たち行くね……!」
逃げるように去っていく。
廊下に静けさが戻る。
玲緒菜は俯いたまま、 プリントを集める。
心臓がうるさい。
さっきの会話が頭から離れない。
“彼女”。
その響きだけで、 顔が熱くなる。
雷斗が拾ったプリントを差し出す。
「ほら」
「……ありがと」
受け取る時、 指先が少し触れる。
また心臓が跳ねる。
雷斗は玲緒菜の顔を見る。
「お前、顔赤い」
玲緒菜は即座に逸らす。
「赤くない!」
「赤い」
「夕日!」
「廊下だぞ」
「う……」
言い返せない。
雷斗は少しだけ目を細めた。
「……なんかあったか」
玲緒菜は迷う。
言うべきじゃない。
でも、 隠せる気もしない。
数秒黙ってから、 小さく呟く。
「……さっき」
「?」
「“彼女”って……聞こえて……」
言った瞬間、 玲緒菜は自分で恥ずかしくなる。
何を言ってるんだろう。
でも。
雷斗は笑わなかった。
茶化しもしない。
ただ少し黙って、 壁に寄りかかった。
「……噂か」
「うん……」
気まずい沈黙。
玲緒菜は慌てて言う。
「わ、私ちゃんと否定するから!」
雷斗が視線を向ける。
「なんで」
「え?」
「嫌なのか」
その聞き方は、 妙に静かだった。
玲緒菜は言葉に詰まる。
嫌……なのか?
考えたこともなかった。
ただ、 “彼女”って言葉の破壊力に、 心が追いついてないだけで。
玲緒菜は視線を落とす。
「……嫌、とかじゃなくて」
「じゃあ何」
「わかんないの!」
思わず声が大きくなる。
雷斗が少し目を丸くした。
玲緒菜は顔を隠す。
「だって急にそんなこと言われても困るし……! そもそも私たち別にそういうんじゃ……!」
途中で言葉が止まる。
――そういうんじゃ、ない?
じゃあ何なんだろう。
雷斗は静かに玲緒菜を見る。
その視線が、 妙に熱い。
玲緒菜は耐えきれずに言う。
「雷斗くんは嫌じゃないの!?」
数秒沈黙。
廊下を風が抜ける。
夕日が揺れる。
そして雷斗は、 視線を逸らしながら小さく言った。
「……別に」
玲緒菜の心臓が跳ねる。
雷斗は続ける。
「お前が嫌じゃねえなら」
その言葉は、 ぶっきらぼうで。
でも。
どうしようもなく、 優しかった。
玲緒菜は何も言えない。
顔が熱い。
苦しい。
でも嫌じゃない。
雷斗はそんな玲緒菜を見て、 小さく息を吐く。
「つーか」
「……?」
「お前、分かりやすすぎ」
「っ!!」
玲緒菜は真っ赤になる。
「うるさい!」
雷斗が少し笑う。
玲緒菜は完全に悔しい。
「また笑った!」
「笑ってねえ」
「絶対笑った!」
「気のせいだろ」
「それ禁止!!」
廊下に、 二人の声が小さく響く。
その距離は、 もう“ただの友達”と言うには、 少しだけ近すぎた。




