第51話『差が見えた日』
翌日。
本格撮影初日。
朝のスタジオは異様な緊張感に包まれていた。
照明はすでに完成している。 カメラは静かにセットされている。 あとは——役者だけ。
結衣はメイク中からずっと固まっていた。
「心臓の音、聞こえそう……」
ヘアメイクスタッフが笑う。
「それは聞こえないから安心して」
安心できる要素ではなかった。
その頃、凛はすでに準備を終えていた。
姿勢が崩れない。 視線がぶれない。
ただ静かに待っている。
(落ち着いてる……)
結衣はそれを見てさらに焦る。
そこへ監督の声。
「じゃあ、1シーン目いくよ」
静寂。
カチン、とスレートが鳴る。
——開始。
結衣と凛が向かい合うシーン。
物語の中でも重要な場面だった。
最初の一言は結衣。
しかし。
「……っ」
出ない。
喉が詰まる。
空気が重い。
監督は止めない。
「そのまま続けて」
凛は動かない。
ただ結衣を見ている。
プレッシャーではなく、待っている目。
結衣は必死に呼吸を整える。
「……ご、ごめんなさい!」
スタッフが小さく息を吐く。
テイクカット。
再び。
「3、2、1」
——失敗。
また止まる。
また謝る。
またやり直し。
三回目が終わった時。
現場の空気が少し変わっていた。
「天野さん、少し休憩入れようか」
監督の声は優しいが、現実は重い。
結衣はうなずくしかなかった。
控室。
椅子に座った瞬間、涙が出そうになる。
(なんでできないの……)
その時。
ドアが開く。
凛だった。
水を持っている。
「飲む?」
「……ありがとうございます」
結衣は受け取る手も震えていた。
凛は隣に座る。
少し沈黙。
そして一言。
「差、分かった?」
結衣の胸がギュッと締まる。
でも凛は責めていなかった。
ただ事実を言っているだけ。
結衣は小さく頷く。
「……はい」
凛は続ける。
「でも、今のままじゃ終わらないとも思う」
結衣が顔を上げる。
凛は真っ直ぐ前を見ていた。
「最初からできる人なんていない」
「私は……違いますよね」
「違う。でも、伸び方は同じ」
結衣はその言葉に少しだけ救われる。
その時、スタッフが呼びに来る。
「次、行けそう?」
結衣は立ち上がる。
足はまだ震えている。
でも——
凛も立ち上がった。
「行くよ」
短い言葉。
それだけで空気が変わる。
再テイク。
カチン。
——静寂。
結衣は深呼吸を一つだけした。
(全部じゃない)
(ひとつずつ)
凛の言葉が頭に浮かぶ。
一歩。
セリフの最初だけを考える。
それだけに集中する。
そして——
言えた。
途切れずに、最初の一言。
その瞬間。
凛の目がわずかに動いた。
(できるじゃん)
そんな視線だった。
結衣は気づかない。
でも監督は小さく頷いていた。
「OK、そのまま続けよう」
カットがかかるまで。
結衣は一度も止まらなかった。
撮影終了後。
スタッフの空気が少し柔らかくなる。
真優が笑う。
「やればできるじゃん」
結衣は崩れ落ちるように座る。
「寿命縮みました……」
その横で凛が小さく言う。
「まだ始まったばかり」
結衣は苦笑する。
「厳しいですね」
凛も少しだけ笑う。
「ライバルだから」
その言葉は、もう重くなかった。
むしろ——心地よかった。
その日。
二人の距離は少しだけ近づいた。
しかし同時に。
結衣ははっきり理解していた。
(まだ、遠い)
そして凛もまた。
同じことを思っていた。
第52話へ続く。




