第1話 『メイド、拾いませんか?』
委員会で残る、と唯が言ったのは昼休みのことだった。だから今日は一人で帰っている。それだけのことで、特に意味はない。
校門を出て、いつもの角をひとつ手前で曲がる。川沿いの土手道は遠回りのようで、信号がないぶん早く帰れる。十月の夕方はもう暗くなりかけていて、足元の影が遠くまで伸びていた。
「ん? なんだあれ……」
牧歌的な長間川の土手の下。川の近くの草原に、誰かが何故か正座している。黒いワンピースに白いエプロン。頭には白いカチューシャ。
「コスプレの撮影会とかかな」
俺は近づいてみることにする。階段を降りながら、やめた方がいいかもなと思った。
それでも、相手に気づかれない程度の距離までなら、きっと大丈夫だ。
「すげえ綺麗な人だな……顔、整いすぎだろ」
彼女はメイドさんだった。秋の夕風がさらさらと、肩までの髪を揺らしている。
撮影会。いや反省会か何かだろうか。カメラを構えている人間はいない。罰ゲーム。新手の勧誘。順番に当てはめて、考えるのをやめた。世の中には理解しなくていいことがたくさんある。関わらないのが一番いい。
くるりと僕は来た道を引き返す。
「あの、そこのお方」
その距離、数十メートル。背中越しから聞こえる声に、俺の足が止まる。止まってから、止まった理由を探してみる。
好奇心。人間は好奇心に勝てるはずがない。
(一体、どうして俺に気づいたんだ……)
振り向くと、メイド服の女はもう立ち上がっていて、俺の方へと向かってきていた。思ったよりも背が高い。長い足が生み出す歩幅に乱れがない。スカートの裾が揺れて、草を踏む音だけが規則正しく近づいてくる。
「お待ちしておりました。ご主人様」
目の前まで来ると、メイドは一礼した。
顔を上げたとき、正直、ちょっとひるんだ。整っている、という言葉で足りる範囲を越えて整っていた。作り物みたいに、と言いかけて、作り物なら、もう少し愛嬌のある造形になってるだろうと思い直した。夕日の中で、その顔だけがはっきりと見えていた。
「お呼び止めして申し訳ありません」
声も綺麗に通る。アナウンサーというより、何かを読み上げる係の人の声に近い。
「道を聞きたいなら、駅はあっちだけど」
いいえとメイドは首を振った。
「道は存じております。お尋ねしたいのは、もっと大事なことです」
メイドは背筋を伸ばしたまま、こう言った。
「メイド、拾いませんか?」
「……何を?」
「メイドを、です。私を、です。ちょうどいま、拾われたい気分でして」
「自分を猫みたいに言うな」
「猫よりは半端なく役に立ちます」
テンションが低い割には、語彙と距離感がおかしかった。メイドが白魚のような指を、ヌルヌルと折り始める。
「炊事、洗濯、掃除、買い出し、朝のお目覚めの補助、お話し相手、その他ご要望に応じて各種。保証いたします。ご主人様の生活の質は、最低でも三割向上します」
「待て。ご主人様って誰のことだ」
「あなたです」
人差し指がピシッと立てられる。ほぼ即答だった。
話が通じていない、というのとは少し違う。話が、もう済んだことから始まっている。俺が入る前に話は終わっていて、事実の確認だけされている。そういう感じがしていた。
「メイドなら、間に合ってる」
俺は当たり前のように嘘をついた。何か嫌な予感がしたからだ。
「では質問を変えます。今朝、朝食は何を召し上がりましたか?」
「食パンだ」
「焼きましたか」
「こんがりと。俺は真っ黒に焦げたパンが大好きなんだ」
「ダメです。メイラード反応に留めましょう」
ノーモア炭化。メイドが深く頷いていた。
「バターは」
「ある時とない時がある。今朝はない時だった」
「ギルティ。ご主人様、あなたの生活は今、音を立てて崩れています。大崩壊を遂げています。私にはその音が聞こえています」
「大げさだな、お前……」
「大げさかどうかは、三日私を置いてから判断してください。試用期間を設けます。効果にご満足いただけない場合は、全額返金します」
メイドが手に持っていた革の鞄から、契約書のようなものを取り出した。よく見ると、契約条項と注意が書いてあった。
「金取るのかよ」
「取りません。メタファーです」
「めんどくせぇ!」
だめだ。会話のペースが全部向こうにある。俺は反論するたびに一歩ずつ、向こうのペースに持っていかれている。
こういうときの正解は知っている。一撃で終わらせる言葉だ。
「うちは結構です——」
俺は黙って背を向けると、平和に向かって歩き出した。
三歩目で、後ろから足音がついてきた。
「ついてくるな」
「ついていきます。拾っていただけるまで、誠心誠意説明を続けます」
「しつこい。メイドを拾うだなんて聞いたことがないぞ」
「では、雇ってください。このままだと、私、ニートです」
「ハロワに行け! 高校生に雇ってもらおうとするな!」
土手道が終わって住宅街に入るまで、足音が一定の距離を保ったまま消えなかった。信号で立ち止まると、隣に並ぶ。青になると、半歩後ろに下がる。訓練された盲導犬のような動きだった。
(ちょっと様子がおかしい?)
一度だけ、メイドが足を止めたのが分かった。
振り返ると、メイドは川のほうを見ていた。夕日はもう沈みかけて、川面の光は消えかけている。何を見ているのか、俺の位置からは分からなかった。女はすぐに向き直って、何事もなかったように歩き出した。
聞くつもりはなかった。ないはずだったのに、どうしてか口が動いていた。
「……名前は」
メイドは間を置いて、それから答えた。その沈黙の時間にだけ、営業じゃない顔をした——ように、俺には見えた。
「結、と申します。結ぶ、と書いて結です。いい名前でしょう。いただきものなんです」
「誰から」
「さて」
結は少しだけ首を傾げた。
「あまりにも昔のことすぎて、まるで昨日のことのようです」
どっちだよ、と。質問を重ねる前に、家に着いてしまった。玄関の灯りがすでについている。
母がもう帰っているようだった。
流石にここで止めよう。止めた方がいい。俺が鍵に手を伸ばすより先に、内側からドアが開いていた。
「識、おかえり——」
母は俺を見て、それから俺の後ろのメイドを見て、当然のように目を丸くした。
「あら——」
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