挿話:自戒の手紙
『自戒の手紙』
××××君へ
気どっちゃあいけません。
文学者なんてものは全然、これっぽっちも、ちっともエラくなんかないのです。
ある人は、とある本を人生の供として、まるで恋人のように、後生大事に、いついかなる時も、肌身離さず持ち歩いていて、そしてこちらが、ほんの少しでもその御本を悪く言ったりしようものなら、そのある人ってば烈火のごとく怒り狂い、こちらは殺されてはたまらん、とほうほうの体で逃げ出す始末です。
またある人は、とある文豪を、人類の不動の命題に、勇猛果敢に立ち向かい、そして玉砕なされた英雄であるとして、口角に泡までこしらえて、毎日教壇の上から生徒たちに、大変な熱でもって講義を行っております。その熱たるや、かのヒトラーを彷彿とさせるほどと言えば、その凄まじさが少しは伝わるかと思います。
芥川龍之介は言いました。「人生は一行のボオドレエルにも若かない」と。
ならばこちらも言いましょう。「文学は一杯の白飯にも若かない」と。
古今東西津々浦々。様々な文学者が生まれ、様々な傑作名作が生まれました。それには一切否定の余地はありません。『変身』『ファウスト』『こころ』『人間失格』『檸檬』『羅生門』『金閣寺』『人間椅子』『車輪の下』『黒猫』『ライ麦畑でつかまえて』『老人と海』『罪と罰』――まさに目も眩まんばかりのラインナップ。豪華絢爛。実に見事。
しかしある時、一つの天災が訪れたとしましょう。果たしてこれらは、命を救ってくれるでしょうか。
心の支えにはなりましょう。助かった後でなら。だが、非常に残念なことに、私たちは動物。食って出して寝ることが必要な、何らかの手違いで脳がえらく発達してしまっただけの、ただの動物であることを忘れてはいけません。
食わなきゃ、死ぬ。
これは、この世で確認されている、数少ない絶対の、真理の一つであります。
常日頃、文学者並びにそれに追従する評論家の皆々様は、まぁエラそうにふんぞり返っておいでです。その理由は、平和だからです。そこに一発の地震でも起きたとしましょう。一体彼らに何ができますか。やれることといえば、しこたま貯め込んでいらっしゃるであろうお金を、被災地へ寄付するぐらいでしょう。まかり間違っても、市井の代表とばかりに、ナンチャラの集い、みたいなものに参加して、演説なんてしてはいけません。それは“身の程知らず”がピエロの服を着ているようなものでして、おだておべっか媚びへつらいの集団に担ぎ上げられでもしたのか、その生み出した作品の偉大さとは月とスッポンの、勘違い野郎、お山の大将となり果ててしまうのです。
改めて言いましょう。文学作品はエラい。文学者はエラくない。
その文学者が、傑作を生みだしたこと自体は、大変素晴らしいことです。天晴。しかし、だからといって、その彼(彼女)が、大衆から尊敬されるような、規範とされるべき大人物かといえば、違いますでしょう。
エラい人というのは、常日頃、汗水流し、人々の衣食住のために働いている人々であって、文学者、ひいては作家なんぞ、あえて言えば、ずば抜けて文章と物語を作るのが上手い一市井の人、なのであります。
中でも、この世で最も尊敬すべきエラい人は、し尿処理場の作業員の方々でありましょう。彼らがある日突然、ストライキかなんざ起こし、誰一人働かなくなった場合を考えてごらんなさい。どうなりますか。街は汚物であふれ返り、適切な処理もせずに垂れ流すもんだから、河川も今より遥かに汚らしくなります。それはもう目も当てられない惨状です。地上はまさに地獄絵図。本来なら、彼らには、医者と同等の給料が出てもおかしくないのです。それが、やはりこの世の不条理で、その作業の大変さ重要さに比べれば、全然、出ておりません。そう考えれば、彼らは、なんてエラいんでしょう。
対して文学者は。いなくなっても、社会は、動き続けます。出版業界は大打撃でしょうが、それでも、人は生きていけます。
文学者にできること。それはせいぜい、売れる本を書くことで、出版社並びに書店に利益をもたらすこと、ぐらいです。
ヒトノタメ、シャカイノタメ。
再び言いましょう。気どっちゃあいけません。
確かに中には、人の心を救うような作品もありましょう。ですが、あくまでもエラいのはその本であって、その著者ではありません。
仮に君が将来、万が一、天の悪戯か奇跡とやらが起こって、誰かの心を救うような、誰かの人生の支えになり得るような、そんな傑作をものにしたとしましょう。
教訓。
うぬぼれぬよう。
調子に乗らぬよう。
そして何より、くれぐれも、エラくならぬよう。
十分に気を付けて頂きたい。
文学で心が満たされることはあっても、ヤギでもない限り、腹は膨れません。文学で戦争を止めることはできないし、病を治すこともできません。ましてや、人を救おうなんて。それこそ聖書でも創造しないと無理でしょう。ただし聖書は、見方さえ変えれば、大いなる争いの引き金にもなりえちまう代物だということ、留意すべしです。
人様を救うためになんぞの理由で、書いたら駄目です。それこそ傲慢の極致。一世一代の大恥というもの。
文学なんてものは、まず、自分のために書くものです。プロフェッショナルの皆さんだって、ご自分の御本を出版していらっしゃるのは、「誰それに読んでもらいたい」など文言にしつつも、結局のところ、報酬ずばり金銭のため、ひいては、自分のそして家族の生活のためです。ひもじさ貧しさの前では、人類の命題やら作家としての矜持やら、その他諸々の大仰なものは、いとも簡単に霧散するものです。
自分のための次に、誰かのためが来ます。誰かのために書く、ということは即ち、その誰かの暇をつぶすために他なりません。
ひまつぶし。なんと安上がりで俗っぽい言霊だとお怒りでしょう。
ですがね、衣食住足りてもなお、強欲なのが人間です。あれが欲しいこれが欲しい。その様子、飢えてない餓鬼とても形容できましょうか。
あれが欲しいこれが欲しい、というその叫び。要はこう叫んでいるのです。俺の暇をつぶせ、と。
さぁ出番です。大手を振るって書いてやりましょう。全身全霊を込めて、時には命を削りつつ、血がしたたる文字でもって、彼らの暇をつぶすために。
不本意ですか。大丈夫。生きること自体が、少なくとも君にとっては、人生そのものが、不本意のはず。
人生といえば――。
何もかもが上手く行く時もある。何もかもが上手く行かない時もある。後者はいい。前者は注意が必要です。
世の中、善人と悪人がおりますが、残念ながら、悪人の方が圧倒的に多いのが、実情です。そして大抵の場合、狼が羊の皮を被るように、能ある鷹が爪を隠すように、悪人は善人のふりをして近づいてきます。
前述した、何もかもが上手く行く時。君は、彼ら悪人の絶好のエサに、その身を変えてしまうでしょう。
その劇的さたるや、かのザムザに匹敵するほど。
これに関する忠告は一つ。くれぐれも、油断せぬように。
我々は、妖怪“覚”にはなれません。近づいてくるものが狼なのか、それとも羊なのか、判別はまず不可能。ある時突然噛みつかれ、「あっ狼だったのか」と判るのがせいぜいです。そうならないための唯一の手段、それが油断しない、ということ。君は成功を手にするたび、サバンナの人跡未踏の奥へ奥へと進んでいくのです。全身に、果実と肉をたっぷりぶら下げつつ。その果実と肉の名は、人間社会においては“権力と金”と呼ばれています。
さて、ここまでを読んで、君は腹が立ちましたか。それとも退屈しましたか。
後者なら、この拙作は無視してけっこう。ただ前者だったならば、要注意。
何故って人間、何かを言われて腹が立つという時は、大抵正しいことを言われた時だからです。その時、エラくなりかけてやがる、いかんいかん、と己を律するよう。もし手遅れでも、後々含羞と共に、己を振り返る材料くらいにはなりましょう。
それでは失敬。
御健筆を祈って。




