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甘い目薬  作者: 矢水びん
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第1章

 彼はふと、筆を止めた。


 机上の原稿に目を通す。


 なになに。表題は『作家にも芸術家にもなれず』。


 彼はたちまち憤慨した。顔面を真っ赤にして、その原稿を破り捨てた。傍らのゴミ箱は、紙くずでいっぱいになっている。


 どれもこれも読むにたえない出来であった。駄作の方がまだましと思えるほどに。もはや、未完成の作品とさえ言えない、文字が書かれたゴミ、であった。


 彼が小説を書く際には、必ず、愛用のボールペンが用いられる。よって、彼が書く文字はインクで出来ているはずなのだが、最近はどうしたことか、それらから悪臭を感じるようになってきた。気管を患った際の黄疸よりもえぐく、粘っこい悪臭。その臭気に耐え切れず、彼は家を飛び出した。


 たちどころに冷えた夜気が、彼を襲った。


 初冬の頃だというのに、彼は外套さえ羽織らずに、部屋着のまま飛び出したのだった。


 息は白く、たちまち手がかじかんだ。


 それでも、とにかく何かから逃げ出したく、振り切るように、無我夢中で夜の街を疾駆した。


 荒れた息で立ち止まったのは、それからしばらく経ってのこと。時間なぞ判らない。腕時計はしていないし、時計を探そうにも、周囲にはまともな外灯一つ見当たらない。


 息を整え見渡せば、そこは通称“廃墟通り”と呼ばれている、町境ぎりぎりの、オンボロの空き家が立ち並ぶ地域だった。


 絶え間ない地域開発と、過疎化により生まれた廃墟通りには、年中通してわびしさとみすぼらしさが満ち満ちている。そこに夜中、独りで立った彼には、なお一層それらの印象が、他ならぬ自分のことのように思えてきた。


 哀れな物書きとしての、わびしさ、みすぼらしさ。挙句に粗末な部屋着で凍えそうだ。


 もしやパンでも落ちてこないか、と荒唐無稽に思い、彼は空を見上げてみた。


 空には、一粒の星さえ見えなかった。曇りというわけではない。ただ単に、彼の目が悪いだけだ。


 左は〇.二。右は〇.〇四。数年前メガネ屋で計った時の視力だ。今はもっと、悪化しているに違いない。


 彼はメガネをかけ忘れて外出したことを、今、初めて後悔した。今日という暗澹の心の日。せめて、星くらいは見たかった。


 メガネは、彼にとって凶器だった。視力が低下し始めたのは、中学生の時だ。黒板の文字が見えにくくなったという理由で、親に頼んで買ってもらった。銀縁の、大きなレンズ。非常に不格好だった。


 当然、同クラスの生徒たちにからかわれ、笑われた。だが何より辛かったのは、メガネのせいで、それまでぼやけていた人の顔が、くっきりと見えてしまったことだった。


 世には、はっきり見えない方がいいというものがある。彼にとって、それは他人の顔だった。他人とは、彼に言わせれば、笑う者。それも、楽しくてワハハ、ではなく、こちらを見下して嘲るワハハであった。


 イヤらしいほどはっきり見えた。笑う者たちの顔のしわ、皮膚の歪み、曲がる唇、細められる目、等々。純粋に、怖いと思った。


 人の顔というものは怖い。特に、目だ。キュッと細められる目。その中に、うっすらと透けて見える、侮蔑と嘲笑、獣じみた諧謔性。それに彼は、怯え切ってしまったのだ。


 その日の放課後、彼はメガネを捨てようとした。通学路の傍らを流れる、細長い川。そこへ投げ込もうとした。そして、出来なかった。理由は母だった。買ってくれた母の想いを無駄にしたくない。悲しませたくない。その一心で、彼は、メガネを握り締めていた右手を下ろしたのだった。彼は、良い子だった。本当に良い子だった。あまりにも良い子過ぎて、自分の心に芽生えたほんのわずかな“負”を、受け入れるどころか、直視することさえしなかったのである。


 彼の目は、濁りきっていた。これはあくまでも漫画的な比喩表現であって、実際に濁っているわけではない。しかし彼は己の瞳が濁るのを切望した。緑内障にでもなって、本当に瞳が濁り、かつ失明するのを望んだ。


 幼い頃、太陽を裸眼で見続けていて、目が悪くなるぞと親から叱られたことがあった。当時の彼は盲目的にそれに従ったが、今になって疑念を抱くようになった。何故光を見続けると目が悪くなるのか。場合によっては失明することもあるらしいじゃないか。科学的な話をしているのではない。これまで、さんざっぱ汚いモノを見せつけられてきたのだ。すなわち人の闇の部分を。ところが視力は衰えこそしたものの、失明する気配は一切ない。人の中の闇を見る度に、もう見たくない、もう見たくない、いっそのこと目が見えなくなってくれないか、と思ってきたってのに、だ。


 彼は自嘲の笑みを浮かべた。


 廃墟通りに季節に似つかわしくない、妙に生ぬるい風が吹き抜けていった。


 途端、泣きたくなった。


 特別な理由もなく泣きたくなることが、最近増えた気がする。しかし、泣く衝動こそ増えたが、実際に泣いた回数はほぼゼロに近い。それは単なるドライアイのせいなのか、それとも心が瑞々しさを無くすと同様に瞳の瑞々しさも無くしてしまったのだろうか。


 再び彼は自嘲の笑みを浮かべた。


 何たるセンチメンタリズムだ。何たる感傷だ。こんなものは、高校三年頃に卒業するものだ。遅くても大学在学中ぐらいだろう。


 光だの闇だの、大仰な言葉を使うことで、大仰なテーマを表現しようとするのは、あまりにも青々しく幼稚な考えだ。親のスネをカジりつつ、口だけはいっちょ前に政治家を批判し、大人を揶揄し、世間をあざ笑い、社会に怒る、そんな歳はとっくに過ぎ去ったではないか。


 彼は嗚咽した。誰もいない廃墟通り、光さえほとんどない町の辺境で、一滴の涙も流すことなく嗚咽した。


 いや、それはほとんど絶叫に近かった。とにかく自分という存在が、あまりにも矮小だということを自覚してしまったからだ。


 汗水垂らして心血注いで作品をモノにしようと、それが文学史に残るほどのものでは決してない。それどころか、世も知れない三流出版社の、これまた世も知れない名前の文学賞に応募しても、一次審査さえ通らない代物だ。文学以外で何かを成し遂げようと思っても、歳を取り過ぎている。階段を上がるだけでも足が少し痛くなってしまうような歳なのだ。


 ふと、口の中に甘みを感じた。つい一時間ほど前に差した目薬の成分が、口内に流れ出してきたためだ。


 独特のえぐみを持つその甘さは、彼を急速に現実へと引き戻した。


 周囲を見渡す。相変わらずの人気のない廃墟通り。ボロボロのアスファルトの地面にのたうつ闇は、先ほどまでの粘りけを捨て去っており、深閑とたゆたう真夜中の凪の海面のようだ。


 口の中の甘みが一層強いものになった。たまらずその場に唾を吐き捨てた。口を拭くちり紙を取りだそうと、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。


 クシャという音がした。手に角張った固い感触が伝わる。掴んで引っ張り出してみると、それは一枚の原稿用紙だった。


 暗さのために書かれている文字は判らない。が、彼はその文面を覚えていた。


 数日前、彼は自殺を思い立ち、今日のこの日のように、部屋着のまま外へ飛び出し、一目散に駆けだした。目的地は、町のほぼ中央にある小学校――彼の母校だった。その校庭の外れにある大きなイチョウの木。そこで首を吊ろうと思った。


 ところがいざその場にやってきて、肝心のロープを忘れていることに気づいた。自分の馬鹿さ加減に幻滅し、絶望し、そして爆笑した。


 そして、妙に晴れやかな気分で、笑顔さえ浮かべながら帰宅した後、衝動的に書き上げたのが、今彼が手に持っている『自戒の手紙』だった。

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