第7話「守護の篝火」
薄暗い部屋に、静かな機械音が響いていた。
青白い光が壁を淡く照らしている。
机の中央には、手のひらより少し大きい楕円形のコア――護衛AIユニットの心臓部がPCと接続されていた。
「最終診断、異常なし。起動します」
銀髪の少女――しおゆりが無表情のままキーを叩く。
起動シーケンスが進み、モニターに無機質なログが走る。
《同期率チェック──完了》
《思考プロトコル接続──完了》
《識別コード:Unit-04》
《護衛モード:スタンバイ》
最後の文字列が点滅し、やがて消えた。
「……話しかけても大丈夫か?」
紫藤が小声で尋ねる。
「音声認識、稼働中。問題ないわ」
しおゆりの声はいつものように冷静だった。
紫藤は深呼吸し、コアに視線を落とす。
「はじめまして。俺は折籠紫藤。こっちはしおゆり。今日からお前の名前は“ユユ”だ」
コア表面にある、白く小さなランプがチカチカ反応している。
その直後、モニターに文字が書き起こされた。
《承知でアリマス! ユユの識別名はユユでアリマス!》
唐突な語尾に、紫藤は目を瞬かせる。
「……なんだその語尾……」
脳裏に姉の笑みが浮かんだ。
(……やっぱり仕込んでやがったな、姉ちゃん……)
しおゆりがユユに指示する。
「ユユ、任務を告げる。護衛対象はシドウに限定。命令の優先順位は常にシドウを最上位に固定。任務変更があれば即時応答」
《了解でアリマス! ユユのご主人、シドウ殿へ最優先度ランクで護衛に当たるでアリマス!》
紫藤は吹き出しそうになりながらも、どこか頼もしさを感じていた。
「……まあいいか。頼りにしてるぞ、ユユ」
ユユのコアがわずかに光を強める。青白い輝きは、部屋の暗がりに小さな灯火のように見えた。
翌朝。
窓の外は霞がかかり、山並みがぼんやりと浮かんでいた。
簡素な朝食を済ませたあと、しおゆりはユユの動作ログを呼び出す。
モニターに流れる行数が、静かな部屋に規則正しい電子音を刻んでいった。
しばらくログのチェックをしていると、ふと違和感に気付く。
「……ユユ。記録領域のSブロック、未分類データを確認。説明」
《了解でアリマス!
照会……該当データ:画像ファイル。解析開始──
撮影日:2006年4月10日
撮影機器:ZFOX DIGITAL-SHOT
ユーザー名:HIYURI》
画面に映ったのは、研究所の正門前で撮られた集合写真。
背景には、満開のソメイヨシノが白く霞むように咲き誇っていた。
中央に立つのは、若かりし頃の折籠陽百合――紫藤の祖母の姿だった。
「……ひゆり……ばあちゃん」
画面を覗いた紫藤の声が思わず震える。
ユユのコアが小さく点滅した。
《データは初期格納領域より検出。意図的に挿入された可能性……濃厚でアリマス》
「このコアは、姉貴が用意したんだ。……つまり、姉貴の残した手掛かりかもしれない」
紫藤は画面を凝視する。
「撮影場所、ナノテク産業研究所。シドウの母と姉が勤めていた会社と一致する」
しおゆりが淡々と付け加える。
「……行ってみる価値はあるな」
紫藤の声に決意が混じった。
《ユユは留守番でアリマスか?》
紫藤は苦笑して、ユユに答える。
「すぐ戻るよ。帰ったらボディを装着するから、もう少し待っててくれ」
《承知でアリマス! 健闘を祈るでアリマス!》
そのやり取りを聞きながら、しおゆりは目を細める。
――小さな違和感。
Sブロックの奥には、まだ開かれていない暗号化領域が存在していた。
彼女は言葉にせず、静かにログを閉じた。
ガレージのシャッターを開けると、半年間眠っていた車が姿を現した。
ガラクタが積まれた作業用スペースの隣には、姉の通勤車用スペース。
埃に覆われ、蜘蛛の巣が張りついている。紫藤が溜息をつきながら除けると、キーの生体認証が緑に点灯し、低い駆動音が響いた。
「……姉貴、俺の分も登録してくれてたか」
紫藤は小さく呟き、ハンドルを握り直す。
「……動くな。よし」
山道を三十分。商業施設も人影もなく、ただ木々が覆いかぶさるように車道を隠していく。
車窓から吹き込む風は生ぬるく、紫藤の胸に不安を沈めるようだった。
「……あの坂を上がれば、研究所が見える」
車が緩やかなカーブを抜ける。
視界に広がったのは、桜並木に囲まれた広大な敷地。
満開の花を誇った季節はすでに過ぎ去り、枝々には濃い緑の葉が茂っている。
その中心に建つ研究棟の外装は今も変わらぬ姿を保っていた。
白い外壁は崩れもせず、窓ガラスも割れていない。まるで人が今でも出入りしているかのように静かに佇んでいた。
正面ゲートには高いバリケードが設けられ、立入禁止の黄色いテープが幾重にも張り巡らされていた。
「閉鎖は“事故”のせいだと噂されていたが……」
紫藤はハンドルを切りながら目を細める。
玄関前に立つと、自動ドアが静かに開いた。
室内の照明がぱっと点き、白々とした光がロビーを照らす。
そこには、事故の痕跡どころか、塵ひとつ落ちていなかった。
床は磨かれたように光り、机や椅子も整然と並んでいる。
だが――人の気配だけが、どこにも存在しない。
紫藤の胸に、妙なざわめきが走った。
(……ここ、本当に閉鎖されてるのか?)
奥に進むと、室内は異様なほど整然としていた。机も椅子もそのまま、機材も並んでいる。
ただ――書類だけが、一枚も残されていなかった。
紫藤の胸に冷たい感覚が広がった。
二人は一階の部屋をひとつひとつ確認してまわる。
どこも同じだった。棚も機材も整然と並んでいるのに、書類や端末は影も形もない。
二階、三階へと足を運んでも、光景は変わらなかった。
(……まるで計画的に情報だけ消されたみたいだ)
紫藤の背中に、じわりと汗がにじむ。
「シドウ、地下へ降りる階段があるわ」
振り返ったしおゆりが、静かに指し示した。
二人は無言のまま頷き合い、暗がりへと続く階段を下りていった。
地下フロアの奥には、重厚な鉄扉が待ち構えていた。
赤いランプが規則正しく点滅を繰り返している。
しおゆりが手をかざしたが、扉は動かない。
「セキュリティ認証が必要。権限が不足している」
紫藤は扉を睨みつけ、唇を噛んだ。
「……姉貴。ここで何を隠してたんだ」
答えは返らない。
ただ冷たい鉄の表面に、自分の顔がぼんやりと映っているだけだった。
地上へ戻ると、外はすでに夕闇に包まれていた。
山の稜線は黒い影となり、桜並木の枝が風にざわめく。
紫藤は足を止めた。
背後に、確かに“視線”を感じたからだ。
反射的に振り向く。
誰もいない――はずだった。
だが木々の奥、暗闇の中に赤い光点がひとつ浮かんでいた。
レーザースコープか、センサーの赤点か。
一瞬だけ揺らめき、次の瞬間には消えた。
(……監視されている?)
背筋に冷たい汗が流れる。
しおゆりが静かに呟く。
「異常ノイズを検出。ORIITO波長に近似……ただし断定不能」
紫藤は唇を噛み、何も言わずに車へ向かった。
二人は言葉少なに車へ乗り込み、研究所を後にする。
夜。
折籠家に戻った二人は、しばらく言葉を交わさなかった。
車内から続く沈黙は、まだ家の空気を重く覆っている。
あの研究所に残された「綺麗すぎる痕跡」が、じわじわと胸の奥を冷やしていた。
紫藤は額に手を当て、深く息を吐く。
「……考え込んでても仕方ないな」
わざとらしく声を張り、無理に切り替えるように呟く。
「よっし。ユユの仕上げに入るか」
しおゆりは一言も返さず、ただ無言で頷き、机の端末を操作して準備を始めた。
机の上では、ユユのコアが小さな光を灯して待機している。
しおゆりが画面に指を走らせながら、ユユに告げる。
「ユユ。これからボディへ換装する。シャットダウン準備」
《了解でアリマス》
コアの光がゆっくりと弱まり、静かな電子音が尾を引いた。
ケーブルのインジケーターが橙から黒へと沈黙し、室内に残ったのは小さな冷却ファンの余韻だけだった。
紫藤は深呼吸しながら、温かみを帯びたコアにそっと手を置き、横のケーブルを慎重に外す。
「……さあ、いくぞ」
静かに呟き、ボディの受け口にコアを差し込んでいった。
紫藤はコアを受け口にそっとはめ込み、カチッと小さな手応えを確かめた。
「ケーブル接続確認。回路マッチング──完了」
しおゆりが端末で切り替えを行い、ボディからの電源供給に切り替わる。
《起動、正常──動作モード:稼働》
しおゆりは淡々と、しかし確かな声で告げた。
「防衛プロトコル、起動。……ユユ、起きなさい!」
──ピピッ。
電子音が小さく鳴り、ボディ内部で光が走る。
青白いランプが脈打つように明滅し、機体はぎこちなく足を動かしはじめた。
やがて、ゆっくりと立ち上がる。
その仕草は不安定ながらも確かに「命」を宿したかのようだった。
ボディを得て初めての生の声が響く。
「──全機能、再起動完了でアリマス」
紫藤は深く息を吐き、緊張を解いた。
「……よかった。ちゃんと動いてくれたな」
しおゆりは端末を閉じ、淡々と告げる。
「今夜からシドウが就寝時は同部屋で警備監視。なにか異常を感知したらすぐ報告」
紫藤はユユの頭部を軽く撫で、静かに語りかけた。
「今後、引き続き姉貴の痕跡を追う。俺たちに何が起こるかはわからないし、危険な目に遭うかもしれない──だから三人協力していこう。もちろん無茶はしない……明日から訓練を始めよう。
よろしくな、ユユ」
「承知でアリマス!」
ユユは淡い灯りを小さく瞬かせた。
──紫藤が寝静まった頃、眠る紫藤の寝顔を見守るほのかな光が、夜の部屋に柔らかく揺れる。
その光は、小さな篝火のように静かに息づいていた。




