第6話「起動のレシピ」
静かな朝。
窓の外は霞に覆われ、山の稜線がぼんやりと浮かんでいる。
紫藤は端末に向かい、日課となっているしおゆりの診断ログチェックを行っていた。
《味覚感覚モジュール:閾値=0》
「……味覚ゼロ、か。何か食べたら上がるもんなのか?」
小さく呟いたそのとき――
視線の先で、しおゆりは仰向けに横たわっていた。
目を閉じた表情は穏やかで、まるで人形のように静止している。
「……おい……しお……うそだろ?」
慌てて椅子を蹴って立ち上がり、彼女の元へ駆け寄る。
しおゆりは微動だにしない。
「おいっ! しお! しお!」
頬を軽く叩くが、反応はない。
紫藤は大きく息を吐いた。
「……また充電切れかよ」
動かなくなった彼女をそっと抱え起こし、椅子に座らせる。
背中の電源ポートにケーブルを差し込んだ。
数秒後──
「ピピッ」
小さな起動音とともに、しおゆりのまぶたがぴくりと震え、瞳に光が宿る。
「……起動処理、再開。……おはよう、シドウ」
「お、おう。おはよう。大丈夫か?」
「ええ、問題ないわ」
淡々とした声。
けれど、紫藤にはどこか心配になる。
「昨日も徹夜で探してたのか?」
返事はなく、しおゆりは静かに視線を端末に移す。
そのかわり、少しだけ間を置いて告げた。
「……このボディ、主電源だけでは効率が悪い。補助栄養液が欲しいわ」
「えっ……ほじょ? 今なんて?」
無表情のまま、しおゆりはそっけなく答える。
「栄養ドリンクのことよ──
折籠砂百合が開発した、補助用の化学合成レシピが端末内に残っていたの」
端末の検索ウィンドウに浮かび上がったファイル名を見て、紫藤は固まった。
『【補助用栄養剤】ゆりナミンD』
効能欄には、こう記されていた。
――「細胞電池の稼働効率を補助し、演算反応を安定化。
副次的に味覚センサーを刺激し、感覚データの学習を促進する」
紫藤は画面を見つめ、額に手を当ててため息をついた。
「……ネーミングセンス、絶対姉貴だろ」
仕方なく、冷蔵庫や戸棚をあちこち漁り始めた。
ソイプロテイン、鉄分補給液、カフェイン、抹茶パウダー……
「あれ? これどこだ?」「うわ、賞味期限ギリギリじゃねーか……」
ぶつぶつ言いながら、ビーカーに材料を放り込んでいく。
気づけばキッチンは小さな惨状だった。
粉がこぼれ、スプーンは転がり、紫藤の手元は緑色に染まっている。
「……できた。けど──」
完成した液体は、どう見ても怪しい緑色をしていた。
「ほんとに飲めるのか、これ」
しおゆりは無表情で、すっと手を伸ばす。
「問題ないわ。味覚センサーはゼロだから」
そう言って、ぐいと一口。
「…………」
「お、おい……?」
思わず顔を覗き込む。
次の瞬間、しおゆりの体内からピピッと起動音が鳴った。
「……なぜか舌がしびれる感覚。“苦い”という反応、らしいわ」
「やっぱ味覚あるじゃねーか!」
紫藤のツッコミにも、彼女は首を小さくかしげるだけだった。
キッチンの後片付けを終え、紫藤はリビングで湯呑を手にしながら片手でPCのキーボードを叩いていた。
庭では、しおゆりが花壇に水をやりつつ、飛び交う虫たちを注意深く観察している。
ふと画面の隅に映し出されたデータが、紫藤の目に留まった。
《Unit-04》。
「……ん? なんだこれ」
紫藤は眉をひそめ、庭の方へ声をかけた。
「しおー、ちょっとこっちに来てくれないか?」
しおゆりはホースを置き、静かに足を進めて紫藤の隣に立った。
二人で画面をのぞき込むと、フォルダ内に保存された設計図とテキストファイルが開かれた。
そこには、こう記されていた。
――『防衛用小型機構体ユニット』
――『紫藤を護るために。試作型:未完成』
「……姉貴が残した設計図……?」
思わず声が漏れる。
しおゆりは小さくうなずいた。
「ユニット構造は古いけれど……再現は可能よ」
しおゆりは淡々と続ける。
「設計図だけじゃない。……“試作コアは地下倉庫に保管してある”と書いてあるわ」
「ボディは俺たちが組み立てなければならないけれど、心臓部はすでに用意してくれているってことは──」
紫藤は彼女の顔を見やる。
「やってみるか?」
「ええ、協力するわ」
その返事に、少し胸が温かくなるのを感じた。
◇
折籠家の古いガレージ倉庫。
シャッターを開けると日光に照らされ、積まれた段ボールと部品箱の山が影を落としていた。
「うっわ……埃すげぇ……」
紫藤は咳き込みながら段ボールを漁る。
「これは……使えそうか?」
両手に抱えたモーターをしおゆりに見せると、彼女は一瞥して首を横に振った。
「不良品。巻線が焼けている」
「……やっぱりか。見た目じゃわかんねぇな」
紫藤は苦笑し、別の部品を手に取る。
「じゃあこれは?」
「腐食。使用不可」
「……こっちは?」
「ゴミ」
「言い方……」
紫藤は肩をすくめ、今度は基板を拾い上げた。ピンセットで部品をつつきながら呟く。
「ランドはまだ生きてるな。コンデンサ飛んでるけど、交換すれば使えるかも」
その手際を見て、しおゆりがわずかに瞬きをした。
「扱いに慣れているのね」
紫藤は鼻をかき、照れ隠しのように笑う。
「まあな。昔からガラクタいじるのが好きでさ。小学生のころなんか、姉貴のドライヤーを勝手に魔改造したんだ」
「どんなふうに?」
「風量3倍! って出力上げたら、温風じゃなくて炎が噴き出してさ。姉貴の髪が焦げる寸前で、本気でぶん殴られた」
「……あたりまえよ」
「そんな感じで、機械いじりは自然と身についた」
部品を漁りながら確認する紫藤にしおゆりは数秒沈黙し、それから淡々と告げた。
「独学でそこまで扱えるのなら、十分な資質よ」
紫藤は思わず笑みをこぼした。
「……なに?しおが俺を褒めるなんてめずらしいじゃん。
まあ、俺もしおのことは頼りにしてるからさ」
しおゆりは返事をしなかった。けれどわずかに頬を傾ける仕草が、どこか照れ隠しのように見えた。
数時間後。
ジャンク部品を組み合わせて作った試作機が、ガタガタと音を立てて立ち上がった。
「おおっ……! 動いた!」
紫藤が声を上げた直後――
試作機は、数秒ももたずにバランスを崩した。
「うわっ!」
ゴウン、と床に倒れ込んだ瞬間――
バチッ! 機体の内部から火花が散り、次の瞬間、小さな炎が吹き上がった。
「まじか!?」
紫藤は慌てて壁際の消火器を掴み、勢いよく噴射する。
シュワァァァァッ――!
粉末が宙に舞い、あっという間に倉庫は真っ白に染まった。
火は収まったが、紫藤も、しおゆりも、頭から白い粉をかぶった姿で立ち尽くしていた。
しばしの沈黙。
「……ぷっ」
紫藤が噴き出すと、しおゆりも小さく口元を緩めた。
やがて二人の笑い声が、粉末で曇るガレージに広がっていった。
「耐久テスト10秒も持たなかったな」
床には無残に崩れ落ちた試作機の残骸。
かすかに金属の焦げる匂いが漂っていた。
紫藤は白い粉を払いつつ、しおゆりに顔を向ける。
「……コアを装着しないと駄目だったのか?」
しおゆりは首を横に振った。
「ハードの動作確認だけなら、コアは不要よ」
「つまり……別に原因があるってことか」
紫藤は悔しそうに唇を噛んだ。
「……これじゃ、日常の護衛どころか、家の中すら歩くのも無理だよなぁ」
隣にしゃがみ込んだしおゆりは、崩れた関節部を指先でなぞりながら冷静に告げた。
「トルク配分に問題。骨格構造が重量に耐えきれていない。防衛力を重視しすぎて、汎用性を犠牲にした結果」
紫藤は悔しそうに唇を噛み、低くつぶやいた。
「でも、これは姉貴が──俺を護るために残した設計なんだ。
なんとか形にしたいんだよ」
しおゆりは顔を上げ、紫藤をまっすぐに見つめる。
その瞳に感情の色はなかったが、彼の熱を受け止めようとする静かな気配だけは確かにあった。
「ならば別のアプローチを考えるべきね」
紫藤は残骸を見下ろしながら、大きく息を吐いた。
「……もっと軽くて、もっと速くて、家の中でもスイスイ動けるやつ──」
腕を組み、しばらく考え込む。
やがて、ぽつりと口を開いた。
「……いっそ球体にして、タイヤで走るとかどうだ?」
しおゆりはわずかに目を瞬かせた。
「……球体。安定性を得るには、内部の重心制御をリアルタイムで補正する必要がある。だけど……合理的な形状」
紫藤はタブレットとペンを持ち、画面にラフを描き始めた。
「外装を二層式にして、内側でバランスを取れば……ん。こんな感じか」
スケッチに描かれたのは、ころんとした球体。
三本の脚部が格納され、必要に応じて展開できる構造。
紫藤は楽しげにペンを走らせ、目の部分に丸い液晶を描き込んだ。
「で、目は大きく丸くして、感情を表現できるように……」
「……感情?」
しおゆりは小さく首をかしげる。
「いや、その方が“かわいい”だろ。ゴツいより、愛嬌があった方がいい」
「……かわいい……?」
その言葉を繰り返した瞬間、しおゆりの指先の動きが止まった。
処理が一瞬滞ったように、静かな間が生まれる。
紫藤はそんな彼女を横目で見て、少し照れたように笑った。
「護衛ロボってだけじゃなく、“仲間”って感じにしたいんだ」
ガレージの奥から持ち帰った部品を、紫藤は机の上に広げていった。
モーター、基板、錆びついた関節ユニット、古びたバッテリーセル。
一見ガラクタにしか見えない山を前に、紫藤は眼鏡を押し上げるような仕草で腕を組んだ。
「……ふむ。モーターは再研磨すれば使える。
基板は電解コンデンサが死んでるな、交換だ。
バッテリーは……まぁ、二本繋げば最低限は動くか」
専門的な単語が次々と飛び出す。
しおゆりは静かに彼の横に立ち、部品をひとつ手に取る。
「このアクチュエータは、摩耗が進んでいる。
だが補助的に使えば、緊急時の跳躍動作に転用できる」
「お、いいな。それ入れよう。モーターだけだと小回りが利かないしな」
紫藤はペンを走らせ、メモに新しい配線図を書き加える。
さらに数時間後。
はんだごての先から煙が立ちのぼり、焦げた匂いが室内に広がった。
「げっ……やっちまった!」
紫藤が慌てて基板を持ち上げると、部品の端が黒く焦げていた。
しおゆりはそれを見つめ、小さく息をつくように言った。
「……作業効率が低下してきてる。シドウ、少し仮眠を。後はわたしがやるわ」
紫藤は手を振り、苦笑する。
「いや、まだ大丈夫。きつくなったら交代してくれ」
しおゆりは短くうなずき、それからぽつりと付け加えた。
「……なら、シドウにも“補助栄養剤”を用意してあげるわ」
紫藤は即座に顔をしかめる。
「やめてください……」
一瞬の沈黙のあと、ふたりの間にかすかな笑いがこぼれた。
夜が更ける頃、机の上には球体フレームの骨格が形を成しつつあった。
まだ配線はむき出しで、外装も仮止めのまま。
けれど――
「よし……なんとか“形”になったな」
紫藤は工具を置き、額の汗を拭った。
しおゆりは無言で隣に立ち、淡い光に照らされた球体を見つめている。
その瞳の奥に、かすかな温度が宿っているように見えた。
試作フレームに仮接続したケーブルを、紫藤がゆっくりと引き抜いた。
「……よし。これで独立電源に切り替わる」
緊張が走る。
机の上の球体フレームが、かすかに揺れた。
内部のランプが淡く点滅し、わずかなモーター音が広がる。
「動いた……!?」
紫藤が目を見張った瞬間――
ゴゴゴゴゴッ……!
球体が急加速し、転がりだした。
「お、おい!?」
止まらない。床を高速で回転しながら一直線に走り出す。
「制御不能」
しおゆりの冷静な声。
「いやいやいやっ!待て待て待て!」
次の瞬間――
ガンッ! 壁に突っ込み、石膏ボードを派手にぶち抜いた。
白い粉塵が舞うなか、球体フレームは転がり出て停止した。
紫藤は呆然と立ち尽くし、頭を抱える。
「……まじかよ……壁に穴……」
それでも、テストは続く。
紫藤が再調整を施し、冷却ファンの動作をチェックすると――
ブォォォォォ……ッ!
想定以上の風圧が吹き荒れ、床のホコリや紙くずが一斉に吸い込まれていく。
紫藤は唖然として言葉を失い、しおゆりが静かに告げる。
「清掃機能は必要?」
「いやいや!掃除ロボじゃねぇから!」
紫藤の叫びが空しく響く。
最後のテスト。
今度は三本の脚を展開させるシーケンス。
カシャンッ――前脚二本がスムーズに伸びる。
だが後ろ脚が出てこない。
「……あれ?」
紫藤が呟いた直後、球体はバランスを崩し――
ドサッ!
無様に床へと転がった。
紫藤は慌てて駆け寄り、残骸を抱え上げる。
「……くそっ。アームが……曲がっちまった……」
唇を噛む紫藤。
それでも目を逸らさず、壊れかけた機体に手を添える。
「……絶対お前を完成させてみせるからな、ユユ」
静かな決意の声。
その名を聞いたしおゆりが、小さく瞬きをした。
「……その“ユユ”という名前は、どのような意図で?」
紫藤は少し間を置き、どこか照れくさそうに答える。
「……なんとなく、響きが優しくてさ。
それに……しおゆりと、砂百合。ふたりとも“ユリ”がつくだろ?
その音を繰り返して、“ユユ”。
ふたりが俺を護ってくれるって意味も込めてさ」
しおゆりの瞳が、かすかに揺れた。
「……ユユ」
囁くような声が、静かな作業場に落ちる。
――こうして、新たな命に名前が与えられた夜は、静かに更けていった。