第2話「孤独な現実」
――あの時、姉は何気なく俺にクロア(Close Assistant device)を差し出した。
「私がつくったセキュリティアプリ、入れといて。いざってとき用」
その“いざ”が、こんなにも長い別れになるなんて。あの頃の俺には想像もできなかった。
意味もわからずクロアにインストールさせられたそれが、姉・折籠砂百合との最後の会話になった。
サイレント・イヴから三週間。
東京の空は濁った灰色で、街にはまだ混乱の影が残っていた。
電気・水道・ガスは制限付きで復旧し、鉄道も一部は動き始めていたが――
ORIITOに依存したシステムは、いまだ沈黙したままだった。
SNSは消え、ネットワークは闇に沈み、人々は「紙の新聞」や「ラジオ放送」に情報を頼るようになっていた。
俺のクロアは沈黙したまま。通知も予定も届かない日々。
そして、姉はあの日から戻ってこなかった。
「出張でしばらく家を空ける」と言い残したまま、音信不通のまま。
冬休みが終わり、大学が再開するはずの日。
俺はいつものようにアパートを出て、キャンパスへ向かった。
教室の掲示板には「休講」の文字が赤々と張り出され、学生たちはざわついていた。
「また休講だってさ」
「クロアが死んでるから、こうやって来るしかねーよな」
そんな声を横目に、俺は黙って席についた。
日を追うごとに教室に来る学生の数は減り、やがてほとんど姿を見なくなった。
最後に残ったのは、結城柊子だった。
「紫藤君、また来たんだ?」
明るい声。彼女は教科書を机に置き、少し笑った。
「俺、家にいても落ち着かなくてな」
「わかるー。でも、もう誰も来ないよ? 私たち二人だけじゃん。自宅でレポートでもやる?」
彼女は肩をすくめてみせる。
その笑顔の奥に、ほんの少しの不安が滲んでいることに気づいたが、俺は電波の消えたクロアを見つめることしか出来なかった。
「せっかくだし、街の様子見に行かない?」
柊子に誘われ、しぶしぶ俺は後についていった。
――そこに広がっていたのは、いつもの東京ではなかった。
街は人影がまばらで、信じられないほど静かだった。
公園では円柱型の清掃ロボが立ち尽くしたまま停止し、子どもたちの笑い声も消えていた。
空には無人のドローンが低く飛び交い、人々を監視しているかのようだった。
銀行の前では、電子通貨が使えず現金を求める人々が長い列を作っていた。
物流は滞り、コンビニや商店の棚は空っぽ。
食料物資を積んだ自衛隊車両が、ゆっくりと街を横切っていった。
「……ほんとに、変わっちゃったよね」
柊子が小さく呟いた。
俺たちは公園のベンチに腰を下ろした。
冷たい風に吹かれながら、沈黙していた記憶がふいに甦ってくる。
街頭ビジョンに映っていた映像と、あの日の耳に残る声が重なって――
「ただいま午後6時をお知らせいたし──(キィィーン)」
あの日、街に響いたアナウンスと同時に、金属を削るようなノイズ。
そして――
タンターンタタン・タン・ターンタタン♪
『お客様にご案内申し上げます。本日の営業は、只今をもちまして終了とさせていただきます。
またのご来店を心よりお待ち申し上げております』
帰宅ラッシュの山手線が突然停車し、改札ゲートが一斉にロックされた。
数万人の群衆が駅構内に押し込められ、怒号と悲鳴が渦を巻く。
「なにやってんだよ!開けろ!」
「子どもがいるんだ、通してくれ!」
係員が必死に頭を下げるが、操作パネルは赤く点滅したまま反応しない。
同じ頃、管制室では技術者たちが立ち上がり、端末を叩き続けていた。
「制御が全部落ちてる……!ORIITO回線が死んでる!」
「バックアップに切り替えろ!旧型の有線回線へ!」
「だめです、応答が返ってきません!」
冷えた空気が一瞬、管制室を支配した。
次の瞬間には空港の管制塔からも悲鳴に似た声が飛び込んでくる。
「滑走中の自動運転機が制御不能です!」
「手動操縦に移行しろ、パイロットを呼び戻せ!」
旧来の仕組みに戻そうとするほどに、事態は取り返しのつかない深みに沈んでいった。
――そして、混乱は交通にとどまらなかった。
都内の大病院では、オペ室に警報音が鳴り響く。
「心拍モニターが消えた!? 補助電源に切り替えて!」
「人工呼吸器が応答しません!ORIITO医療支援AIが落ちています!」
医師や看護師たちが駆け回り、停止したロボットアームを押しのけて、震える手でメスを握り直す。
一方、防衛省地下の作戦室でも、緊迫した声が飛び交っていた。
「国境監視レーダーが全域で沈黙!無人偵察機も応答なし!」
「迎撃システムがオフラインに落ちています!」
「手動系統へ切り替えろ!兵器管制を人力で維持しろ!」
冷たい汗が軍服の背を伝う。
国家の目と耳が一瞬にして奪われ、誰もが“見えない敵”の影に怯えていた。
その後にはキャスターの緊迫した声が、ぶれる映像と共に流れていた。
誰かが手持ちカメラで撮ったのか、画質は荒く、揺れ続ける画面の中で、暗闇に沈む都市や混乱する人々の姿が映し出されていた。
「速報です。政府はORIITOネットワークが全世界で停止したと正式に発表しました。原因はサイバーテロによるものと断定されています……!」
途切れ途切れの音声。映像のノイズ。
それらすべてが、世界が断ち切られたことを告げていた──
俺は拳を握りしめ、無意識に口を開いた。
「……姉ちゃん」
「どうしたの?」
隣で柊子が覗き込む。
「……姉貴が、一週間くらい出張に行くって言ったきり、戻ってこないんだ」
言葉にした瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。
柊子は、少し黙って俺を見つめ、それからにっと笑った。
「大丈夫だよ。私ね、霊感が強いんだ。…なんか、わかるの。紫藤君のお姉さん、生きてる。きっと無事だよ」
「……根拠あるのか、それ」
「うーん、ない! でも、そう感じるんだよね」
あっけらかんと笑う彼女に、俺は思わず苦笑いを浮かべた。
でも――その軽さが、少しだけ心を救ってくれた。
◇
それから大学は春休みに入り、俺の周りから人の気配はますます消えていった。
気がつけば桜の季節も過ぎ、灰色の東京がまた夏を迎えようとしていた。
そしてある日。
沈黙していたクロアが、不意に振動した。
「……なんだ、これ……」
画面に浮かんだのは見慣れない座標データ。
その横に並ぶ文字――“SIDO”。
「……まさか。姉ちゃん……」
胸の奥で、確かに何かが叫んでいた。