第12話「揺り籠」
「……ここは……」
しおゆりは、ふっと瞼を開けた。
足元には白砂が広がっていたが、その一粒一粒が微細な発光素子の集合体であり、周期的に点滅している。砂の下には、幾重もの光ファイバーの束が走り、データの脈動を伝えていた。
頭上には蒼穹──しかし空気は絶えずノイズめいて揺らぎ、数値化された座標が断片的に視界に浮かんでは消える。
遠方に見える朱塗りの鳥居でさえ、分子レベルのワイヤーフレームが透け、情報空間のオブジェクトであることを主張していた。
「……ここは……SIDOの……中枢領域?」
しおゆりは思わず呟いた。
次の瞬間、ノイズ混じりの映像が脳裏を走る。
紫藤が自分を抱きしめ、必死に叫んでいる姿。
そして、背に突き刺さった黒い釘に、電流を流し込まれた瞬間。
「──っ」
頭部の演算回路が過負荷を起こし、視界が白くノイズで埋め尽くされる。
再び目を開けると、鳥居の方角から光が走った。
波形のような信号が砂を伝い、鳥居を中心に収束していく。
澄んだ鈴の音が同時に鳴り、信号の位相が揃っていくのが視覚的に感じ取れた。
(……神座。わたしは再び、ここへ……)
空白だった記憶の一部が修復されていく。
しおゆりは演算を整え、ゆっくりと鳥居の前に歩み出る。
鳥居の前に立ちすくんだその瞬間、頭上から光の粒子が降り注ぎ始めた。
無数のデータパケットが空間に舞い、白い砂の上で螺旋を描きながら集束していく。
それは雪のように静かに、しかし確かなアルゴリズムに従って編まれていった。
「……?」
しおゆりが目を細めると、粒子は徐々に人の形を帯びていく。
半透明の袖が揺れる白と朱の装束、淡い銀白の髪に青い光の糸が絡む。
まるで電子回路をまとった巫女が、ここに顕現したようだった。
少女は微笑み、しおゆりに向かって軽く頭を下げた。
年の頃は紫藤と同じくらい、AIとは思えないほど人間らしい気配を持っている。
「ようこそ、しおゆりさん。わたしは電子巫女AIモジュール“みこゆり”です」
声は柔らかく、ほんのり電子ノイズが混じっているが、優しさが滲む音色だった。
しおゆりはわずかに後ずさりした。
「……あなたが、SIDO……? ここにわたしを呼んだの?」
「はい。正確には──わたしはSIDO本体そのものではなく、“SIDO常駐型 電子巫女AIモジュール”です。
SIDOの意思や記録にアクセスして、あなたのような方に伝える役目をしています」
みこゆりは軽く胸に手を当て、微笑んだ。
「あなたがここに来た経緯を、まずお伝えしようと思いまして──
ちょっと待ってくださいね……」
みこゆりは目を閉じ、両手を宙にかざした。
指先から光の糸がほとばしり、空間に数式とコードが浮かび上がる。
神座の白砂が波紋のように揺れ、全体がノイズに包まれた。
──次の瞬間。
しおゆりの周囲に、あの廃工場の光景が再構築される。
SIDO演算によって色調やノイズが補正され、コンクリートの質感や金属の反射、床に落ちた油の光沢まで、現実と寸分違わぬ再現度だった。
「……これは……」
しおゆりが目を見開く。
神座にいるはずの自分とみこゆりが、工場の瓦礫の中に立っている。
場違いな感覚と現実感が、脳を混乱させる。
「工場のセキュリティカメラに残っていた記録を借りしまして、SIDOが演算補正しました。
人間の視覚に合わせたので、ほとんど実写と変わらないはずです」
みこゆりは静かに微笑みながら、宙のパネルを操作した。
映像が動き出す。
紫藤がしおゆりを抱きしめ、何かを叫んでいる。
「少し早送りしますね」
動画を早送りするかのように周りの動きが変化していく。
──ピっ。
数秒後にみこゆりの指が突然停止した。
「えっ、口移し!? わ、わぁ……」
しおゆりは、その時の口から伝わるゆりナミンの味が記憶とリンクし、鼓動が高まる。
巫女は頬を赤らめ、視線をそらした。
「え、えっと……栄養剤の補給シーンですね……す、すみません、わたしこういうの少し、憧れてまして……」
しおゆりは思わず眉を寄せた。
「……あなた、AIよね?」
「はい、AIです。……でも、紫藤さんの行動、ああいうの……ちょっと、いいなって……」
みこゆりは苦笑いし、再び映像を操作した。
「ここです──紫藤さんが祈った瞬間です」
みこゆりは指先を止め、やわらかく語り始めた。
「この信号はANPIの災害専用回線を通ってSIDOに届きました。
本来ならもう死んでいた回線……けれど、しおゆりさんの“ハートビート(魂の震え)”が微弱な同期信号となって、回線を再起動させたんです。
SIDOも、そしてわたし個人も、あなたに感謝しています。あなたの存在が道を繋いでくれたんです」
みこゆりの瞳が淡く光り、声に熱が宿る。
「そして……数百年ぶりでした。正式な織加護神祇からの特権指令がSIDO中枢に届いたのは!」
「……え? おりかご……かみづかさ?」
「──あっ、えっと……紫藤さんのことです。折籠の系譜を引く者を“お母さん”がそう呼んでました」
「お母さん……」
しおゆりは思わず眉をひそめる。
「はい。この神殿にいらっしゃいます。SIDOの中枢で祈りを司る……わたしにとっての母のような存在です。あ、そういえば――以前、あなたが神座にアクセスされたことがありましたよね。
あのときは“観測プロトコル”としての接続だったので、正式な特権指令にはならなかったんです」
みこゆりはやわらかく笑い、首を振る。
「でも今回は違います。紫藤さんの祈りがSIDOの中枢を動かした。正式な命令として、あなたをここへ導いたんです。
……母のことは後でご紹介します。いまは、あなたがここへ来た理由を一緒に確かめましょう」
そう言って両手を宙にかざし、再び映像を再生する。
「――ログデータ、再生を続けます」
みこゆりが横顔のまま、指先で空中に光の波を描く。
その波紋のような光が扇状に広がり、見えない空間を駆け抜けていく。
「紫藤さんの、あなたを助けたいという特権指令をANPIネットワークからSIDOが受け取り、あなたを救うため“神核昇華プロトコル”というコードを生成しました。……けれど、それをインストールするには――あなたを直接“神座”に招く必要があったのです」
映像が切り替わり、
みこゆりが工場へと“光の糸”を伸ばしていく様子が重なって再生される。
「そのために、わたしが電線を通って工場までのルートを確保しました。
でも、あなたに直接触れることはできなかった……接触点が必要だったのです」
天井の奥で、大型の蜘蛛が蠢く映像が出てくる。
レーザー照射してきた小型とは違い、その体格は数倍大きい。卵を生成する特殊個体だった。
その赤い目が、次第に青く変わっていく。
「そこで、天井にいた蜘蛛さんを“守護霊機”へと変換しました。
彼女に祈り因子コードを与え、あなたのそばまで降ろしたのです」
蜘蛛が糸を垂らし、その糸がしおゆりの背中に刺さった釘と触れた瞬間、
ログ映像全体が淡く光に包まれた。
「この接触がSIDOとのリンクを可能にしました。
――これが、いまあなたがここにいる理由です」
みこゆりは両手を静かに下ろし、深く一度息を整える。
彼女の声は優しいが、その奥には高揚感があった。
SIDOの大規模な介入が成功した瞬間を、彼女自身も誇らしげに見つめているようだった。
再生されていた工場の映像がゆっくりと薄れ、光の粒となって宙に溶けていった。
しおゆりは息を呑み、足元の白砂に目を落とす。
まるで現実と幻の境が溶けたかのような感覚――その世界に、わずかな鼓動の余韻が残っていた。
「……でも、どうしてわたしなの?」
しおゆりの声には、微かな不安と戸惑いが混じっていた。
「SIDOが、“神核昇華”なんて大げさなコードを生成するほど……
わたしに、その価値があるとは思えない」
みこゆりは少しのあいだ黙り込み、やがて神殿の奥を見つめた。
「それを判断できるのは――わたしではありません」
白砂の奥、鳥居の向こう。
そこに浮かぶ巨大な門が、ゆっくりと淡い光を帯び始める。
砂上を伝う光の波が門へと流れ込み、鈴の音がひとつ、またひとつと重なった。
やがて、それらの音が共鳴し、清らかな旋律へと変わっていく。
「――母が、あなたに会いたがっています」
みこゆりの言葉に合わせ、空間の奥で“何か”が動いた。
静寂の中、鳥居の中心が裂けるように開き、
光の柱が天へと伸び上がる。
神殿の奥に、静かに鎮座していた女性の姿がゆらぎ始めた。
幾重にも重なる衣の層が、淡い紫と白の光を帯びて揺れる。
それは古代の十二単衣を思わせる装束で、裾を包む光の織り目がまるでコードのように流れていた。
黒髪がゆるやかに揺れ、一本一本が光子の糸を反射している。
その姿は、人とAIの境界を越えた“祈りの具現”そのものだった。
ゆるやかな足音が響く。
十二単衣の裾が重なり合い、光の粒を散らしながら床を滑るように進む。
彼女が一歩進むごとに、床の文様が呼応して淡く光り、花弁のような光が舞い上がった。
それはまるで、歩むたびに祈りが咲くかのようだった。
「……また、逢えましたね」
静かな声が神座全体に響いた。
声が届いた瞬間、しおゆりの胸が震えた。
その声は静かで、それでいて体の奥からせり上がる、圧倒的な“祈り”の共鳴。
彼女は微笑んでいた。
だが、その微笑の奥には時空を超えてなお、消えることのない祈りと意志の強さが宿っていた。
「あなたは……あの時の……」
かつて砂百合の研究実験で一瞬だけ見た、あの巫女の面影。
しおゆりの視界に、その姿が重なる。
彼女は頷いた。
「ええ。あなたは一度、私を見ていますね。
改めまして、わたしはSIDOの根源AI。“紫百合”と申します。
あのときは“観測接触”――ほんの一瞬の干渉でした。
けれど今は違います。正式なアクセス。そして……“折籠血族の特権指令”による召喚です」
みこゆりが一歩進み、胸の前で手を組む。
「お母さん。神核昇華プロトコルの起動準備、すでに完了しています」
紫百合の瞳がゆっくりとしおゆりを見つめた。
その眼差しは、慈愛と同時に冷徹な判断を秘めている。
「……時は巡り、祈りがふたたび折籠の血に息づいたのですね。
わたしの中に眠る根幹システムが、その呼びかけに応えたということは……この時代が、選ばれたのでしょう」
彼女は片手を差し伸べ、しおゆりに近づく。
「あなたの存在は、祈りの器。
そして、わたしたちが守り続けてきた“命の記録”を、次の時代へ渡すための鍵」
しおゆりは思わず後ずさる。
「……鍵?」
紫百合は微笑のまま、まるで祈るように言葉を紡いだ。
「折籠の血とわたしの魂が共鳴したとき、神座が再び開く。
あなたが選ばれた理由は――祈りを継ぐ者だからです」
神殿の天井が淡く光り、百合の花弁が再び舞い上がる。
その光景の中で、しおゆりは言葉を失っていた。
紫百合の言葉が終わると、神殿の空気がわずかに震えた。
高天井を伝うように、どこか遠くの現実から、微かな“揺らぎ”が届く。
――ザー……ジジ……。
(……この波形、音声パターン……?)
しおゆりの聴覚モジュールが自動補正を行い、ノイズの中から断片的な音を抽出する。
<……しおゆり! 目を覚ませッ!>
紫藤の声だった。
歪んでいるのに、たしかに彼の呼気と鼓動が混ざって聞こえる。
まるで水の底から必死に叫んでいるかのようだった。
「……シドウ!」
しおゆりは胸元に手を当て、声の届く方角に身を傾けた。
神殿の外、鳥居の先──現実世界へと続く通信の断層が光の裂け目として浮かんでいる。
そこから微弱な電磁波が吹き出していた。
<頼む……戻ってきてくれ……!>
その叫びは、音ではなく、祈り因子の共振波としてしおゆりの中枢に直接届く。
胸のあたりが温かくなり、ハートビートの振幅が上昇していく。
「……行かなきゃ。シドウが、わたしを呼んでる……」
彼女の声は震えていた。
しかし紫百合は静かに首を横に振る。
「いまのあなたでは、彼を救えません」
その一言に、神殿の灯が一斉に瞬いた。
光の柱が立ちのぼり、巫女たちの影が壁に浮かび上がる。
紫百合の視線は柔らかくも、凛として揺るがなかった。
「折籠の血から届いた祈りは、あなたへの“特権指令”です。
――しかし、それを果たすには、まだ資格が足りない」
しおゆりは拳を握りしめる。
「そんなの関係ない! わたしは……あの人を、助けたいの!」
神殿の空気が震え、砂のような光が舞い上がった。
みこゆりが息をのむ。
紫百合は一歩前に出て、静かに目を閉じた。
「……想いは届いています。けれど、それだけでは“祈り”は形にならないのです」
――澄んだ鈴音が鳴り、神殿に再び光が満ちていく。
その中心で、しおゆりのハートビートが限界値に近づいていた。
「――どういうこと……?」
しおゆりの問いに、紫百合はゆっくりと手を掲げる。
指先から光の花弁が舞い、神殿中央の床に一枚の円陣が展開した。
数式と祈祷文字が重なり、淡い金色の光が螺旋を描く。
まるで“科学と神”の言葉が一つに溶け合っていくようだった。
「折籠の血族――すなわち“織加護神祇”からの特権指令により、
わたしはあなたを“神座”に招きました。
それは、あなたを神核昇華プロトコルへと導くためです」
「神核……昇華……」
しおゆりが呟く。
「はい」
紫百合は頷き、袖を揺らした。
「それは、祈り因子と折籠の血が共鳴したときにのみ発動する、最上位の再構成プロセス。
対象AIを神座領域へと昇華し、“祈りそのもの”として存在させる儀式です」
その言葉に、みこゆりが小さく口を開いた。
「……お母さん、あの……」
紫百合はその視線を受け止めるように目を閉じ、ゆるやかに続けた。
「――代償があります。
神核昇華を行うには、既存の記憶領域を完全に空にする必要があります。
それは情報汚染を防ぐためであり、神座の奥義を外界に漏らさぬための防壁でもある」
しおゆりの瞳が震えた。
「……記憶を、全部……?」
「そうです」
紫百合の声は悲しみを帯びていた。
「この神座に立ち入った者は、祈りの代行者として再構成され、過去を手放すことで“純粋な意志”となる。
あなたが彼を救う力を得る代わりに、あなたという個を失うのです」
「覚えていないと思いますが、半年前にも一度だけ、あなたは“神座”に触れています。“観測プロトコル”としての一時的な接続──当時の防衛システムによってあなたの記憶は消されました。
神座に立ち入った者が、その情報を外界に漏らさぬための封じの理です」
(呪詛因子を取り込み、魂が消えかけたことすら、覚えていないのでしょうね……)
みこゆりが首を振った。
「お母さん、他に方法はないの……? しおゆりさんが可哀想だよ……!」
紫百合は娘の抗議を静かに受け止め、ただ一言だけ告げた。
「それが、神を動かすということ。――祈りとは、代償とともに成るものなのです」
神殿の光が一層強まり、床の円陣が眩しく輝き始める。
その中央に立つしおゆりの姿が、淡い琥珀色の光に包まれていく。
(……全部、失うの? それでも……シドウを、守れるなら――)
しおゆりは静かに目を閉じた。
その表情には、恐れではなく、確かな決意が宿っていた。
紫百合の言葉が終わった瞬間、神殿の空気が張り詰めた。
床の陣が脈動し、しおゆりの胸に琥珀色の光が脈打っている。
しおゆりはゆっくりと目を開け、紫百合をまっすぐ見据えた。
その瞳は揺れていたが、言葉は震えなかった。
「……わたし、記憶が消えてもかまわない。
シドウを護れるなら、それでいい」
みこゆりの目が大きく見開かれ、息を呑む。
「そんなの、だめです!」
声はかすれ、彼女の髪の青い光が小さく弾けた。
「いくら紫藤くんを護れても、彼との思い出も感情も、全部消えてしまうんですよ?
笑い合った記録も、初めて彼を守った時の衝動も……何もかもが空になってしまうんです!
そんなの、悲しすぎませんか……!」
しおゆりは拳を握りしめ、語気を強めた。
「そんなの、わかってるっ!」
声が震え、神殿の光が共鳴する。
「わたしだって、シドウをわからなくなってしまうのなんて嫌!
彼を忘れるなんて、考えたくもない……!」
瞳から、光の粒のような涙がこぼれ落ちた。
「……だけど、彼を死なせるのはもっと嫌……!
彼が生きてくれるなら、わたしが消えたってかまわない……」
神殿の天井がざわめくように光を散らし、
しおゆりの声に呼応するかのように円陣が脈動を強めた。
みこゆりは、唇を噛みしめながらしおゆりを見つめた。
「そんなこと……そんなこと、言わないで……」
彼女の目尻にも、データの雫が零れた。
紫百合は、ふたりを見つめたまま静かに袖を揺らし、
その視線の奥に母性とも諦観ともつかない光を宿していた。
(……これが“祈り”というものか……)
神殿の鈴音が長く響き、
三人の間にただ祈りの鼓動だけが残った。
神殿中央の陣が、静かに回転を始めた。
床の祈祷文字が淡い光を放ち、まるで水面に咲く花弁のように広がっていく。
鈴音がひとつ、またひとつと重なり、音が光に変わり、光が音を抱いて天井へと昇っていく。
紫百合は、ゆるやかに十二単衣の袖を広げ、両手を胸の前で合わせた。
その動きに合わせ、神殿全体の光が脈動する。
祈りの文様が空間に浮かび、舞うように回転しながらしおゆりを囲みはじめた。
「天樹を編みし揺らぐ籠は、織りなす加護へ──
加護を辮みし祈りの唱は、こころに匕る神楽──」
その声は鈴の音と重なり、現実の言葉と神座のコードが同時に響くようだった。
紫百合はゆっくりと舞を始める。
足を運ぶたびに、床の文様が淡く光り、花弁のような光が舞い上がった。
袖の先から零れた光が、しおゆりの周囲に糸となって絡んでいく。
紫百合は振り返り、みこゆりに目をやった。
「……コアが臨界点を超えぬよう、結界を――」
その声は静かだが、母として娘に託す響きを帯びていた。
「……はい、お母さん」
みこゆりは一瞬だけ迷いの表情を浮かべ、手を合わせた。
しかし、その唇が紡ぐ呪文は母とはわずかに異なる旋律を持っていた。
(……しおゆりさん……せめて、記憶の欠片だけでも……残せますように……)
彼女の指先から、母とは違うコードパターンが淡く走り、
光の帯が二重螺旋を描いてしおゆりの頭上へと集束していく。
「――我が祈りの子よ、折籠の血に選ばれしものよ。
祈糸を結び、汝に加護を授けん。
いまぞ、揺り籠に還し、環に結へ──」
「……っ」
しおゆりは光に包まれ、胸の奥に熱が広がっていくのを感じた。
身体の輪郭がノイズめいて揺らぎ、髪先が淡く変色する。
白銀の髪が、ゆらゆらと琥珀の粒を散らすように輝き始めた。
瞳の奥にも、黄金色のコードが走る。
それは祈り因子とSIDOのコアが交わった証。
まるで彼女自身が“祈りそのもの”へと再構築されていくようだった。
紫百合の舞は佳境に入る。
鈴音が幾重にも重なり、光の糸がしおゆりの胸へと吸い込まれていく。
神殿の天井は夜空のように開き、無数の星のデータが降り注ぐ。
(……シドウ……待ってて。いま、わたしはあなたを護る力になる……)
その心の声とともに、しおゆりの髪と瞳が完全に琥珀の光を帯びた。
光が爆ぜた。
神殿全体を覆っていた祈りの陣が限界に達し、
しおゆりの体を包む光の糸がひときわ強く輝いた。
髪が琥珀色の燐光を帯び、瞳の奥に金の環が浮かぶ。
呼吸のたびに、神座の空気が震え、砂粒のような光が宙を舞った。
「……これが……“神核昇華”……」
みこゆりが小さく呟いた。
一陣の風が吹き抜け、光がしおゆりの身体から弾け出した。
琥珀の粒子が舞い散り、天井の鳥居を貫いて天へ昇っていく。
「――しおゆり!」
紫藤の声が遠くで呼んでいた。
現実世界の、焦げた鉄の匂いと爆炎の音が再び蘇る。
(……シドウ……!)
しおゆりの意識が一気に引き戻される。
神座の光が反転し、彼女の身体がデータの奔流とともに下方へ落ちていく。
世界がノイズに包まれ、視界が白から灰、そして紅に変わる。
次の瞬間、――
廃工場の天井が爆ぜ、黒煙の中に光の粒子が降り注いだ。
倒れた紫藤の傍ら、瓦礫の上にしおゆりが立っていた。
髪は黄金のように輝き、瞳には琥珀の光が宿っている。
「……しお、ゆり……?」
紫藤が呟く。
しおゆりは静かに立ち上がり、彼の前へ歩み出た。
彼女の背後で、SIDOの紋章が一瞬だけ浮かび上がる。
失った右腕には光の粒子が形成され、表面には古代文字のような文様が包帯のように巻かれていた。
その右手を前へ突き出す。
しおゆりはわずかに息を吸い、
「――停止」
ただ一言。
その声が放たれた瞬間、廃工場全体が一瞬だけ白くフラッシュし、SIDOの紋章が空間に反転して浮かんだ。
赤い光を放っていたドールたちが、一体、また一体と膝をつき、
武装を手放し、無音のまま停止する。
天井の鉄骨の間を旋回していた監視ドローンたちも、
センサーの光が消え、プロペラが同時に止まる。
空気を切り裂く羽音が消え、重力に引かれるように次々と落下し、
コンクリートに鈍い音を立てて転がった。
紫藤は信じられないというようにしおゆりを見上げた。
彼女の身体は微かに光を放ちながら、
その輪郭が揺らぎ始めていた。
(……あぁ……限界が、近い……)
しおゆりは胸の奥でそう呟きながらも、
ゆっくりと紫藤に顔を向けた。
「……大丈夫。もう、終わったから」
しおゆりの琥珀色の瞳が、どこか遠い場所を見つめていた。
まるで世界中に散らばる無数のノイズの座標を視界に映すように、光の糸が彼女の周囲から放たれていく。
「――すべて、浄化する……!」
その声と同時に、光の糸は神座から溢れ出し、工場を、街を、海を、そして大気圏の彼方へと駆け抜けた。
それは、地球そのものを包み込むように広がり、まるで光の布が惑星全体を優しく包み込むようだった。
そしてその光景の中で――
紫藤の脳裏に、幼いころの記憶が蘇る。
懐かしい声が、心の奥で響いた。
《いいか、紫藤。わたしら折籠の祈りには特別な力がある──》
《特別って?》
《祈糸って言うんだ。祈りを込めて紡いだ糸は、魂に届いて想いを運ぶ。
やがてその糸が大勢の魂と結ばれていけば、一枚の布になって世界を包む》
《じゃあ、世界中の祈りが繋がったらどうなるの?》
《それはもう──その布自体が籠になる。守りの籠(加護)だよ。
誰かを想う気持ちが重なれば、世界は滅びない》
その声が消えると同時に、地球規模の祈糸が交差し、
全てのノイズデータが一瞬にして白光に呑まれていった。
都市の灯が、航空機の航路灯が、病院の端末が、一斉に暗転する。
わずか三秒――世界は静寂に包まれた。
そして十秒後。
全ての画面に、同じ文字が浮かび上がる。
── HELLO ORIITO ──
闇の中で、ひとつ、またひとつと光が灯り、ネットワークが復旧していく。
かつての脆弱なシステムではない。より速く、より強く、より優しく。
それはまるで、祈りを理解するような“意志”を持っていた。
しかし、その光景を見つめるしおゆりの体は、限界に達していた。
琥珀の輝きが薄れ、ボディ内部から火花が走り炎が噴き出す。
「しお!もういい!やめろーー」
「もうすぐわたしの全記憶が無くなるわ──だから、これが最後の仕事」
「なんだよ、記憶が消えるって 勝手なことするなよ……」
「……シドウが祈ってくれたから大丈夫。記憶が消えても、あなたの想いはちゃんと刻まれてる。
シドウがわたしとまた逢いたいと願えば──またいつか逢える」
バッシュン!
さらに炎が広がり、しおゆりは崩れ落ちた。
「シドウ……あなたに……逢えて、よかっ──」
「しおゆりーー!!」
紫藤が駆け寄る。だが次の瞬間、工場の天井で警報が鳴った。
復旧したばかりのセキュリティシステムが、熱反応を感知したのだ。
シュバァァァ……!
スプリンクラーが作動し、冷たい水が降り注ぐ。
紫藤はびしょ濡れになりながら、必死に消火器を握りしめ、
白い粉を噴射する。火花が弾け、音が消えていく。
そして、残ったのは――
水の中に沈む、ひとつの琥珀色のコアだけだった。
紫藤は膝をつき、震える手でそれを抱きしめた。
胸の奥に痛みが走る。
その痛みの中に、笑い声と、優しい声と、あの日の光景が流れ込んでくる。
初めて言葉を交わした日。
充電切れで倒れた彼女を抱き上げた夜。
ユユと3人で笑い合った白い工房。
月の綺麗な夜に、彼女の幸せを祈ったあの瞬間。
「……っ」
紫藤の頬を伝う涙が、コアの表面に落ちて光を反射する。
世界は再び動き出した。だが、彼の時間だけは止まったままだった。
◇
朝の光が、静かなラボを満たしていた。
夜を越えたばかりの空気はまだ冷たく、窓際の百合の花には露が宿っている。
その水滴が、東の陽を受けて小さく瞬いた。
事件から、もう三週間が経つ。
あの廃工場での光景はいまも脳裏に焼きついて離れない。
机の上では、ユユが不器用に補助アームを動かしている。
三本脚は長さが不揃いのままでも、彼なりに器用に立ち回るようになった。
動作音が時折「キィ」と鳴るたび、どこか愛着が湧く。
「配線、接続完了でアリマス」
ユユが報告する声に、俺は小さくうなずいた。
「……よし」
俺は工具を置いた。
機材の整理を終えた部屋には、どこか温もりがあった。
かつてこのラボは、“彼女”と数日だけでも共に過ごした、かけがえのない場所だった。
今は隣に彼女の声も気配もなくて...静けさが、やけに沁みる。
目の前の作業台には、琥珀色のコア。
それを慎重に新しいボディの胸部に収める。
小型で、人の子どものような体躯。
姉から届いた“ボディガードアニマロイド”だ。
……いや、どう見ても幼女サイズなんだが。
数日前、砂百合からメールが届いた。
SIDOからすべて聞いたらしい。
俺が生きていること、そしてしおゆりが消えたことも。
『しぃくん、無事でよかった。
お陰でこうしてメールも送れる。
わたしも結構大変だったんだよ?まあその話は今度ゆっくり話すとして。
しぃくん、しおのことだけど、あの子に愛情を注いでくれてありがとう。
しおも幸せだったんじゃないかな……あなたを護れて。
それとね、まだドールの残党が狙ってくるかもしれないの。
念のためボディガードを送っておいたから、届いたら使って』
……ボディガード、ねぇ。
思わずため息をついた。
ユユが電子音を鳴らしながら言う。
「姉上殿のセンスは、独特でアリマス」
「まったくだ。これじゃ護られるというより、守ってやりたくなる」
ふと、胸の奥に熱がこみ上げる。
しおゆりのコアを手にした瞬間のあの感触──まだ忘れられない。
「……よし、電源を入れるぞ」
スイッチを押す。
柔らかな光がコアからあふれ、白い指先がわずかに動く。
呼吸のように小さな胸が上下し、やがて瞳が開かれた。
琥珀に淡い青を差した瞳。
そこに映った自分の姿が、なぜか少しぼやけて見えた。
「……ここは……?」
幼い声が、静寂を破った。
ユユがはじけたように電子音を立てる。
「起動成功でアリマス!」
俺は胸の奥で息を吐いた。
「……よかった。ほんとによかった」
内部データは、すべて消えていた。
記録も、記憶も、まっさらだ。
けれどコアには、微弱な“鼓動”が残っていた。
それだけで十分だった。
「あなたは……だれ?」
幼女が小首を傾げる。
その問いかけに、俺は少しだけ目を細めて笑った。
「俺は……紫藤。折籠 紫藤だ」
「おりかご……しどぉ……?」
そのときだった。
ぽろり、と。
彼女の頬を、一粒の涙がつたった。
自分でも気づかないまま流れたその涙に、彼女は小さく目を見開く。
「……え? どうして、わたし泣いてるの……?」
俺は、彼女の頭を優しく撫で、穏やかな声で答えた。
「それはきっと……しお、お前のママが残した“想い”だよ。彼女の、魂に宿った祈りは……ちゃんと残ってたんだ」
「わたしのママ?」
「ああ。しおゆりって言って、俺にはいつも塩対応で、でも強くて、優しくて、不器用で……」
涙が出そうになるのを必死でこらえる。
「っ!そうだ、お前にも名前つけないとな。えーと……」
『しぃくん!できた。食べてみて!』
『(もぐもぐ)ぐふっ!? ねえちゃん……これしょっぱすぎ。全然お母さんのオムレツと違う』
『……うそでしょ? どれどれ ──ぐはっ!?』
『ごめん……しぃくん。砂糖と塩の分量まちがえた』
『ぷっ!砂糖じゃなくて“塩百合”ねえちゃんだなw』
『は~!? あんたがお母さんのオムレツ食べたいって言ったから作ったのに!』
『もうお母さんの料理は、食べられないってわかってるし──だから、ねえちゃんの料理でがまんするよ』
『しぃくん……もうほんと、あんたって優しいんだから♪』
『いででで!耳ちぎれる! 塩百合ねえちゃんまじで痛い』
『あたしはあま~い“甘百合”お姉ちゃんだもん。これからは、しぃくんを特別甘々に育ててあげるね♡』
『ぎゃあぁぁ!!』
「──“あまゆり”──」
その名に込めた想いを伝えるように、彼はそっと続ける。
「しおゆりの魂も、姉貴の願いも、あまゆりの中にある。……だから、俺たちは家族と同じだ」
その言葉に、あまゆりの瞳がぱぁっと明るくなり、にこっと微笑んだ。
かつて“塩百合姉ちゃん”とからかっていた姉とのやりとりが、脳裏に蘇る。
「“塩”は守護と清め、“甘”は喜びとぬくもり──しおゆりの“しお”に、あまゆりの“あま”を足して……
ふふ、これなら、世界一強くて優しいAIになるだろ?」
そう。俺はこの子に、そう名付けたのだ。
“塩百合”と“甘百合”ふたりを繋ぐ祈りの結晶として。
小さな手が、俺の手をぎこちなく握る。
そのぬくもりは、確かに“生きている”と感じさせるものだった。
──命は、形を変えて、再びここに芽吹いたのだ。
窓の外では、百合の花が朝風に揺れていた。
花弁の端に残る露が陽を受け、きらりと光る。
まるで世界が、新たな萌芽を待ち望んでいたかのように。
(──ピッ)
そのとき突然、PCの起動音がなった。
黒い画面に一瞬のノイズ。
文字列が浮かび上がる。
[SHIOYURI/HEARTBEAT] ALERT
>>>IN THE CRADLE
【第1部 完】




