番外 ④
いくら何でも、本物の王子様を、居間の使い古したソファーに転がしておくわけにはいかない。
高熱で苦しんでいるのなら、なおのことだ。
リアラは仕方なく、かつての両親の寝室に案内した。
この部屋なら、少々埃っぽくはあるが、リアラの本に塗れた足の踏み場もない私室に比べれば、マシだろう。自発的に呼吸もできるはずだ。
(……何で、こんなことになっちゃったんだろう?)
王子の恋人だと新聞の記事にされてしまった時は、本当に大変だったのだ。
最近、ようやく、誤報だったと、報道各社が勝手に判断してくれたおかげで、リアラの日常が帰ってきたのだが、それでも、王子を一晩泊めたことがバレたら、一体どんな未来が待っているか分からない。
何としても王宮に戻ってもらわなければ……と、熱で朦朧としているレイヴィンの隙をうかがって、外の護衛の方々に助けを求めようとしたが、目敏いレイヴィンはリアラがそういう素振りをする度に、立ち塞がってこう言うのだ。
「この程度の熱で彼らを呼んだりしたら、大騒動になるからな」
――大騒動?
つまり、それは医者などが大挙として駆け付け、四頭馬車が何台も連なって、この家に押し寄せるということだろうか?
――そういえば、そうだった。
確かに、王室の健康状態に関して、国民は敏感だった。
特にレイヴィン王子は、幼い頃、体が弱かったので、殊更に心配されている記事が多かった。
少し体調を崩しただけで、新聞の隅に、お見舞いの言葉が並んでいることをリアラは知っていたはずだ。
……それは、困る。
レイヴィンの言うとおりだった。
そんな事件が起きたら、リアラがようやく取り戻した平和な妄想の日々が崩壊してしまうではないか。
(だけど……ね?)
何だか、それって、どうなんだろう?
……だったら、よりにもよって今夜、リアラの家になんて、来なければ良かったのではないか?
(そう……よね。本当に、そのとおりだわ)
リアラの出した結論は、正しいはずだ。
しかし、正しいから良いというわけではない。
何となくそれを口にしたら、今より更に大変な目に遭いそうに気がしたので、リアラは黙っていることにした。
もう黙って、レイヴィンを看病するしか、選択肢はないのだ。
憎たらしい言動を繰り返している王子様ではあるが、ここに来て、また一段と熱が上がっている。
本当は、きちんと医者に診てもらいたいが、仕方ない。
(まっ、何とかなるわよね)
素人判断ではあるが、きっと、疲れからくる風邪だろう。
病人の看護は、母が存命の時に、リアラもこなしていたことだ。
とりあえず、温かいスープも飲ませたし、冷やしたタオルを額にも乗せてみた。
これで、様子を見て、少し汗をかいたら、こまめに体を拭き、水分補給を欠かさずにして、ぐっすり眠れば、すぐに熱も下がるはずだ。
(それで駄目なら、命懸けで王宮に報告しよう……)
速やかに朝になることと、彼の熱が下がることを切望しつつ、リアラは水とタオルと、念のため、生前の父の衣服を持って、レイヴィンを案内した部屋に入った。
きっと、眠っているはず……。
そう、勝手に思い込んで、部屋の扉を開けてみたが……。
――馬鹿だった。
彼は、ばっちり起きていた。
潤んだ瞳で瞬きもせずに、リアラのことを見つめている。
リアラは、無意識に、そのまま、扉を閉めて、出て行きたい衝動に駆られてしまった。
「失礼しました」
「なぜ、過去形なんだ?」
レイヴィンからは、先ほどの苛烈さがすっかり消え失せていて、対応はいつも通り丁寧だった。でも、熱のせいか、声は少し掠れている。
「君の家だろう?」
「忘れそうになりました」
「それは大変だな。じゃあ、自覚を促すためにも、そこで突っ立ってないで、さっさと入ってきたらどうだ?」
さあ、入って来いと、寝台の中から手招きされた。
起き上がるほどの体力はないようだが、その仕草が、丁寧を通り越して、下心っぽく感じてしまったのは、どうしてなんだろう。
まるで、未知の領域に足を踏み入れるような子羊の心境だ。
(……逃げられないのよね?)
つい、及び腰になってしまうのは、彼とリアラの距離が近づけば近づくほど、山積している問題が可視化してくるからだ。
このまま二人でいることに、良いことなんて、百害あって一利もないのだ。
そんなこと、リアラにだって、ちゃんとわかっている。
(だけど、今夜は、不可抗力じゃないの?)
恋人とか、そういうのじゃない。
これは、純然たる人助けなのだから……。
不承不承、腹を括って、室内に入ったリアラは、ゆっくりとした歩調で、寝台のレイヴィンに近づいた。
正直、そこまでは、世間体とか、常識とか、そういった現実的なことが、リアラの脳内を席巻していたのだが……。
しかし、至近距離で、レイヴィンを目にしたリアラは、すべての現実を放棄した。
(…………まあ!)
そこには、リアラの妄想の源泉があったのだ。
(なんと、神々しい)
艶々の金髪が寝台の白い枕に散らばっていた。
潤んだ流し目、微かに上気している顔と、少し荒い呼吸。この三点だけで、リアラの一生分の妄想の糧になりそうな光景だった。
(あえて言うのなら、赤い花が欲しいわ。それで、蔦が絡まっちゃったりしてたら、めくるめく耽美の世界が……)
余りの興奮に、リアラが呆然と口元に手を当てていると、察しの良い王子様は、案の定、リアラの妄想に気がついていた。
「おい。勢い余って、犯罪者になるなよ。私は君の餌になる趣味はないんだ」
「えっ、ああ。それは大丈夫です。特に問題ありませんから」
「……問題は、君の頭の中だろう? 今度は一体、私で、何を妄想していたんだ?」
「別に、そんなことを王子は知らなくとも宜しいのでは?」
「蛇のような目を向けられている男の身にもなってみろ」
それは、大変だ。何たることだろう。
申し訳ないことをした。
自分の視線が爬虫類系だったとは、リアラも想像していなかったのだ。
「ああ、でも、王子。別にたいしたことを妄想していたわけではないんですよ。やっぱり綺麗な人は、熱を出しても美味しいんだなって思っていただけで……」
「美味しいという表現自体に問題があると思うがな。やはり、捕食の関係ではないか?」
「いやいや、捕食なんかじゃありませんよ。どちらかといえば、主食です。たとえて言うのなら、私は、王子のその姿を見ているだけで、パン三つくらい、バターなしで食べることが出来そうだという意味です」
「パン三つ……だと?」
予想通り、レイヴィンは閉口していた。
「多いのか、少ないのか、分からないじゃないか?」
「そうきましたか……」
「君の変態的な妄想力に、脱帽はしている」
「王子の回答も見事に斜め上をいっていましたけどね。でも、王子、変態はしょせん変態なのです。どうして、こんな危険人物のところに、貴方のような偉いお方が居座ろうとしたんですか? 腹いせするにしても、健康な時を狙わないと、駄目じゃないですか」
リアラはそう言いつつ、レイヴィンの前に身を屈めて、しゃがんだ。
更なる彼の色気がリアラの五感すべてに、訴えかけてくる。
……が、それよりも、まず、彼のこめかみや、首のあたりに薄ら汗が滲んでいることを見逃してはならなかった。
―――これは、つまり、拭いた方が良いという合図に相違ない。
「王子、ここは一つ、脱いでください」
「…………どんなネタだ。それは?」
「私は本気なんです」
二人して、適度な沈黙を迎えた後に、レイヴィンはぐったりと答えた。
「それこそ、君の言っていたお医者さんネタ通りじゃないか?」
「ああ、まあ、そうですね。スープも飲みましたしね。でも、これは、そういう意味ではないのです。本気の……」
「本気の……ネタなのか?」
―――それは、違う。
だけど、今の今まで、リアラがしてきたすべての行いが悪かったことは、自覚していた。
「あの……。王子、私は」
偶然が重なって、ネタと現実がごちゃまぜになってしまっているが、リアラは本のネタを現実で実践したいと思うほど、身の程知らずではないのだ。
レイヴィンには、事あるごとに、話して聞かせていたはずなのだが、まるで理解してくれていないようだ。
今回こそ、ちゃんと、懇切丁寧に説明して差し上げたいのだが……。
……しかし。
「お医者さんごっことは、よくも命名したものだな」
なぜか、レイヴィンは、上機嫌である。
毎回毎回、意外なほど、少女小説のネタを楽しみにしている節はあった。
「いいぞ。私としては、口移しで薬というのが気になるネタだ。やると決まったのなら、ほら、早くそれをしてくれないか?」
ああ、どうしてか、レイヴィンが荒い呼吸の中、にっこりと嬉しそうに微笑しているのだ。
(何なの。この謎の必死さは……?)
誰か助けて……と、心の中で呟きながら、仕方なく、リアラは本当のことを伝えた。
「…………でも、王子。移す薬自体持っていませんよ」
「えっ。ないのか?」
「はい。王子と違って、私は健康優良児なんですよ。ここ最近、医者になどかかってないのです。陽気な変態でいられて、幸運というところです。まあ、外に出て護衛の方に訊けば……」
「分かった。……じゃあ、もういい。水だ。口移しで、私に水をくれ」
王子様は、どうしても口移しがご所望らしい。
病原菌が脳に巡ると、人はこんなふうに、なってしまうのだろうか?
「でも、王子。水は、さっき一人で飲んでいらっしゃったじゃないですか。なぜ、飲める人にわざわざ、そんな仕打ちをしなければならないんです?」
「仕打ちではない。私に対する励ましだ」
「風邪が伝染るじゃないですか」
「酷い女だな」
「とにかく、私は王子のお体を拭きたいのです」
タオルを腕に引っかけて、揉み手しながら、リアラはレイヴィンに迫る。
変態には変態で対応が一番だ。
彼は不自由な体で、わずかに腰をひいた。
やっぱり、一人で体を拭くほどの体力も残っていないのだ。
「君は、これ以上、私で何の遊びをしようとしているのだ?」
「だから、遊びではなく、看病の一環ですって。口移しが良くて、どうして体を拭くのが嫌なんです?」
「胸に手を当てて考えてみればいいだろう。分かるはずだ」
実際、胸に手を当てるまでもなかった。
彼の言いたいことは、重々分かっている。
「心配なさらないで下さい。王子を取って食おうなんて、私は考えてもいません。決して、撫でまわすようなこともしませんし、蛇のような目で観察することは、もうしません。ここは、お体のためと思って、私の言いなりになって下さい。……ね?」
「―――嫌だ。絶対に」
何でか、あっけなく一蹴だった。
(おかしい。この人は、何をそんなに、体を拭かれることを嫌がっているのかしら?)
王子であれば、その程度慣れっこではないのか?
体を拭いておきたいのは、リアラなりに、本気の病人看護のつもりだった。
この点に関しては、リアラは、まともなことしか言っていない。
このままでは、汗が冷えて、体が寒くなる。悪循環ではないか?
「何を恐れているんですか? 王子」
「これを恐れないで、何を恐れるんだ?」
「何度も言っているじゃないですか。私は美しいものを鑑賞して楽しむのは大好きですが、それを、どうこうなんてしません。見るなとおっしゃるのなら、徹底して、目を覆いますから……」
「それはそれで、もっと嫌だ」
「駄々をこねて、どうするんですか?」
気まぐれな我儘には構っていられないと、リアラがボタンに手をかけようとしたら、しかし、問答無用で手を退けられた。
「やめてくれ……と言っているんだ」
「えっ?」
驚くほど、目が本気だった。
今までの戯れが嘘のように……。
彼は、本音で嫌がっているようだ。
リアラは今更、レイヴィンが絶対的な拒否反応を示していることに気づいた。
――本当に今更であった。
「リアラ。私は体を拭くのも、着替えることも自分でできる。……君の家の中でこんなことを言うのも何だが、少し、静かにしてくれないか」
レイヴィンの口調は、冷酷に近いほど淡々としていた。
……とりつく島もなかった。
病人の前で、リアラの正常な言動と行動は、きついのだ。
「もっ、申し訳ありません。…………本当に」
図が高かった。
とんだ、大失態だと、自分が調子に乗っていたことを、リアラは心の底から反省して、荷物を置き、そそくさと一礼して、部屋から退場した。
――慣れ慣れしい?
そうなることを、リアラは一番危惧していたはずなのに……。
(嫌われた……のよね?)
扉に背中を預けて、ぽかんと口を開けたまま、リアラは、その事実を、じわじわと実感していた。
(当然よね)
変態痴女が自分の服を剥ぎ取ろうとしているのだ。
こんなに危険な現実は、生身の男性にとっては有り得ないことだろう。
彼は今までが、鈍感で善良な人……過ぎたのだ。
変態リアラと共存できると、心の底から信じていたに違いない。
リアラは、ずっと彼の寛容さに甘え続けていたのだ。
(だけど、これがお互いにとって、一番良い道なのよね)
所詮、現実のお綺麗な王子様と、変態が服を着て歩いているだけのリアラでは、釣りあいなんて、取れるはずもないのだ。
(だったら、せめて、一晩だけ……ね)
リアラは、鈍い胸の痛みを無視して、明日の分のスープも作っておこうと、のそのそと居間に向かった。
レイヴィンが食べたくないと言ったとしても、それでも、リアラは用意だけはしておきたかったのだ。




