番外 ③
「…………幽体離脱ですか?」
「馬鹿な。よく見ろ。本物だ」
確かに。レイヴィンの長い足は、健在だった。
「ドアの鍵が開けっ放しだったぞ。君って子は、本当に不用心にも程がある」
「ああ、そういえば……」
本の続きが気になって、玄関の鍵のことなど考えてもいなかった。
「……まあ、この家で盗られるものなんて、怪しい本以外、何もないですしね」
へへへっと笑ったら、微かに震える手で、軽く頬を引っ張られた。
「自分の身を心配しろと私は言っているんだ。まったく」
レイヴィンは慣れたふうに、リアラの隣に腰をかけた。
了承を取らないとはさすがだ。
ドアが開けっ放しだったとはいえ、不法侵入したことについては、罪悪感の欠片すら持っていないらしい。
(さすが、王子だわ。いつも以上に王子様らしいわよ)
一応、二人がけのソファーであるが、二人で座ると余裕がなくなる。
本を持ったまま、腰を浮かしかけたリアラだったが、見事に腕を引っ張られて、倒された勢いでソファーに仰向けに沈んだ。
毎回思うのだが、一体、この人はリアラで何がしたいんだろう?
「再三、言っているではないか。私邸に戻ってきたら良い。ここでは何かと私が心配だ」
「まあ、何より今が心配のしどころと申しますか……」
「どういう意味だ?」
「王子と私の距離が近いという意味ですよ」
辛うじて、レイヴィンは隣に座った格好になっているが、ソファーに埋もれているリアラにとっては、押し倒されているのと、そんなに変わらない。
いい加減離れてくれと、リアラにしては、珍しく自己主張したつもりなのに、レイヴィンは意外なふうに、リアラのすぐ横で、目を丸くしていた。
「近くて何の不都合があるんだ? むしろ私は好都合だが?」
「うーん、こう言っては、何ですが……」
リアラは話の通じない相手の胸元に注目した。
こうなったら、変態を主張して、彼のまともな良識に呼びかけるしかない。
「目のやりどころが困ります」
「はっ?」
レイヴィンは、リアラの視線を追うように、自分の姿を見下ろして、少しだけ開いたシャツに目をやった。
いつもレイヴィンは、王子らしく、どんな時も着崩したりしない。
なのに、今日はシャツのボタンを二つ外していた。
変態リアラにとっては、丁度良い、はだけ具合であった。
「な、何だ。この程度で? 私は裸じゃないぞ」
「いえ、王子。裸も良いのですが、その……、骨も良いのです。そこの鎖骨ですよ。これは重要な代物でしてね。特に男前な男性の鎖骨は、私にとって美味しさ満点なのです」
リアラが恍惚の表情で話していると、レイヴィンは理解できないとばかりに、首を傾げていた。
「…………君は、骨にまで興味があるのか? 守備範囲があまりに広すぎて、私は追い着けそうにないのだが。だったら、私は君の鎖骨をなぞりながら、徐々に服を脱がせていく方を取るがな。そちらの方がよほど楽しいネタではないか?」
……愚かな。
何を言っているのだろう。それではただの下ネタではないか?
たった一晩で、彼はキラキラ王子からギラギラ王子に成長を遂げたのか?
リアラは大きく首を横に振った。
「違いますって。嫌ですねえ。王子。こんな骨のでっぱりなんて、触った程度じゃ、楽しめないんですよ。見るからいいんです。ああ、立派な張り具合だなって、この線がいいのよねって、近場で観察して、ほっこりするのが良いのです」
「私は、触るだけで終わるつもりもないのだが?」
……駄目だ。もう。
彼のまともな良心は死滅してしまったらしい。
「………………さあて、今日はもう遅いですし」
リアラは、不毛な会話を打ち切るべく、唯一の武器である本を王子の顔の前に立てた。
早急に断ち切ったのは、何となく、レイヴィンの顔色が悪いように感じられたからだ。
かわいそうに。きっと、真顔でおかしなことを口走ってしまうほど、彼は疲れているのだ。更に、最近の彼の不可解な言動と行動の数々も、日々の疲れによるものだろう。…………絶対、そうに違いない。
「もう、王子は、お帰りになった方が宜しいと思います」
「馬鹿なことを言うな。私は今ようやく仕事を終えてここに来たのだ。私の時間はこれからなのだぞ」
「もちろん、分かっています。王子が昨夜のことで、早々に仕事を切り上げて、こんな所にいらっしゃったってことは……。私が悪かったんです。すいませんでした」
「悪い? 何に対して、謝罪をしているんだ。君は?」
リアラは、後ろめたいからこそ、普段より早口で捲し立てた。
「ほら、昨夜はレストランで……、この本の内容に関して、何か色々話したような気がします」
「ああ、看病ネタと、お医者さんがどうとか、意味不明なことを口走っていたな」
レイヴィンが途方に暮れた顔で、ぼんやりと告げた。
記憶にないとはいえ、高級ホテルのレストランで何てことを、リアラは話してしまったのだろうか……。
(…………国家規模で、暗殺されそうだわ。私)
こんな女がレイヴィンの近くにいて良いはずがない。
恥ずかしくて、たまらなかった。
「……ああ、もう、そんなことを喋っていたんですね。本当にすいません。全力ですいません。そうですね。確かにお医者さんごっこは、これはネタではないのですが、こう、看病ネタ定番の汗を拭いて差し上げたり、スープを食べさせてあげたり、口移しで薬を飲みこませたりというですね。一連の流れを私がそう命名しただけなんです。あくまで、変な意味ではないことを、誓ってご報告して……ですね」
「……変な意味の方の「お医者さん」を、私は知りたいのだが?」
「それを知ってしまったら、まずいでしょう。変態を極めたいのですか。王子は?」
「何で、そうなるんだ? 言い出したのは、君じゃないか?」
むきになって反論するレイヴィンの顔を、改めて間近で覗き込んでから、しかし、リアラはようやく確信を持った。
………………やっぱり……だ。
「王子。分かりました。いつにもまして、王子が変態な理由です」
「はっ? ちょっと待て。私はいつも通り、変態ではないぞ」
そんな水掛け論、どうだっていい。
リアラはきっぱりと断言した。
「王子は熱があるんですよ。間違いありません。風邪を召されたんじゃないですか?」
ーーそうだ。
何となく、頬を軽く引っ張られた時から、リアラは違和感を覚えていたのだ。
レイヴィンの手は、異様に熱かった。
驚いている彼の額に手を当てると、案の定、思った通り、熱がある。
頬も紅潮しているし、目もとろんとしている。
この様子からすると、結構、熱も高いのではないだろうか?
「早く王宮に帰って、休んだほうがいいですって」
「…………君は、まさか、ネタを現実に強要するつもりなのか?」
「私は……」
(…………反論できない)
確かに、この流れはリアラの愛読している「看病ネタ」に驚くほど、見事な具合で乗っかっている。
状況的に、上手く出来過ぎているのだ。
だけど、リアラは妖術が使えるわけでもなければ、レイヴィンを病にして喜ぶような変な性癖だって持っていないのだ。
ーーーこれは現実なのである。
「ともかくですね。王子。ネタだろうが、何だろうが、王子に熱があることは、紛れもない事実なのです」
淀みなく言い切ってから、リアラは自分の正当性を再確認した。
(そうよ)
こればっかりは、本当のことなのだから、仕方ないではないか……。
開き直った勢いで、まっすぐレイヴィンに視線を向ければ、彼も少し不服そうではあったが……。
「そうだな」
自分で額に手を押し当てて、ようやく気付いたようだ。
「……確かに、今日は何だかやけに体がだるくて、疲れたような気はしていたのだ」
そして、ぐったりと、ソファーに後頭部を預けた。
自覚したことで、だるさも倍増してしまったようだ。
いっそ、このまま眠らせてあげたいところだが、いやいや、しかし、ここで一晩寝かせるのは、まずいはずだ。
「さあ、そういうことですから。とにかく、帰らないと。王子のことだから、お付きの人も外に待機しているんですよね?」
「まあな。護衛は数人いるはずだ。馬車は王宮に返したがな」
「な、何で、返しちゃったんですか?」
…………何しているんだ。一体。
リアラは愕然となった。
この人は、本当にろくなことをしない。
「私が今夜、王宮に帰るか帰らないかは、分からないじゃないか?」
「いや、帰るでしょう。帰りますって。帰って下さいよ。一刻も早く」
混乱の余り「帰れ」ばかりを連呼してしまった。
だって、心配にもなるだろう。
……今夜、彼は王宮に帰らず、リアラの自宅で一体何をするつもりだったのだろうか?
(駄目だ。考えたら、負けだわ)
リアラはわざとらしく、大声を上げた。
「よしっ。では、ここは私が外に出て、護衛の方々に、王宮まで伝えてもらうことにしましょう。王子は動かない方がいいですから。ちょっとの間、ここで待っていて下さいね」
それだけ言い残して、さっさっと、その場から立ち去ろうとしたものの、しかし、駄目だった。
やっぱりレイヴィンは、リアラを離してくれない。
「私は、行って良いとは言っていないのだが?」
「……王子、あの……ですね」
リアラは、溜息を深呼吸に変えて、気持ちを整えるしかなかった。
着古したドレスの裾を、レイヴィンが両手で掴んでいる。
地味で古いドレスを着ていたのは、幸運だった。
取れてしまって、残念だと思う装飾が一切ない。
(いやいや……)
違う。問題はそこではないのだ。
一体、彼が何を主張しているのか、現実経験の乏しいリアラに分かるはずもなかった。
「…………あの、王子は、子供役に挑戦中なのですか?」
「どういう意味だ?」
「私は、王子のお母上ではありませんが?」
「つまり、私に甘えるなと言いたいのか?」
(おおっ)
素晴らしい。感心するほど、頭の回転は速いようだ。そして、その頭の良さを駆使して、彼はこんな子供じみた嫌がらせをリアラに仕掛けている。
本当に、病人なのだろうか。
こんな人は、病人ではないのだから、リアラは萌えやしない。
とっとと、この変態の穴倉から退場してもらって、しっかり治療を受けてもらうべきなのだ。
「ええっと、甘えるとか、そういう問題ではなくてですね。このような小汚い家では、王子の体調に良くないと思ったのです。医療設備もなければ、本の埃が体に悪いはずです。王子は、きっと疲れがたまっているんです。私のことなんて気にしないで、しばらく静養に専念して、体を治した方が良いと思うのです」
「…………君のことなんて、気にしないで?」
「ええ。はい」
リアラは無意識のまま、あっさり、頷いてみせた。
「そうですとも。私のことなんて、きれいさっぱり、気にせずに、心ゆくまで養生なさってください」
心配かけまいと、笑顔を作ってみせれば、手前に座っているレイヴィンの顔は、更に赤みが増していた。
(熱が上がってる?)
気になって一歩、近寄ろうとしたら、嵐のような怒声が飛び込んできた。
「…………ほほう。私のことなんて、きれいさっぱり、気にするな……とはな! 君はよくも、そう、抜けぬけと、そういうことが毎回毎回、言えるものだな!!」
「ちょっ、王子。ここは落ち着いて……」
「はっ、馬鹿な! これが落ち着いていられるか……。君のことを気にせず、私が静養に専念している、その間、君は今のように、腑抜けた顔で、本を読みあさっているんだな。私が来ないことに安心して、ドアも開けっ放しで、不用心に、にやにやと。この変態がっ!!」
何だか知らないが、レイヴィンは、とてつもなく怒っているようだ。
血走った双眸が鋭利な刃物のように、一点、リアラを睨めつけている。
(風邪を引くと凶暴になる性格なのかしら?)
それはそれで美味しい二面性だが、リアラの得意分野ではない。
……と、変な方向に、頭を働かせ、現実逃避をしていたリアラだったが、しかし、次の瞬間、レイヴィンは、急に声の調子を落として、怖いくらい、落ち着き払った様子で宣言したのだった。
「……私は、帰らないぞ」
「はっ?」
――何だと?
――――今、何か言わなかったか?
目を白黒させながら、石像のように硬直しているリアラから、ぷいっと、視線を外したレイヴィンは、とどめを刺すように、もう一度、決然と繰り返した。
「私は帰らない。ここで静養することにする」
「何ですって!?」
「反論はなしだ。もう、決めた」
何を勝手に、決めてしまったのか。
(……ていうか、ここは、私の家なのよ。私の主張は? 許可は?)
多分、リアラが口を酸っぱくして「帰れ」と言ったことが気に入らなかったのだろう。
しかし……だ。
…………かといって、「寂しいから、すぐに元気になって欲しい」なんて、そんな薄ら寒いことを、リアラが真面目な顔して言えるはずがないではないか。
どうして、そこを理解してくれないのか。
いや、理解してほしいと思うこと自体が、おこがましいことなのか……。
(えーっと、これはつまり、どういうことなのかしらね?)
ーーーーお泊まり会ですね。
…………まあ、それは、とても素敵ですね。
他人事のような言葉を、脳内で棒読みに発音しながら、リアラは、あれだけ大切に抱きかかえていた本を床に落としてしまった。




