プロローグ
これはごく最近に書いた話です。
徹夜で1日100枚を目指して書いた、素面では書けない危険な話です。
極限に近く、しかし濃厚なラブシーンを含まない最低限度の甘々はどこだろうと追及して書いたら、何だかこんなことになりました。
でも、あまり甘くないかもしれません。
すいません……。
(切ないなあ……)
リアラ=クラウスは、貧困に喘いでいた。
手持ちの金は、十五シリン。明日の朝食にパンを買うのがやっとの金額だ。
しかし、今日は『謎めいた王子にさらわれて……』の二巻の前売り日である。
これを買わなければ、今日まで生き抜いてきた意味がない。
(……私が馬鹿だったわ)
散財が過ぎたのだ。つい先日、女性向け小説を一冊購入した。それが実は続きもので、全十五冊に及ぶ感動巨編だった。
――食費にまで手を出したら、人としておしまいだ。
そんな当たり前のことを、分かっていても、リアラは買わずにはいられなかった。
(食費を切り詰めて、妄想に走る私……ね)
滑稽だ。そして、痛い。更に付け加えるなら、このままでは貧困から孤独死の道に一直線だ。
見事に現実と接点がなくなりつつある。容易に想像がつく未来を覆せないのは、この衝動買いはもはや中毒のようなもので、今更やめることができないからだ。
煌びやかな世界。王子様とのドキドキ恋愛夢物語。リアラにとって、非日常を味わうことのできる唯一の娯楽だ。ありえないと痛感しているからこそ、悦に浸ることができる。
出来れば、働きたくない。好きな本を何度も繰り返し読んで生きていたい。
(そんなわがままは、許されないだろうけど……)
掌で握りしめている鈍色のコインに視線を落とす。
――やはり、食事を抜くか……。
(困ったわね……)
さほど困ってないように、心中で呟いてみたが、由々しき問題ではあった。こんなリアラに、金を貸してくれる奇特な友人なんているはずもない。
(本当、空から食べ物が落ちてくればいいのにね……)
ありえない空想をしながら、リアラは国立公園を足早に歩いて行く。
クオーツ王家の威光を最大限に発揮して造られた広大な敷地には、綺麗に剪定された樹木と、芝生。勢いよく、しぶきをあげる噴水が設けられた目玉の人工池があった。
若者から老人まで、世代問わず人気の高い公園であるが、あいにく今日は曇天だ。いつ雨が降るかも知れない園内は、まばらに観光客がいる程度だった。
リアラは、日課のように、ほぼ毎日この公園を歩いていた。
入園無料の大きな公園は、魅力的ではあったが、別にここが好きだというわけではない。
ただ、この公園を横切ると書店が近いので利用しているだけだった。
今日もいつもと同じ、もっともアーケードに近い公園の出口を目指す。
度々使用している近道は、整備されていない野原を突っ切て行くものだ。出口のすぐ前で、石畳の大通りに合流するのだが、途中、青々と茂った木々の枝が大きな影を作り、少しだけ暗い雰囲気があった。特に今日のような天気の日は、人気もなく不気味である。
(何でかな? 今日は変な胸騒ぎがするのよね)
普段は、早売りの本のことばかり考えていて、それ以外のことなど、まったく眼中にないリアラなのだが、今日は不思議と周囲のことばかり気になってしまう。
そして、その野生の勘は見事に当たってしまったらしい。
リアラの通行を妨げるように、大通りに抜ける手前に人影を発見した。
ただならぬ気配で言い争いをしているのは、二人の男だった。
金髪の長身男性と、黒髪のやや低い身長の男性。
詳しい特徴までは遠目で分からなかったが、金髪男が黒髪男の手を振り払った瞬間、白い包みに覆われた何かが地面に落ちたのを目撃した。
金髪男は、特にそれを拾い上げるでもなく、すたすたと歩いて行く。黒髪男はそんな金髪男を追いかけて行き……、やがて公園から二人の姿は消えてしまった。
(一体、何だったのかしら?)
疑問を浮かべながらも、リアラは彼らが対峙していた場所に向かった。出口に行くには、その道を通らざるを得ないのだ。
そこで、ようやく気がついた。
今まさに、足を踏み下ろそうとした場所に、細長い物体が落ちていることを……。
(これって?)
金髪男がつい今しがた、投げた物体だった。
食欲を刺激する芳醇な香りに、リアラは敏感に反応してしまう。
「……パン……じゃないの?」
――空からパンが降って来た。
有難いことに、数人前はあるだろう大きなバゲットは、丸々紙で包んである。持ち帰り仕様に店主が丁寧に梱包したのだろう。有難いことだ。おかげで地面に落ちても中身は無傷であった。
空腹という本能に導かれるままに、リアラの両の手がパンに向かって伸びていく。包み越しに触れると、微かにまだ温かった。焼き立てだ。
「これ、高級なやつよ」
包みを少し開いてみて、リアラは目を丸くした。クルミ入りバケットだ。こんな高価なパン、店のガラス越しに眺めた程度で、一度も食べたことなんてない。
毒入りかと疑い、その場にしゃがんで鼻を押し付けた。香りだけでは分からない。包みを丁寧に取っていき、じろじろとパンを眺める。いっそ一口齧ってみようかと考えた矢先、自分の前に突っ立っている人間がいることに、ようやく気が付いた。
「…………あ」
顔を上げるより先に、人として頭を下げた。
「ごめんなさい」
しかし、謝罪はしても、リアラはパンを手放さない。
沈黙には弱いので、渋々少しだけ顔を上げてみると、金糸のような髪がちらりと微かに見えた。予想通り、先ほどの長身金髪男のようだった。
今更、パンを回収しに戻ってきたのだろうか?
「あ、これ、拾っちゃって……。美味しそうなパン。貴方のですよね? ははは」
観念して正直に告げた。口の端で笑ってみせたものの、しかし、男は乗ってくれない。それどころか、一層の渋面を作って、こちらを見据えている。
(……だよねえ?)
――そうだろう。リアラは、今の言葉で、このパンは男のものだと認めてしまったのだ。
これでは、自分が彼らの一部始終を目撃した挙句、パンを盗んだようではないか?
「……しかし、君は、それを食べようとしていたよな?」
的確な指摘は刃のようだった。リアラはこれ以上怪しまれないよう笑みを深く刻みこむ。
「違いますよ。誤解ですって。何だろうって、匂いを嗅いでいただけです」
「鼻をつけるのもどうかと思うぞ」
「よくご存知で……」
だったら、そうする前に止めて欲しかった。拾った時点で、彼が戻ってきてくれたのなら、リアラとてこんな暴挙には出なかっただろう。
恨みがましく男を横目で見返す――……と。
(あれ……?)
男は大きな眼鏡をかけていた。長い前髪によって、少し顔も隠れていたが、けれども、至近距離で、彼の顔を拝んだリアラがその正体を分からないわけがない。
漆黒のフロックコートの下に、白いシャツ。襟足まで伸びた艶やかな金髪。
遠目で見れば、質素だった装いも、間近で見れば、所々豪奢で、品の良さを感じる。
(…………何で?)
落ちたパンなんかより、遥かに驚倒すべき事態だった。
……というより、この国に住む人間で、彼を知らぬ人間はいないはずだ。
「…………レイヴィン王……子」
建国五百年を数えるクオーツ王国の誉れ高い第二王子、レイヴィン=フラン=クオーツ殿下、その人だった。