第1章 ①
レイヴィン王子の知名度の高さは、異常なくらいだった。
見た目の華やかさはもとより、頭の良さも抜群で、女性にも大人気だ。
隣国パルヴァ―ナのエスティーナ姫が王子に恋心を抱き、縁談の話が持ち上がった話は有名で、王子がきっぱり恋人の存在を明かしたことで、うやむやになったという噂だ。
また、文才にも秀でていて、王子の描く悲恋物語は、常に書店の店頭に置かれている。
確か、権威ある文学賞も受賞したはずだ。図書館で流し読みをしたリアラには、高尚すぎて、正直、意味が分からなかったのだが……。
王都に住む国民であれば、王家の人間を一度や二度は遠目で目撃するはずだった。
それほど、現在の国王陛下は、国民に近い存在であろうと努力していて、式典や催しにはしょっちゅう姿を見せていた。
国民もまたそんな国王や王族の姿勢に好感を抱いていて、身近にあって尊崇できる存在として、毎日の新聞には必ず王族に関する記事が掲載されていた。
(私には知らない世界の話だと思ってたけど……)
……何で?
「どうして、貴方様のような御方が、お供も連れずに、こんなところにいらっしゃ……るのでございますか?」
「ああ、そのお供とやらとはぐれてしまったのだ。仕方ないので、別れた場所に戻ってきてみたのだが?」
「はあ」
「君は、知らないようだな」
レイヴィンは、鼻を鳴らして、腕組みをした。
ーーでは、やはり先ほど口論をしていた相手が王子の護衛だったのか?
それにしても、偶然が過ぎるのではないだろうか。
王子のパンが公園に落ちているだけでも天文的な確率だろうに、それを金欠、空腹状態のリアラが拾ってしまったというのも、出来過ぎではないか?
(まさか、偽物? これは、王子のそっくりさんを連れてきて、どっかで仕掛け人が私を試しているとか?)
リアラはすぐさま、落ち着きなく、周囲を見渡した。
(……何もないわね?)
仕掛け人とごろか、静かで少々鬱蒼とした小道には、人の姿自体見当たらなかった。
もっとも、見つかるような場所に待機しているはずもないのだが……。
「一体、どうしたのだ。おかしな娘だな。そのパンだって……」
「……ぐおっほっ!」
リアラは、わざと咳き込んでレイヴィンの話を止めた。
(まだこのネタ引っ張るの? 王子のそっくりさん)
リアラの喉元から、突っ込みの言葉が出かかったが、しかし、誰が一体、何のために偽物の王子を使って、リアラをからかっているのか見当もつかなかった。
第一、落ちているパンを拾って食べようとする人間がリアラ以外にいるだろうか?
(…………あらら?)
ーーて。
(いないわね……)
そうだ。
リアラ以外、このような状態に陥る人間なんてまずいないのだ。
だったら、ひっかかる人間もいないのに、嵌めようとする人間もいるはずがない。
(じゃあ、何なの? 本物? まさか?)
「本物ーっ!?」
「何を騒いでいるのだ? 失礼だな。ここに私が一人でいるのは、そんなに悪いことなのか?」
「悪くないです。全然、大丈夫です」
この堂々たる態度。
生まれ持っての不遜さは、やはり王族ならではなのだろう。
ーーーこの人は、第二王子のレイヴィン王子。
その人なのだ。
どうやら、本当に……。
(大変なことになったわ)
――正真正銘の本物が、今まさにリアラの目の前に立っていらっしゃる。
(ちょっと待って? ……ということは?)
……そうして。
リアラは、ようやく自分が本当にとんでもない窮地に立たされていることを悟った。
パンを拾い食いしようとしたところを、がっちり目撃されてしまったのだ。
これが一般人だったしても、痛ましいことなのに、よりにもよって、王族に見られてしまったのだ。
しかも、国民の好感度一番の第二王子にである。
彼のパンを盗み食いしようとしていたなんて……、それがたとえ、王子が口をつけてなかったパンだったとしても、バレてしまったら、国家一の犯罪者として投獄され、且つ王子好きの女性から袋叩きに遭うだろう。
(いや、それよりなにより……)
このままでは、今日発売の『謎めいた王子にさらわれて』が買えない。それが一番悔しかった。
(このままじゃ、私が謎めいた王子にさらわれて、生きて帰れない目に遭いそうだわ)
混乱は頂点に達していた。
パンを差し出すか否か……。差し出そうとする寸前のところで硬直している。弁償しますと言い出すことができれば良いのだが、しかしリアラの有り金は底をつきようとしているのだ。パンを買えるはずがない。
まじまじとパンを見つめていれば、レイヴィンはリアラのその真剣な眼差しに、首をかしげていた。
「そんなに、君はそのパンを……?」
「わ、私は、その……、殿下の本を……、えーっと愛読していまして、ですね」
とりあえず、王子を褒め称え、持ち上げ、良い気持ちにさせよう。
(善良な国民が自分の本を愛好していると分かれば、手荒な真似はしないはずだわ……)
そう見込んでの作戦だった。
しかし、レイヴィンは眉根を寄せて、リアラを見下ろしている。
ずれた眼鏡の隙間から、彼の眼光の鋭さを知った。
――もしかして。いや、もしかしなくても、怒ってる?
(……しくじったわ)
誉められているのに、不快な人間がこの世にいるらしい。よく分からないが、彼はそういう類の人間のようだ。
もういっそ、慈善事業として、このパンを恵んで下さいと言えば、良いのか……。
(……そうよね。そうだったわ。王子だもの。朝食を買うお金もない貧乏人から、パンを取ろうなんてしないわ。最初から正直に話せば良かったのよ……)
下手に策を弄して損をした。いくら必死だったとはいえ、着地点の見つからない会話の矛先を何処に向ければ良いのか分からない。
「あー、その、えーーっと」
「君は、私の書いた本が……、本当に好きなのか?」
(おっと!)
今更、何か言ってきた。
何もかも見透かすような澄んだ湖面のような青い瞳。態度は悪いが、やはり、新聞の白黒写真で見るより、はるかに優美で綺麗な人だ。――しかし、今はそれどころではない。
「…………ああっと、そういうわけではなくて」
「では、どういうわけなのだ?」
益々墓穴を掘ったようだ。リアラは頭が真っ白になった。もはや、この不毛な会話を、どう終わらせれば良いのか分からず、ただ、ひたすら捲し立てるしかない。
「私は王子の本の愛読者ですが、でも王子の書いていらっしゃる悲恋ものは、正直古い感じがして、もっと前衛的で、刺激のある作品も読んでみたいと、そう……思ってですね」
「ほう。前衛的でいて、刺激のある作品……ね。具体例は?」
「えー、具体例……で、ございますか」
そこまで考えてない。……ていうか、まったく何も考えていない。
ただ、面白いと言ったら、胡乱な目で見られそうだから、つまらないと言ってみただけだ。
正直なところ、どうだっていい。
……ていうか、逃げたい。王子の目の届かない場所まで、今すぐ。
(でも、……見てるわ。見てるのよ)
レイヴィンは腕を組んで、尊大な態度でリアラを睨んでいる。
――怖い。
このまま酸欠で死んでしまうのではないかと感じるほど息苦しい。
リアラが大好きな本の中の少女たちは、王子たちに情熱的な言葉で口説かれ、心臓をときめかせている。……なのに、リアラは現実の王子に脅迫めいた顔で迫られて、今まさに息を引き取りそうだ。
(いや、私はまだ……)
新刊本を読むまでは死ねない。
辺りは、昼の薄暗さから、夜の闇に包まれ始めている。
ここで全力を発揮しなければ、書店だって閉まってしまうだろう。
リアラは左手に握りしめたパンを見た。これがすべて悪いのだ。こんな所に、美味しそうな香りを漂わせて落ちているから、リアラは拾わずにはいられなかった。
(こんな馬鹿げたことのために、私を待っている本を犠牲にすることなんて出来ないわ)
「そう、具体例、それはですね……」
リアラは自棄になって、パンの包装を破り捨て、バケットを口いっぱいにくわえた。
「たとえば、こう、ぐふっ。パンをくわえて私は王子にぶつかるのです。そこで男女の出会いが発生しましゅ! その場は離れても後日再会するところに、男女の縁を感じさせるのです。そう、こんな感じです!」
バケットをくわえたまま話すことは、不自由極まりないにも関わらず、リアラはレイヴィンに、どんとぶつかってみた。
反論させないための緊急手段だったが、レイヴィンは悲しいくらいびくともしていない。それより追ってきた黒髪の男が血相を変えて、何事か叫んでいた。まずい。暗殺未遂だとでも思われたか?
だが、リアラの心配をよそに、レイヴィンは至極、純粋に問うてきた。
「ちょっと待て。パンをかじった女が男にぶつかって、どうしてそこに縁を感じるのだ?」
「…………に、人間には三欲というものがあって、食欲を見せている女性の姿に男性は性的な魅力を感じるのでしょ……ふ」
「そうなのか。私は知らなかったぞ?」
「そういうものでふ。ですから、王子も多種多様な恋愛話に挑戦してみて下さい。一読者として次回作を期待しておりましゅ。では!」
ものすごく適当なことを、場当たり的に言い放ったリアラは、再びレイヴィンとぶつかったと見せかけて、全力疾走で正面に走り抜けた。
「おいっ! 君!!」
背後でレイヴィンが呼んでいる。黒髪の男も「待て」と喚いていた。
(待てと言われて、止まれるかって、いうのよ……)
絶対に無理だ。捕まったらすべて崩壊する。
足ががくがくと震えているが、必死に前へ動かす。片手でパンを握りしめて、追い風を受けて突っ走る姿に、道行く人が目を凝らしていたが、知ったことではなかった。
(こんな体でも、使い物になって良かったわ……)
日ごろ運動なんて、絶対にしないリアラだ。少しでも外に出て、日銭を稼いでいたのが良かったのかもしれない。
「まさか、パン一つでこんな目に遭うとは……」
(わざわざ捕えになんて来ないわよね?)
現行犯ならいざ知らず、さすがに一国の王子が、パン一つのことで警邏隊を使ってまで、リアラを捜すようなことはしないだろう。
「…………あっ、本、買わなくちゃ」
閉店間際の書店に滑り込んだリアラは、むき出しのパンを手に「謎めいた王子にさらわれて」の早売りを手にして安堵した。
結果的にも、美味しいパンを獲得することに成功したのだ。良かったのではないか……。
――そう感じたものの、悪夢は直近でやって来たのだった。




