To Bloom in a Thousand Souls Ⅱ
やっぱ白酒かなー。ついでに炭酸も、もらっとこっと。泡の暴力、歓迎すぎる。
中庭の、ちょっと日陰になってる一角。そこに、こっそりと酒を量り売りしてる人がいる。もともとは薬膳酒ってやつ。ただ、飲み心地がやたら良いもんだから、泥酔界隈に、あ、いや、言いすぎた。一度でも口にしたオトナたちにバカウケして、いつのまにか金取る羽目になったらしい。当の本人は、困ったなあって顔しながら、けっこう楽しそうなのがまたズルい。
なにより、その人は──
「フォーン、ファ」
──わたしの名前を、陽だまりへ落とすように呼ぶ声。
「せんせい! 白酒ちょーだい!」
「今日の分はな。もうみんなに配ってしまった」
がーん。モブの群衆どもに負けた。限定販売の推しのグッズを横取りされた感覚。がっくしと肩を落とす。もう、それは悲劇の始まりかのように。
「すまないな」
本当に申し訳なさそうな顔をしてるこの人は“せんせい”。
凶悪な流行病が蔓延して、村が半透明になりかけてた数年前、どこからともなく現れて、この白酒──今は空っぽの竈しかないけど──でみんなを助けてくれた、神様的ポジションの人。わたしの推し活対象の相手。
「えぇぇぇ〜!? 昨日は、あんなにあったのに〜!」
わかりやすく、せんせいに駄々こねモード突入する。綺麗な絨毯でもあったら二万回転げてた。
「私が味見した分、吐いて戻そうか」
せんせいが、ぺかっと笑う。
ご来光みたいな笑顔。
神〜〜〜!!おはよう仏〜〜〜!!
せんせいの吐き戻しなら、一向にかまいません。と、想いを伝えようとする前に、憎まれ口が勝手に開く。
「さすがに、汚いよ。せんせい。ひく」
本音と真逆のセリフが口からすべり出る。わりとナチュラルに出たので自分にドン引き。これがツンデレか。せんせいに対しては、なーんか素直になれない。
「あー」
間の抜けた声を出しながら、せんせいが、頬を指先でぽりぽりとかく。しょーもないことを考えてる時のせんせいの癖だ。かわいっ。
「代わりといっちゃなんだが、駄賃やるから、なんか飲み物でも買ってきな」
せんせいが拳を突き出す。格闘ゲームなら当たりもしない遅さだけど、わたしにはクリティカルヒットした。かっこいいっ。
おそるおそる、その拳の下に両手を構えて、コイントスの受け皿モードに入る。すると、何枚かの銀貨が、ぽんぽんと落ちてきた。目も光るし、心も踊っちゃう。
「やったあ!! せんせい、ハイスペ大富豪マン!」
脇腹つつこうと肘を繰り出したけど、掠りもせずひらりと避けられる。スタイリッシュ回避。イケメンは何してもかっこいい。罪。
そんなわたしをせんせいは鼻で笑って、門の方を顎でしゃくる。
ボールを投げてもらった犬のように、一目散に門へ。
くぐる直前、名残惜しくて振り返ると、せんせいが手をひらひら振ってくれていた。それを見て、わたしも倍速で手を振る。むしろ振りすぎて遠心力で指がもげそう。
その勢いを殺さないままに、街へダッシュした。
しばらく走って、市場に到着。ここで気づく。
──あれ、酒って子供には売ってくれないんじゃ?
案の定、「子どもでしょ」「未成年でしょ」「ていうか誰?」って、取り合ってもらえず。大人の名前出してみても、ゼロ回答。
「けち」と罵ったり、「大人です。体は」色気で落とそうとしても、真顔で対応された。時間とわたしの浪費がすごい。
やっとの思いで手に入れた代替品の透明な液体を見つめて、ウチはひとつ舌打ちをした。
「ちぇ」
けちくさい大人たちに聞こえるように打ち鳴らしたけど、思ったより音がすかすかだった。なんか負けた気がした。
なんとなく哀しい顔を、意味もなく街道に晒してみる。
だって、ほかに反抗のしようが分からなかったから。
家の方向に向き直って、戦利品を確認してみる。
せんせいの体温が、ちょっとだけ残ってる銀貨と引き換えに、冷たさの抜けかけた桃ジュースを手に入れた。
この温度を守りたい。
誰のために?って聞かれたら、わたしか。
そうだけど、いや違うな、にいちゃんにだ。
にいちゃんの口に届くまで、せんせいのぬくもりはまだ消えちゃだめだ。
だから銀貨を握っていた方の手はポケットにしまって、ジュースのカップは逆の手に持ち替えた。
行きの倍の速さで帰る。
だって、倍急げば、温度もきっと、半分しか逃げないだろうから。
ゴールテープをぶっ千切るつもりで、土楼の門を突っ切った。
「たっだいまー!!」
って、いつもの声で叫んだのに、誰も何も返してこない。
今日はみんな耳栓でもしてるのかな。それともかくれんぼ中?
わたしの声が、圧縮された空気に殺された。
どこにも響かない。まるで“生きてる音”が、この場所に禁止されてるみたいに。
人の気配が、そっくりそのまま、塗りつぶされたみたいに存在しない。
まるで、今しがたこの世界から人類だけがログアウトした、そんな空気が漂っていた。
それでも、いつもみたいに、少し遅れて──雨の日の傘みたいに──誰かの声が降ってくると思ってい
一歩、また一歩と、動くことを拒否する足を土楼の中心に向かわせるけど、その都度、耳が寂しがる。
あら、フォンファちゃんおかえり──
その声は、来なかった。ひとつも。
空気が止まっていた。
いや、風だけは吹いていた。風だけが、無遠慮にわたしの髪を撫でて通りすぎる。
誰かの話し声や、鍋の底を叩く音や、ケンカの口喧嘩の声があったはずの、生活のざわめきはどこにもなかった。
風だけが、生きていた。
乾いた地面が、ひび割れたまま放置されていて、自身のカケラを土煙に混ぜていた。
いつもなら隣の部屋のばあちゃんが打ち水をばら撒いててもいい時間のはずだ。
水場に立てかけてあった桶は空っぽ。締まりの悪い蛇口から一呼吸おきに水滴が垂れる。桶に落ちて空虚な音を響かせる。
椅子はひっくり返されたまま。誰かが急に立ち上がって──誰にも、起こしてもらえなかったみたいに。
風鈴だけが、誰もいない夏を頑張って演出している。空回りの音が、やけにこだましている。その健気さを、少し愛おしく感じた。
「…………」
思わず立ち止まる。
カップの中の桃ジュースは、もう冷たくなかった。
そもそもわたしの走りじゃ、間に合わなかったのかもしれない。
懸命にもがくのをやめてしまった自分に気づく。
ここまで守ろうとしてた銀貨とジュースの温度たちが、もはやどうでもよくなっていることにも。
再び放ったわたしの「たっだいま」は、誰にも拾われず、地面に落ちた。
声が、音じゃなくて埃になって散った気がした。
──ふと視界の端を、何かが動いた。
影。
夕暮れの陽に引きずられるように、誰かの影が土楼の奥へと吸い込まれていく。
歩く速度は遅いけど、なぜかとても確かな足取り。
後ろ姿はあまりにも見慣れていて、あまりにも見慣れていない。
わたしは、目を見開く。というか、瞼が閉じようとしない。
瞬きの起きないまま、視界がベール越しみたいに滲んだ。
それはきっと、目が乾いたせいだけじゃない。
あの影。
せんせい──のように見えた。
でも、どこか違う気もした。
同じ背格好、同じ歩き方、同じ──でも、同じじゃない。
何かがズレているようで、何もズレていないようで、やっぱりズレているようだった。
光に照らされない顔の部分が、なぜか異様に暗かった。
でも──わたしは、その冷たい顔を見なかったことにした。見間違いか、土楼の雰囲気がそうさせるのに違いなかったから。
ただ、わたしは、その暗い部分に、確かに見覚えがあった。
いまのじゃなくて、もっと前の。
救いに来てくれたあの日の、あの姿。
影は、何も言ってくれないまま、静かに折り返される記憶の扉を勝手に開ける。
──古びた記憶の鍵が、カチャリと外れた音がした。
その音に導かれるように、わたしの視界がぐらりと傾いた。
時間が、わたしの意志も聞かずに、巻き戻り始める。
せんせいが、土楼に現れた、あのとき。




