鳳凰座の転入星⑳
少し震えが落ち着いたところで私はフォークを握りしめ、恐る恐る目の前の幻子に視線を向ける。
彼女のハンバーグを小さく切り分け、口に運ぶその仕草が、まるで何もかも解決したかとでも言うように軽やかだった。
「そういえば、何で私にシャボン玉の歌を?」
私は問いかけた。
先程の選挙で、私が歌うと不可解な力が発動して、台風の目がやって来ることは分かった。
だが、なぜ幻子はあの瞬間、あの歌を選んだのか。
いくらシャボン玉の歌が誰もが知っている有名な曲だとしても、私が歌うにはあまりにも幼稚すぎる。
幻子はナイフを静かに置き、ゆっくりと顔を上げた。
まぶたが常に閉じられていても分かるぐらい、とびきりの笑みを浮かべていた。
「妃姫先輩、昔、私が泣いてるとき、いつもその歌を歌って慰めてくれたよね♡」
「え?」
私はフォークを握る手に力を込め、彼女の言葉を頭の中で繰り返しながら記憶の断片を探した。
私の記憶の中にすらりとした長身、腰まで伸びるつやつやの真っ黒な髪、閉じたまぶたに長い漆黒のまつげ、おでこに縦に走る傷さえなければ完璧な美少女が泣いている姿なんてない。
そんな事、あったっけ…?
思い出そうとしても、何故だか記憶がボヤけている。
「えっ、て?妃姫先輩?」
幻子の声が急に高くなる。
「もしかして、妃姫先輩、私がママに怒られて泣いてた時の事まで忘れたの?」
「ママ?」
私は眉をひそめ、彼女をじっと見つめた。
「何? どういうこと?」
ママって、お母さんのことだよね?
幻子がお母さんに怒られて泣いて、私がシャボン玉の歌で幻子を慰めるなんて、いつの話?
私が幼稚な歌を歌ってあげる程、そんなに小さい頃の話?
幻子の顔に、しまった、という影がよぎった。
彼女は慌てて両手で口を覆い、閉じられたままの目を泳がせる。
「うぅん、なんでもない…!」
彼女の声は急に小さくなり、まるで何かを隠すようにテーブルに視線を落とした。
「私達、小さい頃から一緒だったの?」
私はさらに詰め寄った。
彼女の言葉の裏に何かがある。
確信に近い感覚が、胸を締め付ける。
「ごめんね、嬉しくてつい、喋り過ぎちゃった…。」
ポツリと呟いた幻子はそれ以上口を開かず、唇を固く閉ざしたままだった。
彼女の沈黙は、まるで私の質問を飲み込む黒い穴のようだった。
追求したかった。
だが、彼女の頑なな態度に、言葉が喉に詰まった。
私は彼女の事をよく知らないけれど、彼女は私の事をよく知っていて、何故だか知らないけれど私を慕っている。
そんな彼女が、急に寂しそうにうつむき、口を閉ざした。
きっと私が知ってしまったら、お互いにとって不都合な事が起きるのかもしれない、そんな気がする。
「そういえば、まーちゃんはどこ?」
私は小さく息を吐き、別の疑問を口にした。
話題を切り替えた事に安心したのか、幻子の時が再び動き始めた。
彼女の指が、ナイフの柄をそっと撫でる。
まるで時間を引き延ばすような、緩慢な仕草だった。
そして、ゆっくりと笑顔を浮かべる。
「私ならここにいるよ?」
その声は、サラッと聞き流してしまう程に軽やかだった。
私は彼女をまじまじと見つめた。
確かに、目の前にいるのはまーちゃんの姿。
だが、違う。
彼女の声の響き、全ての仕草、閉じられた目の奥の眼差し――それは私のまーちゃんではなかった。
「確かに見た目はまーちゃんだけど……あなた、まーちゃんじゃないよね?」
幻子はくすっと笑い、まるで私の動揺を楽しむように首をかしげた。
彼女の唇が、薄く歪む。
「あぁ、アンドロメダ座の子ね。あの子は……」
彼女の声が急に軽くなり、次の言葉が私の心を凍りつかせた。
「死んじゃった♡」
「え?」
私の声は小さく、ほとんど吐息のようだった。
頭が真っ白になり、時間が止まったかのように感じた。
まーちゃんが? 死んだ?
そんなはずがない。
「どうして? 何で?」
死んじゃった、って……どういうこと?
私の視界が揺れ、記憶の中のまーちゃんの笑顔が、血のように赤く滲んだ。
「そりゃ、私たちだって不死身じゃないんだよ?」
幻子の声はあまりにも軽く、まるで冗談を言うような調子だった。
だが、その軽さが逆に私の心を抉った。
「嘘……まーちゃんが?」
「アンドロメダ座ちゃんは幻星力で自己再生できたからね。おかげで私の番が来ないかと焦っちゃった。」
彼女の言葉が、冷たい刃のように胸に突き刺さる。
私は首を振った。
信じたくなかった。
まーちゃんは、いつも私のそばにいた。
「そんな……だって、まーちゃんは……首を傷つけられても、丸ごと食べられても、いつも何事もなかったように戻ってきてくれたじゃない!」
私の声は震え、涙がこみ上げた。
あの大和撫子のような上品な笑顔、どんな傷を負っても涼しい顔で優雅に立ち上がる姿――。
「いくら回復能力が高くても、幻星力の妨害を受けながらじゃ無理よ。相手が悪すぎたの。可哀想にね。」
簡単に分かりやすく解説する幻子の声はどこか遠く、まるで他人事のように響いた。
「そんな!?」
「そんなって……まさか、何度も生き返ると思って戦わせたの?」
その言葉に、私は凍りついた。
幻子の声には、ほのかに非難するような響きがあった。
それは私の心を切り裂き、深い闇の中に突き落とした。
「やめて!!」
私の叫び声が部屋に響き、テーブルの皿がガタンと揺れた。
絶望と、自分自身に対する怒りが胸の中で爆発し、涙が頬を濡らす。
私が……、選挙を嫌がっていた私が、私の身代わりとしてまーちゃんを戦わせ続けたのが悪いって言いたいの?
「妃姫先輩の事だから知っててやってるのかと思ってたけど、そう…、知らなかったのならそれはそれで仕方ないけど……」
「やめて! それ以上言わないで!!」
私は両手で耳を塞ぎ、幻子の言葉を遮った。
どうして?
私がまーちゃんに無理をさせたから?
あの時見た、吹き飛ばされたまーちゃんの冷たい視線が、頭から離れない。
彼女の目が、まるで私の裏切りを糾弾するように私を貫いた。
対して幻子は小さく首を傾げ、まるで私のパニックを遠くから眺めるような、微笑ましいとでも思っているかのような穏やかな表情を浮かべた。
「まぁ、私も今は幻子……まーちゃんだけど?」
「違う! あなたはまーちゃんじゃない!!」
私は大声で否定した。
「大丈夫よ、妃姫先輩。代わりに私がまーちゃんになってあげるから…」
「嫌だ! あなたはまーちゃんじゃない!!」
私は金切り声で否定した。
突然やって来た彼女が、まーちゃんの姿でそこにいる。
突然現れて、まーちゃんのフリをして、気安く私に接する事が耐えられなかった。
「まーちゃん、助けて!!」
私の叫びは空しく部屋に響き、涙が床に滴り落ちた。
幻子はそんな私をじっと見つめ、ふっと小さくため息をついた。
彼女の唇が、まるで嘲笑うようにわずかに歪んだ。
「ふぅ。転生しすぎたせいとはいえ、本当に人が変わっちゃったのね。」
彼女の声は冷たく、まるで私の苦しみを遠くから観察しているようだった。
「でもね、そんな妃姫先輩を次の星徒界長にするのが私達、蝶想幻子の使命だから…。」
彼女の言葉は、私の心に冷たい棘を突き刺した。
まーちゃんも、私に選挙で当選、つまり生徒会長になって欲しいと言っていたから。
私は応えられない。
まーちゃんを失った今、選挙から辞退したい。
その気持ちしか残っていない。
でも、それを伝えたら、目の前の彼女は何と言うだろう?
笑って許してくれるのだろうか?
それとも、怒って私に襲い掛かるのだろうか?
とても怖い。
しばらく重い沈黙が続き、突然、幻子がパンッと両手を叩いた。
その音が、暗い部屋に不気味に響いた。
「そうだ! 嫌なことは全部忘れてしまいましょ♪」
「え?」
私は呆然と彼女を見つめた。
彼女の明るい声が、まるでこの状況に不釣り合いな異物のように響いた。
嫌なことを忘れる?
そんな事、出来るはずがない。
「ここは妃姫先輩の夢世界でもあるのだから、一旦忘れれば元に戻るでしょ?」
幻子は席から立ち上がり、音もなく私の背後に回った。
彼女の足音が、まるで幽霊のようになめらかだった。
彼女が私の両肩に手を置くと、その感触は冷たく、まるで私の体温を吸い取るようだった。
「そうしたら、まーちゃんはまた私と一緒にいてくれる?」
「え、もちろんよ♡」
彼女の声は自信に満ち、しかしどこか空虚だった。
その言葉が、肩越しに私の耳に滑り込む。
私はただ、呆然と頷くことしかできなかった。
嫌な事、選挙やをまーちゃんを失った事を忘れる。
本当に出来るなら、そうしたい。
悪い夢は忘れて、楽しく新しい夢を見た方が良い。
私は悪魔の囁きに乗った。
「さぁ、妃姫先輩。強くお願いして、今日の出来事を思い浮かべながら……」
「うん、わかった……」
「私の鼻歌を真似して。」
そう囁いてから幻子がやや高い音程で旋律を奏でる。
その曲は、私が口ずさもうとする度に、まーちゃんに止められていた曲だった。
その禁じられた曲を、私は幻子につられて歌い始める。
口ずさんでいると何故か、このやり取りが初めてではないような気がした。
頭の奥で、遠い記憶がチラつく。
だが、それを掴む前に、意識がゆっくりと暗闇に飲み込まれていく。
「また逢いましょう……」
意識と一緒に白く霧のように溶けて消えていく部屋にはまだ、甘く腐ったようなハンバーグの匂いが漂っていた。
その匂いも、段々と薄くなっていく。
そして、心の奥で、何かが壊れる音がした。
パリパリと、枯れ葉が粉々になるような、軽く音が沢山響き、私の心は、段々と崩れるようだった。
「私が守ってあげるから…、大好きよ…」
私じゃない。
まーちゃんは、幻子は、違う誰かの名前を呼んでいた――。




