……バレるなよ?
ガキンッ! と、深夜の静寂を切り裂くような鋭い音が訓練場に響き渡る。
月明かりの下、ルチアは何度目かの打ち込みをカイルに放っていた。
疲労で腕が鉛のように重い。足元もフラつきかけているが、カイルは一切手加減せず、それでいてルチアの致命的な隙を的確に突くような、実戦さながらの厳しい手合わせを続けてくれていた。
(負けない……! まだやれる……!)
気力を振り絞って踏み込んだルチアの剣を、カイルは鮮やかに受け流し、静かに木剣を下ろした。
「……そこまでだ」
カイルの短い言葉とともに、ルチアはその場に崩れそうになりながらも、なんとか膝をついて荒い息を整えた。
ハッ、ハッ……と、肺が焼けるような感覚の中、ルチアは頭を下げた。
「はぁ、はぁ……っ! ありがとうございました……!」
カイルは汗だくになり、肩で息をしているルチアをじっと見下ろした。水色の瞳には、冷酷さではなく、確かな評価の色が浮かんでいる。
無言のまま、カイルは自身の腰に下げていた革の水筒を取り出し、それをスッとルチアの前に差し出した。さらに、ポケットから清潔な布を取り出して放り投げる。
「……っ、これって……?」
「飲め。それと、汗を拭け」
ぶっきらぼうで、相変わらず必要最低限の言葉しか発しないカイル。
だが、その行動には確かな気遣いが込められていた。
「ありがとうございます……!」
ルチアはありがたく水を受け取り、喉を潤した。冷たい水が乾いた体に染みわたり、心地よい疲労感が全身を包み込んでいく。汗を拭きながら見上げると、カイルはすでに自分の木剣を拾い上げ、納めるところだった。
「……お前は真面目すぎる。向上心があるのは悪くないが、一人で抱え込みすぎだ」
カイルは背中を向けたまま、静かに言葉を続けた。
「さっきの任務でも、アルドが声をかけていただろう。……仲間を頼れ。お前は一人で戦っているわけではない」
「……隊長……」
その言葉は、口数の少ないカイルなりの最大の労いであり、気遣いだった。
厳しさの裏にある温かさに触れ、ルチアの胸の奥がじんわりと熱くなる。
「はい! ありがとうございます、隊長。肝に銘じます!」
ルチアが明るく元気よく返事をすると、カイルは背中を向けたまま、小さく「……明日も朝から訓練だ。早く寝ろ」と言い残し、足音も立てずに夜の闇の中へと歩み去っていった。
(カイル隊長って……本当に、不器用だけどすごく優しい人なんだな……)
去っていく頼もしい上司の背中を見送りながら、渡された水筒とタオルにそっと触れ、温かい笑みを浮かべるのだった。
◇
夜の静寂が包み込む王都の宿舎。カイル隊長との夜練を経てからというもの、ルチアにとって夜の自主訓練は欠かせない日課となっていた。
今夜も木剣を抱え、訓練場へと続く静かな廊下を歩いていたときだ。
「——夜遅くにどこへ行くつもりだ、ルーク」
冷たく、澄み渡る声が暗がりから響いた。
ヒッと息を呑んで振り向くと、柱の影からサイラス団長が姿を現した。マントを羽織り、月明かりを浴びた銀髪が妖しく輝いている。相変わらず足音一つ立てずに近づいてくる姿は、まさに『氷の死神』そのものだ。
「だ、団長……っ! お疲れ様です!」
慌てて背筋を伸ばし、騎士の礼をとるルチア。サイラスは冷ややかな黒い瞳で、ルチアの手にある木剣を見つめた。
「最近は、より一層訓練に励んでいるようだな」
「はい! カイル隊長に日々鍛えていただいております!」
チョーカー越しのハキハキとした声で答えると、ルチアは真っ直ぐにサイラスを見つめた。第三部隊で学び、成長できているという実感が、彼女の表情に自信を与えていた。
「カイル、か……」
サイラスはフッと不敵な笑みを浮かべると、ゆっくりとルチアへ歩み寄ってきた。
(な、なに……!?)
その圧倒的なプレッシャーに息が詰まる。サイラスはルチアの目の前で足を止めると、ジッとその顔を見つめ……スッと顔を近づけてきた。
(近……っ!?)
微かに漂うサイラス団長の匂い。逃げ出すこともできず硬直するルチアの耳元に、サイラスは触れそうなほどの距離で低く囁いた。
「……訓練に力を入れるのは結構だが」
「っ……」
「……バレるなよ?」
氷のように冷たく、けれど甘く響くその囁きに、ルチアの背筋をゾクゾクっと恐ろしいほどの寒気が駆け抜けた。
「私がせっかく見逃してやっている秘密だ。カイルは気づかないだろうが……ヘマを踏んで、私の顔に泥を塗るような真似は許さんぞ」
サイラスはスッと顔を離すと、面白がるように唇の端を吊り上げた。
「……はいっ! 肝に銘じます……っ!」
ルチアが青ざめながら答えると、サイラスは満足そうに鼻で笑い、そのまま何事もなかったかのように廊下の奥へと去っていった。
(も〜〜っ! 心臓に悪すぎる……っ! サイラス団長、相変わらず意地悪なんだから……!)
去っていく後ろ姿を睨みつけつつ、ルチアは大きくため息をつくのだった。




