8…銅鑼灣
月のない夜だった。雨上がりの路上に街灯の光が滲んでいた。料理屋の二階で、崔はミッシェルを待っていた。もちろん彼女は来ない。
風のない通りの空気は澱み、腐った果実と下水の匂いが滞っていた。ポリバケツの陰から現れた鼠が、何かを咥えて狭路の闇へと駈け去っていった。俺は電飾が暗く回る銅鑼灣の夜道を歩いていった。懐には二挺の拳銃が収まっていた。
扉を押し開けて店に入った。熱された鉄板の音がして蒸気が上がり、魚介と香味野菜の匂いがした。食器が触れ合う音が鳴り、俺は入口横の階段を上っていった。靴音が響くたびに、階下の熱と匂いが遠ざかっていった。
踊り場を二度曲がって二階につき、階段脇の便所に入った。便所は暗く、アンモニアと塩素の匂いがした。換気扇が低く唸り、蛍光灯がじりじりと音を立てていた。窓の擦りガラスには外の光が映っていた。看板の赤い光だった。俺は冷たい壁にもたれ、煙草に火を点けた。
何が俺を動かすのか。そんな問いが頭をよぎった。答えはなかった。答えのない問いだった。
鏡の中に煙が立ち昇り、渦を巻いて天井に呑み込まれていった。いくつかの思念が脳裡に浮かび、それから消えていった。
クラクションが鳴った。光が通り過ぎて影を動かした。俺は煙草を咥え、壁から背を離し、洗面台の前に立った。鏡を眺め、顎に触り、蛇口を捻り、手を洗ってジャケットで拭った。煙草に手をやり、煙を吸い込んで吐き出し、赤く燻る煙草の先を水につけた。じゅっと湿った音がして、炎が消えた。一筋の煙が昇り、それもすぐに消えた。
俺は煙草を捨て、ホルスターから拳銃を抜き、スライドを引いた。冷ややかな音を立てて、銃弾が薬室に送り込まれた。重い扉を背中で押し開け、崔の待つ部屋に向かった。悲鳴のような軋みを上げて、扉が背後で閉まった。
冷たく長い廊下だった。天井には赤い宮灯が暗く垂れ、奥の部屋へと連なっていた。屏風の隙間から灯りが漏れ、薄闇に光と影を投げていた。靴音は絨毯の上で消えた。階下のざわめきが遠ざかって消えた。二胡の最後の一音が震えながら消えた。手のひらには拳銃の重みを感じていた。
屏風の合間を抜けて部屋に入った。紅緋色の卓布の向こうに崔がいた。俺が入っていくと崔は食事の手を止め、少し意外そうな顔をした。左右に気配を感じて引き金をひいた。銃を取り出す暇もなく、若造ふたりが床に倒れた。
崔は俺を見た。俺は崔の胸に狙いを定め、トリガーに指をかけた。崔は俺を見たまま匙を置き、ゆっくりと茶杯に手を伸ばした。茶杯が受け皿を離れ、澄んだ陶器の音がした。崔は静かに茶杯を口に運んだ。ごくりと音を立てて、茶が崔の喉を落ちていった。崔は茶杯を皿に戻し、口許を袖で拭い、もう一度俺を見た。諦め、共感、憐憫、憧憬、そんな感情が混ざり合った、深い瞳だった。俺は引き金をひいた。薬莢が跳ね、鉛が臓器を貫いた。崔の目が飛び出すように見開かれ、身体が椅子に崩れた。口許から一筋の血が垂れて流れ、崔はずるりと床に落ちた。
俺は卓に近づき、崔を見下ろし、額に銃口を向け、銃弾を撃ち込んだ。崔に向けて何か言葉を発していたが、何を言っているかは自分でもわからなかった。崔の身体が硬直し、それからすべての力を失った。頭蓋の穴から血と脳漿が床に流れた。硝煙が漂い、俺は流れ出る桃色の液体をじっと見つめていた。
乾いた音がして、灼けた何かで腹を殴られた。俺は衝撃が来た方向に反射的に銃口を向け、引き金をひいた。死に損なっていた若造のひとりが倒れ、煙を上げる拳銃が床にこぼれた。
俺は顔をしかめ、震える息を吐き、両手の拳銃をホルスターに戻した。腹が妙に熱くなっていた。なんだろうな、と思って腹に手をやった。ぬるりとした感触があった。生温かい、厭な感触だった。視線を落として腹を見た。シャツが赤黒く染まっていた。手のひらを見た。俺の血がべったりとついていた。
俺はもう一度息を吐いた。やれやれ。穴を塞がなくちゃな。そう思って腹を押さえようとしたら、ふふっと乾いた笑いが漏れて、膝の力ががくんと抜けた。あ、と思ったら絨毯が近づいてきて、糸が切れたように身体が床に崩れた。
頬骨の下に絨毯を感じていた。埃と黴の匂いがしていた。視界と音が近づいては遠ざかり、奇妙にうねっていた。血の気が引いていた。肢体の力が抜けていた。身体が重く、ひどく怠かった。頭の中で何かがぶーんと唸っていた。蜂の羽音のようだった。
ひどく寒かった。歯がガタガタと鳴っていた。手足の先から熱が逃げ、腹の穴だけが熱く燃えていた。穴からはごぼごぼと血液が溢れ、気持ちの悪いぬめりがシャツとパンツに広がっていった。息苦しいな、と思ったら、ぶふ、と厭な音がして血を吐いた。
悪い汗をかいていた。冷たく臭い汗だった。鼻にも口にも血が溢れ、生臭い匂いと味がしていた。息ができなくなる。そう思ったら怖くなって、涙が出てきた。子どものような気持ちになり、お袋のことをひどく懐かしく思った。
やがて匂いと味がしなくなり、息苦しさがやわらいできた。消化器、泌尿器、運動器。ニューロンが崩れ、神経が遮断され、身体の機能がひとつずつ閉ざされていった。そうか、と俺は思った。そうか。
残っていた僅かな力がふっと抜け、静けさが訪れた。不思議と穏やかな静けさだった。静けさの中で、俺は沈み込むような眠気を感じ始めた。キ-ノ-ウ、と俺は思った。壊れた時計、タイプライター。
視界が白くかすんでいった。世界は遠くにあって穏やかだった。駆け寄ってくるヒールの音がぼんやりと聞こえ、それもすぐに聞こえなくなった。何かが頬に落ちた。誰かの涙のようだった。それが最後の触覚だった。
すべてが終わろうとしていた。すべてが消えていこうとしていた。消散していく意識の中で、昔飼っていた猫をふと思い出した。ミュル、と俺は呟いた。声になっていたかはわからない。ミュルには聞こえたようだった。それから暗闇が訪れた。光を持たない、完全な暗闇だった。




