第44話
珠子は健の幾枚ものデッサンを経て、いよいよキャンバスに向かった。
用意した絵の具、揃えられた筆。使い古したパレット。全てが珠子の心を浮き立たせた。
「あ、本番かな。もう描き始めるの?」
健が興味深そうに、珠子の手元を覗こうとする。
「あー!ダメダメ!!」
珠子は悲鳴のような声を上げて、下絵の構図を描いたスケッチブックを隠した。
「ん?」
首を傾げる健に、珠子は告げる。
「完成したら!見せるから、今は見ないで。」
完成を待つ絵を、人に見せるのはとても羞恥心を煽られた。まるで未熟な自分を、素っ裸で見せるような感覚だった。
「ふーん。うん、わかった。」
頷く健は家に置くキャンバスの存在を完璧に無視してくれるという有能ぶりを、後に見せる。健は珠子の嫌がることをしないと決めているようだった。
健の返事を聞いて安心した珠子はキャンバスに向かって、ペインティングオイルを混ぜた油絵の具で大まかに下絵を描き始めた。
「ごめんね。油絵の具の匂い、平気そ?」
「大丈夫だよ。独特な香りだけど、なんか落ち着く。」
よかった、と呟き、珠子は筆を動かし続ける。
「この香りって何だろう、あ、あれだ。お腹を裂いたときの香りをすごく薄めた感じ。」
「人の?」
「人の。」
ぶれない健の思考に、珠子は声を抑えきれずに笑ってしまった。
「やだ…、筆がぶれるじゃん。」
「僕の話を笑って聞いてくれるの、たまちゃんだけだよ。」
「そうだろうねー。」
それからも健と二人、和やかに血なまぐさい話題を交えながらたくさんの会話を交わす。
今までにない、制作環境だった。
「ところで、たまちゃん。大学は行かなくていいの?」
キャンバスに向かい始めて、三日間。珠子は大学に行っていない。
「ああ。一年と二年のときに単位を取れる限界まで取ったからね。今、余裕があるの。」
「はあー。すごいねえ。」
健は尊敬を込めた拍手を送ってくれる。
「ふふん。先見の明があるでしょ。」
珠子は鼻高々に、胸を張った。
本当は就職活動に使うための余裕だったが、今、使わずにいつ使うんだという話だ。珠子の中で、この期間は人生においてターニングポイントになる気がしていた。
制作がダラダラ続くことだけ避けたかったので、目標を定めることにした。この冬の終わりに、大きな絵画のコンクールがある。そこへの出品に向けて、計画立てて描き進めようと思う。




