人間道と畜生道の岐路
長らく更新が止まっておりましたが、ひょっこり戻ってまいりました。
ずっとお待ちいただいていた読者様がいらっしゃいましたら、感謝の言葉もございません。
時間が空いたこともあり、今までのものとは色々と変更した部分があります。悪しからず。
※注意※
今回の話には一部にややグロテスクな内容や描写が含まれます。苦手な方は我慢されるか無理せずご退出ください。
芒は葛藤していた。
それはもう、秋斗の家に居候生活を始めて以来の、壮絶な葛藤である。それこそ、芒の今後の生活を左右すると言っても過言ではない程の。
何しろ――
「――でさ、その駅前に新しく出来た古本屋に……あれ、芒? 聞いてる?」
「……え? あ、はい、 もちろん聞いていますよ!」
何しろ目と鼻の先に、一生に一度とも言われる最高の大好物が今まさにあるのだから。
今にも理性をかなぐり捨てて飛び掛かりたい欲求が胸中で湧き上がるのを感じる。仮にも妖狐だ、その気になれば相手にそれと悟られる前に事を済ませるのも容易いだろう。いっそそうしてしまえるならばどれほど気が楽になることか。しかし、である。
芒は夕食の食器を片付けながら、ちらちらと秋斗の様子を窺う。先程まで皿を洗っていた彼は、今はソファでお茶を飲みながら寛いでいた。当然のように、テーブルの上には湯気の立つ湯呑みがもう一つ置かれている。
「それで、今度の休みに行こうと思ってるんだけども。芒も一緒にどうかなと思って」
当たり前のように自分を生活の一部に組み入れてくれている彼の想いを裏切ってしまう。その思いだけが、辛うじて芒の人間性を繋ぎ留める楔となっていた。
だが。それももう、時間の問題かもしれなかった。
尖った耳がぴくりと反応する。狐の鋭敏な聴覚は獲物の足音を決して聞き逃さない。建材の微かな軋みや心音・呼吸音から、目視せずとも彼女は正確にその位置を把握していた。事実、芒は家の中ならば誰が何処にいてどのような状態にあるのか手に取る様に分かるようになっている。それは時に秋斗の私的な部分すらも覗き見ているようで些か心苦しく感じたこともあったが――
「芒? それ手伝うよ、ちょっと高いとこに仕舞ってあるから」
「ありがとうございます、それじゃお願いしますね」
お茶を飲み終えたらしき秋斗が背後から歩み寄る。芒は今しがた両手に抱えていた調理器具を彼に渡すべく改めて視界に入れた。
――揚げ物鍋。そういえば、今夜は天ぷらをしていたのだったか。まだ油も天ぷら粉も残っている。つまり、材料は揃っているのだ。用意したのは全くの偶然であったが、これほどおあつらえ向きな状況もそうそうないだろう。
「……芒?」
「――え? ああ、すみません、お願いします」
ふと我に帰れば、目の前で秋斗が困った様な顔で立ち尽くしていた。芒が鍋をじっと見つめたまま手を離さなかったためだ。
「いや、いいけど……もしかして余計なお世話だったかな?」
「いえいえ、そんなことないですよ! 助かります」
冗談めかして言う秋斗に慌てて鍋を差し出し、背を向けた彼にほっと息を吐く。
――気取られて、いなかっただろうか。
間違いなく今の自分は、飢えた獣の目をしていたと思う。口内では先程から唾液が止まることを知らず、耳と鼻はどこまでも敏感に足跡を捉え続けている。夕食を終えたばかりの腹腔がきゅう、と締まるのがはっきりと感じられた。
芒は未だ「それ」を口にしたことはなく、どのような味か想像することもできないが、彼女の師たる銀毛八尾・榊は一度だけ食した経験があるらしい。彼女によれば、「それ」を口にすることは正に食の頂点に位置する快楽である、とか。それを語る師匠の表情は、どこか艶っぽく、その言葉が誇張なく真実であったことを雄弁に物語っていたのを覚えていた。
しかし、同時に彼女が続けて言ったもう一つの言葉が頭に蘇る。人間界に出る為の心がけとして釘を刺された事柄の一つだ。
――でもね、芒。お前は決して「それ」を食べてはいけないよ。そんなことをしてしまえば、お前は人間社会から追い出されることになってしまいかねないから――
その時にはよく分からないまま頷いていたが、実際に人間と一緒に暮らしている今なら理解できる。今も昔も、兎角人間とは“穢れ”を嫌う生き物なのだと。
逆を言えば、そうでない者は人間ではない。それは畜生、物の怪の類である――と。
だが哀しいかな、芒は人の形をとってはいても狐、即ち紛うこと無き畜生の身であった。それは自慢の五本の尻尾(ふかふか)に象徴される強大な霊力を以てしても覆しようのない事実だ。
――師匠、すみません…… 芒は未熟者です……
芒は遂に、己を内から焦がす獣性に敗北した。
長らく封じていた獣としての本能、野を駆け狩りを行っていた頃の感覚を目覚めさせる。闇色の瞳は妖しげな光を帯び、しなやかな指先に生えそろった桜色の爪が皮膚を容易く引き裂く凶器へと変貌する。
妖狐としての本性に身を委ねた芒は舌なめずりしながら慎重に歩みを進める。廊下に続く扉がある方へ向けて。秋斗の無防備な背中に近づいていく。
一歩、また一歩と静かに足を踏み出す。獣のものと化した脚は足音を遮断して移動することすら可能とした。獲物は未だ動いていない。油断しきっているのだろう。まさか自分が天敵の棲み処にのこのこ踏み込んだとも露知らず。
好都合だ、と芒は微かに笑みを浮かべる。ならばそのまま、何が起きたのかもわからぬまま一瞬で仕留めて見せよう。
芒は姿勢を低く落とし、身体全体に力を込める。まるでいっぱいに弦を引かれた弓のように、静かにその刻を待つ。そして――
「――秋斗さんっ! 動かないでくださいね!!」
「芒? えっ、何を――ぅええ!?」
突如耳朶を叩いた声に思わず硬直する秋斗。振り向いた時には既に芒の姿はなく、ただ黒い残像が視界の端を掠めていた。かと思えば、二階から何枚か扉を開ける音、そしてゴトゴト走るような音が――
「いやいやいや、ちょっと何事だよ!? 敵襲? 曲者? 待って芒、何してるんだ!?」
暫し呆気に取られていた秋斗だったが、すぐに芒の後を追って階段を駆け上る。
二階の奥、元祖父母の部屋・現物置部屋の引き戸が開け放たれていた。先程とは打って変わった奇妙なほどの静けさに、知らず慎重な足取りになりながら部屋に入り電灯を点ける。すると、普段使われていない押入れの襖が全開になっており、どうやら芒は如何なる理由からかそこに駆け込んだらしいことが分かった。
「す、芒―? いるー?」
恐る恐る押入れを覗き込む。中の空間は、電灯の明かりも入り口までしか差し込まないため非常に暗い。中は精々二畳程度の広さしかない筈だが、どこまでも暗闇が続いているかのように錯覚する。
そういえば、幼い頃に押し入れに入ったは良いが恐くなって泣きながら出たことがあったっけ、と不意に懐かしい記憶が蘇った。
「……芒? 芒―!」
再度呼びかけると、覗き込んだ頭の上の方から物音がした。どうやら芒は天板を外し天井裏に潜り込んだようだった。
『秋斗、さん……… 今から降りますから、心配しないで待っていてください』
「分かった、気を付けて」
板越しのくぐもった返事にひとまず安心し、邪魔にならないよう襖から離れて芒を待つことにする。ほどなくして、押し入れの中に降りる音、天板を直したらしき音がした後、すとん、と芒が姿を現した。
「おかえり」
「……………」
彼女は何故か気まずそうな表情で畳の上に正座したかと思えば、口に咥え込んでいた何かを両手に離して眼前に差し出した。
それは、褐色の体毛に覆われ、胴体と同じほどの細長い尻尾を持つ、掌サイズほどの獣であった。
「……鼠?」
秋斗もその姿を直接目にするのは初めてだったが、写真でなら何度か見たことがあった。ごく一般的なハツカネズミだろう、と直感的に断定する。実験動物として有名だが、民家に巣食う害獣としてもよく知られている。その例に漏れず、この家にもいつの間にか棲み付いていたのだろう。
ピクリともせずに芒の手の中で脱力した様子は一見して限りなく精巧な縫いぐるみのようにも見えるが、頸部に走る一筋の線から染み出す鮮やかな紅い液体から、この鼠が間違いなく事切れていることは明らかだ。そして、それを包み込む手の爪先にも同じ液体が付着していることを鑑みれば、数瞬前に押し入れの天井裏で何が起きていたかなど改めて考えるまでもないだろう。
「えっと、これをその……仕留めるためにここに?」
小動物一匹の死体などでわーきゃーと騒ぎ立てる秋斗ではないが、それを捧げ持つ芒の様子がどうにも気になり、努めて穏やかに問いかける。芒は何やら思いつめた表情でこくん、と頷いた。頭上の両耳もへにゃりと垂れて、いかにも元気がなさそうだ。
「ごめんなさい、わたし、どうしても抑えきれなくなって……いけないとは分かっていたんですが、その……」
芒が”それ”を持っていて冷静さを保っていられるのは、ただ秋斗に浅ましい獣性を見せてしまったことが今更になって心に重く圧し掛かっているため、ただその一点に尽きる。でなければ今すぐにでも調理場へ降り、嬉々としてクッキングを始めていたことだろう。現に、今も身体のどこかが行動を起こしたくて疼いているのが感じられる。
秋斗に軽蔑されただろうか。師匠に知れたら失望されてしまうだろうか。人について学ぶなどと言っておきながら、先程の自分はどうだ。いくらヒトの姿を被ってはいても、所詮は畜生に過ぎないのだ、と逃れようのない現実を突きつけられたような気がした。
だが、こうなっては全てが後の祭り。再び“力”を使えば秋斗の記憶を封じることも可能であろうが、それだけは何があろうとしてはならないと芒は今一度心に戒める。そんなことをしてしまえば本当に認めてしまうことになる。自らは妖で、人である秋斗と同列の存在ではないのだ、と………
「――感染症の媒介、家財の損壊、他の衛生害虫発生の誘発」
「……え?」
俯いて沈鬱な気分に浸っていた芒は、脈略もなく紡がれた秋斗の言葉に顔を上げた。
見れば、彼は携帯を眺めながら文章を読み上げているようだった。
「秋斗、さん……?」
「ハツカネズミによる人間に対する害だよ。彼らに好き勝手されると困るんだ、僕たちは。 ……だから芒」
お手柄だね、と笑いながら優しく頭を撫でられる。温かい掌は僅かばかりも震えてはおらず、芒はその手に、自分に対する恐れも嫌悪も含まれていないことを悟った。
「秋斗さん……違うのです秋斗さん、わたしは……そんな良い子ではないんです」
だからこそ、素直に打ち明けようと思った。もしかしたら彼ならば、以前から狐に関する伝承などを好んで読んでいたという大の妖狐好き、綴樹秋斗ならば。
暗雲立ち込める心中に差し込んだ一筋の希望に懸け、芒は静かに口を開いた。
「わたしは……この鼠を、食べるために手にかけました。はい、害獣駆除などではなく――秋斗さんのためではなく、私欲を満たすために狩りを行なったのです。 ……もしかしたらご存知かもしれませんが、鼠はわたしたち狐にとって一生に一度出会えるかどうかのご馳走なんです。ですから、あの……無理なお願いとは分かっています。ですがどうか、わたしがこの鼠を食すことを許してくださいませんか?」
縋るような目で秋斗を真っ直ぐ見つめる。
事実、一時的に取り戻したはずの人間的理性も既に限界に迫りつつあった。明日以降の秋斗が自分を見る目が変わってしまっても構わない、今はただこの仕留めた獲物に早く喰らいつきたい――そんな、極めて本能的な欲求が鎌首をもたげているのがはっきりと自覚できていた。
そんな彼女の悲壮な想いに、携帯から顔を上げた秋斗は――
「いいんじゃない? 狩りだって言うなら獲物は狩った側の物になるのは当然だし、そこに僕が口を挟むことはできないよ。それに、うちに這入りこんだ害獣が駆除されたのは事実だからね。理由はどうあれ、結果オーライってやつだ」
などと、実にいつも通りの軽い口調で応えた。
「え……い、いいんですか? 本当に?」
「もちろん。他の理由が必要なら、害獣駆除の報酬とか、死体処理とか、そんな風に受け取ってもらっても良い。兎に角、僕は芒がその鼠をどう扱おうと文句は言わないし、それで君を見る目が変わるようなことも無いから。安心して食べなよ」
そのあまりの呆気なさに、芒は思わず目を見開いて秋斗を見つめる。
「あ……あ、ありがとうございます! では、”これ”は有難く頂きますね!」
「うん。あ、でも一つ。使った食食器類はきちんと消毒して片付けること。いいかい?」
「分かっておりますとも! では早速調理に掛かりますので、失礼しますね!」
芒はそれまでの憂鬱そうな雰囲気はどこへやら、我が世の春とばかりに尻尾をぶんぶん振りつつ軽やかな足取りで階段を降りて行った。
残された秋斗は暫しそれを微笑ましく見送っていたが、ふと開けっ放しの押し入れを見やり、そして携帯画面に表示された鼠対策のページを眺めながらぽつりと呟くのだった。
「今度ネズミ忌避剤でも買っておくか、うん……」
その夜、綴樹家には、何かを揚げる油の音、そして天にも昇りそうな狐娘の嬌声が響いた。それからおよそ一週間に渡り、芒はずっと上機嫌であったという。
この話は以前から書きたいネタだったので、無事に消化できてスッキリしました。
それでは皆様、またお会いしましょう。食中毒には十分注意してくださいね。




