01.蒲生泰昭/スーベニア
なだらかな坂をのぼって、ちょうどてっぺんの一段下に、水鉄砲とか一個前のヒーローのお面とかが天井からぶら下がっている、ダサい土産屋がある。それが俺の家。
建物自体はヤニの匂いが染みついて古っぽい。その割に、親父はまあまあ頑張って、最近の流行を取り入れようとしているから、黄ばんだ壁にそぐわないきらきらのシールやぴかぴかの自由帳が並んでいる。ご当地キティちゃんもあるのだが、なまはげの面を被っているのの隣に東京タワーの着ぐるみを着ているのがあって、それがまた小生意気だ。風情だのなんだのという日本語に騙され、神社を訪れた外国人たちだって、ここがトウキョウだなんて騙されやしない。そんなこと親父もわかっているはずなのに。わかっている癖に。どうせ片田舎の、誰の思い出にだって残りやしない、土産屋なんて名ばかりの商店。そこに制服を着たまま帰るのが嫌だった。電車を降りて山道に向かって、なだらかな坂をのぼって、オレンジ色の屋根が見えてくるのが嫌だった。店の二階にある家で、親父が競馬新聞を握り締めながら、パステルカラーのシールと睨めっこして、リビングで難しい顔をしているのが、なおさら嫌だった。俺が横から、売れねえよそんなのと一蹴したって、でもやるんだよ、と電卓を叩く。そういうのが、格好悪くて嫌だった。腹の奥がむかむかした。十五歳だった。
「ガッキーだろ、ガッキー」
「お前、わかってねえなあ。長澤まさみがいるだろ」
「こいつは乳しか見てねえんだよな」
志賀が道下にそう突っ込むと、全員がげらげら笑った。俺も道下の背を平手でぶっ叩いて、やめろよ、と笑いながら詰られる。開けっ放しの窓からぶわっと風が舞い込んできてカーテンが捲れた。
「蒲生は?」
「ええ、俺。この流れで」
「いいか? 誰でも抱けるって想定だからな。あえて、とか変なこと言うなよ」
腕を組む。羽田が俺の尻を拳で軽く殴って、早くしろよと急かした。
「柴咲コウ。あ、堀北真希……、上野樹里!」
「一人だっつってんだろ!」
志賀がまた声を張り上げて、羽田も道下も腹を抱える。俺たちとは反対側の隅に固まっていた女子の集団が、ぎょっとこちらを見ていた。やばい。咄嗟に、机に広がったままだった飾り紙をぱっぱと何枚か引っ掴む。それを蛇腹に折り畳みながら、机の上の、今さっき紙がなくなった部分に腰掛けた。女子の視線が、また手元に戻っていくのを感じて、一息つく。志賀たちはそれをぼうっと眺めているので、お前らもやれよと一喝して、紙をばら撒いた。全員、へらへらとしながらもそれらを重ね、折っていく。
ちらと視界の端に映った壁掛け時計を見遣れば、長針と短針が一直線になりかけている。ただ長針は少しだけ左に傾いていて、あと少し、なんて心の中で呟いてみたりする。開いたままの窓から烏の鳴き声がカアと響いた。
それを合図にするように、教室の扉ががらりと開かれて、委員会以外はそろそろ撤収しろと叫んだ。女子の不服そうな声が上がる。志賀たちも鞄を背負って、口々に不平不満を漏らしながら、さっさと教室を出た。
「にしてもお前さあ、三人はやっぱないわ、さっきの」
蒸し返すなよとケツを叩いても、羽田は携帯電話の画面から目を逸らさない。それどころか、器用なことに喋りながらたったと文字を入力している。
「だってさ、マジで絞れなかったんだよ」
「欲深いわー。ハーレム願望?」
「イチローぐらいビッグになったら、って話だったべや。なして一人に絞んだよ」
肩を拳で殴る。羽田はまだ返信中で、絵文字を付けては消し、付けては消している。とうとう、絵文字も感嘆符も付けない武骨な文面で、送信ボタンを押した。ぴろぴろんと軽快な音がする。送信されました、のメッセージウィンドウと、カナという宛先が表示された。彼女かよ。
「ガチで言ってんの?」
一仕事終えた羽田の目がこちらに向けられる。俺はなんとなく嘘がつけなくて、視線を逸らした。
「ウケる」
俺の態度を、照れ隠しだと思ったのか、あるいは図星を突かれてばつが悪くなったと捉えたのか知らないが、羽田は鼻で笑ってまた携帯に目をやった。
「お前ホントに、何も考えてないよな」
「えー?」
「いや、面白えわ、お前ってさ。ノリ良いわ」
「褒めても、紙のお花しか出てきませんよ」
「うわ」
文化祭準備の撤収中、女子に「こんなに要らない」と一蹴されたオレンジ色の紙の花を鞄から取り出した。羽田はまたくつくつ喉の奥で笑う。
「なんで持ってんの」
「勿体ないから」
「要らねえってマジで」
ブザーの音と、打ち込みインストになった浜崎あゆみの曲が聞こえて、何かと思えばまた羽田が携帯に向き直り文字を打ち込み始める。カナちゃんの着メロ、あゆなのかよ。
「俺は?」
「はあ?」
「俺の着メロは?」
「設定してない。これは彼女が好きだから」
「そう」
つまらない返答に、小石を蹴飛ばそうとして、目の前が線路であることとすぐに電車が来ることを思い出して、足を引っ込める。あ、つまんない。
蹴っ飛ばして、びゅんと飛んできた特急の電車にぶつかってたら、駅員がすっ飛んできて、俺は警察に連れていかれたのだろうか。乗客は電車のダイヤが乱れて憤ったろうか。あるいは、突然の飛来物に耐えかねて、大事故になっただろうか。駅員に連れられ警察に突き出される俺を見て、羽田は大笑いしただろうか。俺の着メロはB'zか、SMAPか、オレンジレンジにでもなったろうか。あるいはあえて、ジブリの名曲とか。なんでもいいけど。そういうことをぼうっと考えていたら、突風が顔に当たって我に返った。電車は、何の障害も食らわず時刻通りに到着した。
別に何も考えていないつもりじゃない。石を蹴飛ばせば羽田は笑って俺の着メロを変なのに変えたんだろうけど、そしたら何人も、行きたい場所に時間通りに行けないし、怪我する奴だっているかもしれない。車体は傷ついて何万と弁償させられるし、駅員は訳わからん衝動で事故を起こした高校生に頭を抱えるし、警察に呼び出されて息子と対面させられる俺の親は可哀想だし。そういうのを、考えて、足を引っ込めた。
何も考えていないわけじゃない、つもりだ。
羽田が彼女の着メロを変えてるのを、揶揄するつもりもない。道下が乳ばっかりと言われて密かに顔を俯けていたのを、一緒になって馬鹿にするつもりもない。女子の顔色を窺って行事に参加している体を装うのだって、それで実際ちゃんと飾り付けに貢献するのだって。考えたつもりだ。考えたつもりで、実際それで俺一人が声のでかいバカだってことで、成り立っているし。
考えているつもりだ。
羽田が彼女と付き合い始めてから、志賀の当たりが強いのとか。道下が最近、家に俺たちを呼ぶのを渋りがちだとか。現代文の津村先生が最近眼鏡を辞めたようだ、とか。体育の岡崎も最近妙に浮ついた様子だとか。美術部の酒井さんが、いつも水泳の授業を欠席しているのとか。窓際の席の佐々木が、実は音楽をやっているらしいとか。将棋部の真野が、仲間内で岡崎の真似をしていて、岡崎も認めているらしい、とか。
中学では一緒に少年ジャンプを覗き込みあった副島が、最近めっきり俺に話し掛けてこないのとか。それを内心わかっていて、でも羽田たちといる優越感に浸って、声を掛けないでいる俺自身とか。
文化祭の日程が迫っているのとか。親父に癌が見つかったのとか。文化祭の開催日程が、手術日と被っていること、とか。
考えているつもり。考えて、気を回したり、邪魔しないようにしたり、リスペクトするようにしてみたり、しているつもりだ。
そして、何もできなかったり、している。
「あんた、本当に何も考えてないのね」
母が文化祭のビラを畳の上に投げつけた。制服姿の男女が藺草に叩きつけられ、滑り浮く。美術部の酒井さんが仕上げた、一年生が配布する用のビラだ。二、三年の先輩が描いたものよりキャッチーで、どこか懐かしいデザインだった。
「お父さんが死んでもええって言うのが!」
語気を荒げて泣きじゃくる母を俺は慰めるでもなく、畳に立ち尽くし眺めていた。親父が死んでもいいなんて思っていない。だけど文化祭には出たい。どっちに行っても後悔する。親父の手術が成功しても、文化祭に行きたかったと俺は嘆くのだろうか。あるいは、飾り付けられた華美な校内を散策しながら、暗澹たる不安を解消できずにいるのだろうか。散乱する思考は一つだって形にならなかった。ただ、口に出せば母がこう言うとわかっていたはずなのに、それらの思考をつまみ上げられなくて、反論の一つもできないでいた。俺は本当に何も考えていないんだな、と蒙昧な自嘲が、喉の奥に込み上げた。
「……部活、演劇……急に交代とか無理だしさ。あと、クラスの出し物、縁日……これも、シフト決まってて」
「だから何? 代わってくれる友達もいねえと?」
「違うって。だから、友達の為に」
「口から出まかせ言うんでねえ。こんな時に代わってくれね相手のどこが友達だって言うのが! あんたが考えんのは、自分のことばっかだべ」
ろくすっぽ店の手伝いだってしやしない癖に、と吐き捨て母は二階への階段を上がっていく。俺は畳に投げられたビラを手に取って、自分のこめかみのあたりを精一杯殴った。
朝、電車に乗ると頬が痛いことに気がつく。駅で羽田と合流して、そこからはそのことを忘れる。
「え、てか文化祭どこ回る」
「羽田は彼女と回るっしょ?」
「いや。向こうが友達と見たいとこあるらしい。日曜は二人で回る」
「んだよ、しょうもねえ。おいハブろうぜ、こいつオモロない」
「誰に言ってんだよ」
錆びてメッキの剥がれたままの、みずぼらしい手すりをなぞりながら、階段を降りる。高架を、さっきまで乗っていた電車が、駆け抜けていく轟音。つられて見上げれば、今日という日に限って、雲一つない青天だった。「俺行かないかも」
「え?」
「文化祭。休むかも」
ポケットに突っ込んでいた手を出して、棒立ちになって羽田は俺を振り向いた。本当に面食らったような顔だった。
「嘘、嘘。大丈夫、大丈夫」
「っぶねー。ビビった」
また憮然とした立ち姿に戻って、羽田はよろよろ前を歩いていく。このままこの足がよろよろ迷走して、あの校舎に辿り着けなければいい。俺も、羽田も、たぶん同じ事を考えている。
カナちゃんは志賀と中学が同じで(というか、名誉辺鄙地域、俗に言う田舎、ドがつく田舎であるこの近辺で、半分ぐらいは同じ中学出身だ。俺と彼女らも一緒の中学だけど、クラスが同じになったことはなかった)、志賀はたぶんあの子のことが好きだった。別に明確な根拠なんてものはなく、本人から聞いたわけでもないのだが、カナちゃんは俺たちのクラスを訪れるとき、初めに志賀に手を振るのだ。だけど、目だけを羽田に合わせる。それで、女子の友達を引き連れて、どこかへ消える。そして最近、志賀は羽田と目を合わせない。道下は中学も違えばカナちゃんと面識もないから、羽田と志賀と俺と、何かと四人で集まりたがる。だから最近、志賀は通学ルートを変えた。定期代が安いから、なんてのは嘘っぱちだ。道下はたぶん知らない。けれど、何かを感じ取ったのか、志賀と同じ帰路を辿るため、駅の駐輪場を契約したらしい。俺はと言えば、入学から一度もルートを変えていない。志賀と道下について回れば、羽田との関係が三人同時に切れるのだろう。いとも簡単に、三人で集まろうと考える。志賀と道下は。
たぶん俺たちは、バラバラになる。文化祭が終わる頃には。
羽田がいつから志賀を疎んで、カナちゃんに接近したのか知らない。道下がなぜ駐輪場を契約してまで志賀につくのかも、知らない。知らないけれど、考えればわかる。
こんなことなら、中学の頃みたいに、副島と机を並べて、ジャンプの考察をしていたかった。俺は何かを間違えた。たくさん考えたはずで、それでもやっぱり何もしていなくて。それは考えていないのと同義で。
憂鬱だった。
文化祭を休めば、志賀と道下は勝手に二人でつるんで、羽田はカナちゃんを取るのだろう。俺は親父の手術を見届けて、安堵する。親父の安否ももちろんだけど、母が俺にありがとうと声を掛けるとき、たぶん、安堵する。考えれば考えるほど、それがなんだか自分の誤りを認めるみたいで、パステルカラーのシールと向き合う親父が頭に過って、悲しくなった。
羽田も志賀も道下も、副島も、俺も、考え抜いて、電車に乗って畦道を歩いて校門をくぐる。一日くぐるのを諦めたら、きっと置いていかれる。追いつけなくなる。そんな気がしていた。
「そんなに難しい手術じゃないって。行ってきなよ」
日和はソファに寝転がって、テレビを点けた。
「簡単に言うなよな」
「簡単に言ってるのは兄貴でしょ。ひよ、お母さん怒らせたくないもん」
彼女は語尾を伸ばして気怠げに、肘掛に足を投げ出している。曰く、母は二階に上がっているらしい。布団に潜り続け、今日は一日顔を見ていない、と。
「てか、何? どっちでもよくない? 文化祭なんて来年もやるでしょ。病気だってなんとかなりそうだし」
そりゃお医者さんは、百パーなんて言わないけど。ぶっきらぼうにそう付け足す言葉の傍で、ピ、ポ、パと鳴った電子音に日和の方を見遣れば、やはり携帯を取り出して何かを打ち込んでいる。テレビからはバラエティ番組の仕込まれた笑い声が響く。
「何、彼氏」
「キモ」
「言えよ」
「違う。友達」
じゃらりと、束になったストラップが音を立てる。一際目立つマスコットはバレーボールを抱えていて、短い手足で大きいボールを持つものだから、アンバランスな作りになっていた。
「お兄ちゃんも彼女作ったらいいじゃん」
「彼氏なんじゃん!」
「違うって、未満、未満なの」
ぱたんと携帯を閉じて、日和が俺の額をはたいた。
「ああ。ふうん」
「キモい」
「友達と喧嘩すんなよ」
「関係なくね? 泰昭に」
さっきから、日和は俺のことを呼ぼうとするたび、コンマ数秒の逡巡を見せて、兄貴、だの、お兄ちゃん、だの、泰昭、だの言っていた。邪険に扱う上では、名前を吐き捨てるように呼ぶのがしっくりきたらしい。
電源を入れられたのにBGMに格下げされてしまったテレビに、ふと目を向けた。若手の芸人が数組、学ランを着て並べられた机に着席している。セットとして組まれた安っぽい引き戸をがらっと開けて、セーラー服を着たアイドルが入ってきた。アイドルは棒読みで芸人ひとりひとりに近づいて、睨む。スケバンという設定らしい。そうして、スケバン転校生との大喜利勝負が始まった。
「田中、廊下立ってろ!」
ジャージを着た体育教師風の大御所俳優に唆されて、若手芸人がセットの外に出る。引き戸に仕組まれたバケツから熱湯が降り注いで、笑いが起きた。スタッフが手を叩く音と、付け足されたSEの笑い声。
「親父、大丈夫だよね」
口から零れた独り言を、日和はスケバンアイドルさながらの眼光で睨みつけた。
「大丈夫だっつってんでしょ」
じゃかじゃかと打ち込みの電子音が、日和の携帯から響いた。聞き覚えのあるメロディー。あ、あれだ、恋しちゃったんだ多分、気づいてないでしょう、ってやつ。口遊むとソファに投げ出された素足が俺の顔面まで伸びて、俺は地面に引き倒された。
わかっているつもりだ。日和は昨年まで、流行りのポップスを馬鹿にするような妹だったのだから、これはきっと意中の男子が勧めたか、あるいは女子同士で共有し合ったものなのだろう。
親父の病気は、なんとかなる。それは金と時間をかけることができれば、という仮定の話だ。それでも、なんとかなる。
わかっていた。日和は、悪意にも好意にも流されやすいから、けっこう繊細でメールを一通送るのにも緊張してしまう。親父は、生真面目で馬鹿正直だから、目先のことを頑張りすぎて、指摘されるまで身体の不調を訴えない。母親は、気丈に振る舞いながらも根っこは揺さぶられやすく、一度落ち込むとしばらく布団に潜り寝込んでしまう。それでいて、立ち上がる。笑いながら母親という形の女性に戻る。わかっているつもりだった。だからこそ、母親が母親に戻ってしまう前に、寄り添うべきだと、頭では、わかっていた。
俺はと言えば、無責任に大丈夫と繰り返しながら、時が解決するのを待つばかりだ。結局、何も考えていないのと、同じだった。母親を傷つけ、友人を見捨て、その場に置いていかれないように、それだけ考えている。
フローリングに寝そべりながら天井を眺めた。熱湯を被った若手芸人の絶叫がまた聞こえる。笑い声。安上がりなSE。下品なBGM。
流行りのポップス。棒読みでセリフを読み上げるアイドル。発泡スチロールで構成された教室。
「ビッグになりてえ」
「何?」
「デカくなりたいの、俺は」
柴咲コウにも、堀北真希にも、上野樹里にも言い寄られたい。中学の女子と付き合ったとかなんとかで、誰かを嫌いになりたくない。
俺からの連絡が、誰にとっても爆音の報せで届けばいい。俺の着メロが湘南乃風かYUIなのかだなんて、想像したくない。
俺の作った紙の花が百万単位で取引されたらいい。細々とパステルカラーのシールと睨めっこして、思い悩んでる親父を見ていたくない。
思い悩んで壊れる親父を、それを悲しむ母親を、どうにかしたい自分も。何もできない自分も。全部、全部捨てて、出たい。この街を、出たい。
――その先に、何があるだろうか。
その選択は、正しいのだろうか。
副島を見捨てる。文化祭に行く。東京に出る。その先に、何も掴めなかったら、俺は、そんな自分を受け入れられるのだろうか。
起き上がろうとしたら、背骨がごりごりとフローリングにぶつかって、痛む。ひりひりと痛むところから、じわじわ熱が背中全体に伝わる。それがなんだか、自分が、根元から腐っていくように感じられて、意味もなく背中を掻き毟った。
文化祭は結局四人で回った。日曜日は参加しないことをみんなに伝えると、羽田は顎をしゃくって、志賀と道下は顔を合わせていた。羽田には見えないように。
これが俺の見出した最善策だった。親父の手術は土曜の日中に予定されていた。羽田は、日曜は彼女と回る、と話していたし、志賀と道下は俺がいなくても、二人で好きにするだろう。あるいは二人も、それぞれ意中の女子と予定があるかもしれない。土曜、羽田たちを三人にするわけにはいかなくても、母親から不義理だと詰られるのはやはり勘弁だったし、せめて手術が無事に済んだことを祝いに行ってやるだけでも状況は変わるだろう、と踏んだ。母親も、文化祭が一年に一度の行事だということは承知していたし、それを一日返上で様子を見る、というだけでも少し顔色を良くさせた。
そうして、一日目の土曜日だけ、そういう名目で俺は文化祭を回った。三年生がレンジで温めたカステラを頬張り、二年生の知らない奴らが恥ずかしそうにやっている演劇を見て、漫画研究部の作ったキーホルダーを二百円で買って、カナちゃんのクラスの縁日で輪投げをした。カナちゃんは部活の出し物で手伝いをしているとかなんとかで、いなかった。
財布を出すたび、すれ違うクラスメイトにハイタッチするたび、宣伝のために校内を走り回る生徒を見かけるたび、腹の奥、胃腸のちょっと上の方に、重いものが伸し掛るような感じがした。俺はこんなことをしている場合なのだろうか? 医者から聞かされた手術の成功率と、『ほとんど』という副詞が胸の底の方に引っ掛かっていて、突然、俺の中に影を落とし始めた。母と日和は今、病院の待合室で、身を寄せ合っているはずだった。
スピーカーからブザー音がけたたましく鳴り響いて、放送委員を名乗る女子生徒が一日目の閉幕を告げる。視界の端でばたばたと、三年生の黄色い上履きが三足分、通り過ぎて行った。人の波がぞろぞろと俺たちの肩を追い抜いていくのが、他人事のように思えた。
終わった。
また、何もせず終わった。
明日は志賀と道下が、今日行けなかった茶道部の体験コーナーに行って、羽田はカナちゃんと二度目の輪投げをする。俺は、なんてことなかった親父のために、母親と日和と連れ立って果物を選んで、タクシーに乗って病院に向かう。それで、またちょっとずつ、俺は変わる。羽田に話しかけなくなるし、親父に負い目を感じて土産屋の手伝いをする。
俺もいつかは、テレビのリモコンを片手に、パステルカラーのシールと睨めっこをする。
ビッグになりたいとか、どんな女優を抱きたいとか、そういうことをいつまでも言っていられないまま、この土地でオレンジの屋根と一緒に錆び付いていく。わかっていた。それが、どれだけ貴重で尊い人生の在り方か、ということも。
「これで全部終わりなん?」
道下が俺の方を見た。
「え?」
「なんか後夜祭? やるって。聞いてないん?」
志賀がすかさず答える。道下は、聞いてねえ、と自虐気味に笑いながら髪をぐしゃぐしゃ掻き毟った。
「ああ、あれね、軽音とか吹部が……体育館でやるって」
しどろもどろに、数日前のホームルームで誰かが喋っていた記憶を必死に繋ぎ合わせて、答えた。前の席に座る吹奏楽部の川奈さんに、再三言われた。吹部は一日目の大トリだから、ちゃんと見といてね、と。二日目の大トリは軽音楽部の三年生バンドが務める、彼らはロックフェスのインディーズステージにも呼ばれていて、必見なのだ、と。川奈さんには悪いが、母親のことを考えると、十八時より後に残ることはできない。
何よりも、いま胸を覆うこの暗澹たる不安が、夕暮れまで雑念として過ぎり続け、きっとこの先数十年居座り続ける、予感があった。後悔と名前を変えて、ずっと付き合う羽目になる。
「蒲生も行くっしょ」
羽田が俺の背を叩いた。
志賀が俺を振り返る。
道下は校内図を広げて、体育館を指差していた。
「……最初一組だけ、見て帰るわ」
結局、だ。心臓がまた重く胸の底へ沈む、そういう感じがした。
どちらを取っても、どちらかのことが気掛かりになる。そうしてまた、俺は形だけ取り繕った。
「何? 体調悪い?」
道下が俺の顔を覗き込む。あんまり見るなと跳ね除けそうになって声を呑み込んだ。
「大丈夫」
ポケットが震えている。母からの不在着信が数件、サブディスプレイに表示されている。実行委員の襷を掛けた生徒に、館内で携帯の使用はお控えくださいと一丁前に指示され、天を仰ぎながら電源を切った。道下は、なんかマジのライブみたいでワクワクするわ、と呑気に携帯をポケットに仕舞い直していた。
体育館のステージ前にはもう人集りができていて、ただやはり開始前ということもあってか、後方にはかなり余裕があり、羽田がそこで立ち止まったので俺たちも前に飛び込んでいくことはしなかった。道下は少し口惜しげにこちらを数度振り返ったが、俺と言えど人波を割って進む元気はなかった。
ドン、ドン、とチューニングの音が床から靴底に伝わって、思考と意識を遮る。外界の情報がシャットアウトされ、取り留めのない考えばかりが、脳内に巡っていった。
親父死んでたらどうしよ。それはないか。でも上手くいってなかったりして。いや、医者なんだからちゃんとやるだろ、それが本業なんだから。もしそうだったら、母さんまた凹んじゃうかな。俺のせいになるかな。俺がいてもいなくても変わんないのにな。そうしたら、店どうすんだろ。潰れんのかな。そしたら、継がなくていいのかな。継げなくて、職なしで彷徨うことになんのかな。俺って将来どうなるんだろ。俺、将来、何やりたいんだろ。コント? でも、演劇部、先輩たちとあんま話合わないし、向いてないだろうな。ビッグになるって、どうすんだろ。ここじゃ無理かな。ここじゃ無理だな。なんで俺、ここにいるんだろ。
なんで、俺、ここにいるんだろ?
「あーっ」
鼓膜を轟音が劈いた。マイク越しの伸びた声と吐息。
顔を上げる。暗転。
スポットがステージ上に閃いた。
白い照明に照らされた生徒は、数秒口をぱくぱくさせて、スタンドに掛けられたマイクを握り直す。静寂。服の布の擦れる音、が増幅された音。暗闇に目が怯んでしまって、彼の顔が見えない。
あれは、誰だ。
「……まだこういうのあんまり得意じゃないので、さっさと歌って帰ります」
キン、とどこかの機材がハウリングを起こす。志賀が顔を顰めた。道下が俺の方を振り返って訊ねる。
「あれって佐々木?」
その瞬間だった。
エレキギターがハウリングと静寂を吹き飛ばしていった。
逸り気味のテンポの中、安い機材の雑音をかき分けて耳を澄ますと、聞き覚えのあるイントロに辿り着く。心臓が跳ねるのを感じた。それは、胸の底、腹の奥に立ち込めていた黒い靄を、吹き飛ばした。思わず足を一歩踏み出す。
「知らねえ曲」
志賀が口を開いている。
羽田は耳を抑えていた。
道下はこれ知ってるわ、と俺の服の裾を摘んで揺すった。
「ああ、うん」
前の方に立つ生徒が、天井に向かって手の平を伸ばした。そしてそれを、リズムに合わせて振る。
目を凝らしても、ステージの上にはスポットの当たった部分しか見えない。スポットの強すぎる照明が、体育館全体の暗闇を貫くように照らし、楽器と佐々木とメンバーと、揺れる手の平たちの輪郭だけが、煌々と存在した。
流行りのバンドの流行りの歌、なのに、初めて聴こえる音だった。聞き飽きるほどテレビから流れてきたはずの歌詞が、少し気怠げな声色に優しく乗り上げて、箱全体に届いた。荒削りの、逸ったテンポが明るかった。
「なんか、かっけえ」
それが自分のうわ言だと理解するのに時間がかかった。道下が、俺とステージを交互に見ながら、なあ、かっけえよなあ、と目を輝かせている。
「俺、卒業したら絶対東京行くわ」
志賀と羽田が、はあ? なんてシンクロするのを横目に、俺の足は浮き出していた。気づいたら音の響く体育館を飛び出して、渡り廊下を駆け抜けていた。
親父が死んでたらどうしよう。母さん、凹んじゃってたらどうしよう。店が潰れたらどうしよう。この先、将来、何にもなかったらどうしよう。
それでもいい。
来てよかった。
「来てよかった!」
文化祭に来たこと。明日じゃなくて今日を選んだこと。遊ばなくなった友達。険悪になってしまった仲間。知らなくてよかった出来事。知ることもできなかった出来事。
まだ間違いじゃない。
どっかで、良いライブが見れたとか、そういうので、勝手にそいつらは全部が間違いじゃなかったことになる。
だから、まだ何も、間違っていない。
やり続ける限り。まだ、間違いじゃない。あの日あの時の選択が正しかったことを証明する。その為に、走った。
改札に飛び込んで、ちょうど来たばかりの電車にジャンプして乗り込んだ。車体がちょっと揺れて、ドア前の吊り革が額にぶつかった。
親父は生きていた。手術はなんてことなく予定通りに進んで、しばらくリハビリ生活が続くけれど腫瘍は取り切ったらしい。ただ、嚥下に少しの間は障害が残るようだから、見舞いの品に在り来たりな果物だとかを選定するのは無しにした。母と日和と、デパートを巡って、花を買った。
「こういうのは気持ちだから」
母が病室の窓際に花瓶を置いた。白く目立たない、大人しい花瓶だ。親父もそれを見て、気まずそうに微笑んだ。
「退院したら兄貴がもっといいもの持ってくるってさ」
「あんた、調子のいいことばっかり言って」
母が日和の頭を小突く。やめてよ、と悪態をつきながら日和はつむじの毛を梳いて整える。まったく去年までは寝癖頭のまま朝飯を頬張ってそのまま登校していたというのに、女子というのは不思議な生き物だ。
「本当にいい土産持ってきてあげるよ」
俺がそう返せば、日和が低い声で、はあ? と横槍を入れる。俺はポケットに手を突っ込んだ。着ていたシャツの胸ポケット、そこから目当てのものを引っ張り出す。
「高校出たら東京行って芸人になる。それでいい土産話を聞かせてあげる」
摘まみ上げた紙の花を、指でねじる。花弁が開いて、大輪の花が小さいポケットから飛び出てきたように、演出してみせた。テレビで見た手品師を真似て、花にふっと息を吹く。母も日和も呆れて溜息を漏らしていたが、親父は少しだけ頬を綻ばせた。
「そうか、頑張れ」
質素な花瓶と一輪の見舞い花の間に、割って入るように紙の花を飾った。紙の花弁に押され、生花がちょっと傾く。
病院の窓から、オレンジ色の屋根が遠くに見えた。
終




