俺は諦めが悪い 第7話 誰も見ていない残業
「田村。この見積もり、数字が一桁ずれてるぞ」
二十四歳の春。誠二の隣の席には、いつも高橋さんがいた。
くたびれたスーツに、少し猫背の背中。仕事ができるのに、偉ぶったところが少しもない人だった。誠二が何度同じミスをしても、高橋さんは怒らなかった。赤ペンで直して、「次は大丈夫だ」と笑うだけだった。
その年の秋、大きな案件が二人に回ってきた。納期は厳しく、取引先の要求は日ごとに膨らんだ。
三週間目の夜、誠二は限界を迎えた。
「……すみません、高橋さん。俺には無理です。この案件、外してもらえませんか」
高橋さんは少し驚いた顔をして、それから、いつものように笑った。
「そうか。わかった。あとは俺がやっとくよ」
その言葉に、誠二はほっとした。ほっとしてしまった。
翌日から、高橋さんは毎晩、終電まで残るようになった。休日も出社していたと、あとで知った。誠二は、見ないふりをした。自分の仕事ではなくなったのだから、と。
案件は、納期どおりに終わった。その翌週、高橋さんは会社で倒れた。
病院のベッドで、高橋さんはやせた顔で笑っていた。
「悪いな、田村。ちょっと休むわ」
高橋さんは、そのまま会社に戻ってこなかった。春を待たずに退職したと、人事から短いメールが届いた。
誰も、誠二を責めなかった。それが、何よりつらかった。
あの夜、俺が諦めなければ。もう少しだけ踏ん張っていれば。高橋さんは、あんなふうに壊れずに済んだのだ。
浩一のときも、柔道のときも、高橋さんのときも。自分はいつも、肝心なところで諦めてきた。そして、そのつけを払うのは、いつも自分ではない誰かだった。
その夜、誠二は誰もいないオフィスで、高橋さんの空っぽの席を見つめながら誓った。
「もう二度と、俺のせいで誰かを潰させない」
拳を握りしめて、声に出す。
「――これからの俺は、諦めが悪い」
◇
それから、十九年が過ぎた。
誠二は、諦めなかった。突き返された企画書は、通るまで書き直した。部下のミスは、自分が頭を下げて回った。誰かが投げ出しかけた仕事は、黙って引き取った。
その結果が、四十三歳の万年係長だった。
「田村さんって、要領悪いよね」
給湯室から、若手の笑い声が聞こえてきたこともある。要領が悪いのは、わかっていた。損な役回りなのも、わかっていた。それでも、誰かが潰れるよりはずっといい。
最後のプロジェクトは、最初から無理のある案件だった。三人いた若手は、ひとり、またひとりと別の案件へ移っていった。
「すみません、田村さん。僕にはちょっと……」
かつての自分と、同じ言葉だった。
「いいよ。あとは俺がやっとく」
口にしてから、誠二は小さく笑った。あの日の高橋さんと、同じ言葉だった。
それから一か月、誠二はひとりで残業を続けた。誰も見ていないオフィスで、誰にも気づかれないまま、ひとつずつ仕事を片づけていった。
そして、納期前夜。午前二時。最後のファイルを保存し、送信ボタンを押した。
「……終わった」
椅子の背にもたれた瞬間、胸の奥で何かがぷつりと切れた。
ああ、これはまずいやつだ。
でも、まあいいか。今度は、誰も潰れなかった。
それが、会社員・田村誠二の最後の記憶だった。
◇
――暗い。
どこまでも続く闇の中に、誠二はひとりで立っていた。体の感覚がない。痛みも、重さもない。
遠くに、ぼんやりと人影が見えた。くたびれたスーツに、少し猫背の背中。
「高橋、さん……?」
人影は振り返らない。ただ、懐かしい声だけが、闇の向こうから響いてきた。
「田村。お前、まだ立てるだろ」
その瞬間、闇の向こうから、別の声が聞こえた。泣きそうな、少女の声。
「――誠二さん! 誠二さん、起きて!」
セラの声だった。
(第8話へ続く)




