俺は諦めが悪い 第1話 配置転換
四十三歳、万年係長。それが田村誠二の肩書きのすべてだった。
午前二時。誰もいないオフィスで、誠二は最後のファイルを保存し、送信ボタンを押した。若手たちが次々と手を引いたプロジェクトを、たった一人で納期に間に合わせたのだ。
「……終わった」
椅子の背にもたれた瞬間、胸の奥で何かがぷつりと切れた。視界が白くにじみ、額がキーボードに落ちる。画面に意味のない文字列が流れていく。
ああ、これはまずいやつだ。
それが、会社員・田村誠二の最後の記憶になった。
――そして次に目を開けたとき、誠二は見知らぬ森の中に倒れていた。
◇
湿った土の匂いがした。頭上では、見たこともない青い葉が風に揺れている。鳥とも虫ともつかない甲高い声が、どこか遠くで響いた。
「……病院、じゃないよな」
体を起こして、誠二は首をかしげた。痛くない。二十年来の腰痛も、デスクワークで固まった肩も、嘘のように軽い。
夢だろうか。それとも、ここがあの世というやつか。
そのとき、目の前の空間に、すっと半透明の板が浮かび上がった。
【辞令】
田村誠二 殿
貴殿を本日付をもって、異世界〈アルディア〉への配置転換を命ずる。
※本辞令への異議申し立ては受け付けておりません
「……辞令?」
思わず声が漏れた。入社して二十一年。地方への転勤も、畑違いの部署への異動も、黙って受け入れてきた。辞令という紙切れには慣れているつもりだった。
だが、まさか死んでまで異動を命じられるとは。
「異議申し立て不可って……ずいぶん強気な人事部だな」
ぼやいた途端、板の文字が切り替わる。
名前:田村誠二
年齢:43
職業:なし(元・係長)
スキル:なし
「なしって……」
職業欄の「元・係長」が、妙に胸に刺さった。近くの小川をのぞき込むと、水面には見慣れた顔が映っている。目尻のしわも、白髪の混じった髪もそのままだ。
「普通こういうのって、若返ったりするもんじゃないのか」
昔読んだ漫画では、転生した主人公は大抵、若く強い体と特別な力を手に入れていた。四十三歳の顔に、スキルなし。どうやら自分は、異世界でも出世コースから外れているらしい。
◇
乾いた笑いを漏らしたとき、背後の茂みががさりと鳴った。
振り向くと、灰色の獣がいた。狼に似ているが、大型犬よりひと回り大きい。裂けたような口から、黄色い牙がのぞいている。
「……冗談だろ」
獣が低くうなる。誠二の頭は、意外なほど冷静だった。トラブル対応で何百回と繰り返してきた手順が、勝手に動き出す。
状況確認。相手は一体、こちらは丸腰。
優先順位。まずは生き延びること。
撤退ルート。背後は小川、左手に倒木――。
獣が跳んだ。誠二は倒木の方へ転がった。肩から地面に落ちたが、体が自然に丸まり、衝撃を逃がす。自分でも驚くほどきれいな受け身だった。
だが、二度目はかわせなかった。飛びかかってきた獣の牙が、とっさに突き出した左腕に食い込む。
「ぐっ……!」
焼けるような痛み。なのに――牙が、それ以上沈んでこない。まるで分厚いゴムに噛みついたかのように、獣の顎が腕の途中で止まっていた。
誠二は右の拳を、獣の鼻先に叩き込んだ。ぎゃん、と悲鳴を上げて獣が飛びのく。
左腕から血が流れている。痛い。泣きたいほど痛い。それでも、骨は無事だった。
「なんなんだ、この体……」
そのとき、視界の端で、あの半透明の板がちかりと光った。
スキル:なし
――累積値:計測中……
「累積値?」
問いかける間もなく、森四十三歳、万年係長。それが田村誠二の肩書きのすべてだった。
午前二時。誰もいないオフィスで、誠二は最後のファイルを保存し、送信ボタンを押した。若手たちが次々と手を引いたプロジェクトを、たった一人で納期に間に合わせたのだ。
「……終わった」
椅子の背にもたれた瞬間、胸の奥で何かがぷつりと切れた。視界が白くにじみ、額がキーボードに落ちる。画面に意味のない文字列が流れていく。
ああ、これはまずいやつだ。
それが、会社員・田村誠二の最後の記憶になった。
――そして次に目を開けたとき、誠二は見知らぬ森の中に倒れていた。
◇
湿った土の匂いがした。頭上では、見たこともない青い葉が風に揺れている。鳥とも虫ともつかない甲高い声が、どこか遠くで響いた。
「……病院、じゃないよな」
体を起こして、誠二は首をかしげた。痛くない。二十年来の腰痛も、デスクワークで固まった肩も、嘘のように軽い。
夢だろうか。それとも、ここがあの世というやつか。
そのとき、目の前の空間に、すっと半透明の板が浮かび上がった。
【辞令】
田村誠二 殿
貴殿を本日付をもって、異世界〈アルディア〉への配置転換を命ずる。
※本辞令への異議申し立ては受け付けておりません
「……辞令?」
思わず声が漏れた。入社して二十一年。地方への転勤も、畑違いの部署への異動も、黙って受け入れてきた。辞令という紙切れには慣れているつもりだった。
だが、まさか死んでまで異動を命じられるとは。
「異議申し立て不可って……ずいぶん強気な人事部だな」
ぼやいた途端、板の文字が切り替わる。
名前:田村誠二
年齢:43
職業:なし(元・係長)
スキル:なし
「なしって……」
職業欄の「元・係長」が、妙に胸に刺さった。近くの小川をのぞき込むと、水面には見慣れた顔が映っている。目尻のしわも、白髪の混じった髪もそのままだ。
「普通こういうのって、若返ったりするもんじゃないのか」
昔読んだ漫画では、転生した主人公は大抵、若く強い体と特別な力を手に入れていた。四十三歳の顔に、スキルなし。どうやら自分は、異世界でも出世コースから外れているらしい。
◇
乾いた笑いを漏らしたとき、背後の茂みががさりと鳴った。
振り向くと、灰色の獣がいた。狼に似ているが、大型犬よりひと回り大きい。裂けたような口から、黄色い牙がのぞいている。
「……冗談だろ」
獣が低くうなる。誠二の頭は、意外なほど冷静だった。トラブル対応で何百回と繰り返してきた手順が、勝手に動き出す。
状況確認。相手は一体、こちらは丸腰。
優先順位。まずは生き延びること。
撤退ルート。背後は小川、左手に倒木――。
獣が跳んだ。誠二は倒木の方へ転がった。肩から地面に落ちたが、体が自然に丸まり、衝撃を逃がす。自分でも驚くほどきれいな受け身だった。
だが、二度目はかわせなかった。飛びかかってきた獣の牙が、とっさに突き出した左腕に食い込む。
「ぐっ……!」
焼けるような痛み。なのに――牙が、それ以上沈んでこない。まるで分厚いゴムに噛みついたかのように、獣の顎が腕の途中で止まっていた。
誠二は右の拳を、獣の鼻先に叩き込んだ。ぎゃん、と悲鳴を上げて獣が飛びのく。
左腕から血が流れている。痛い。泣きたいほど痛い。それでも、骨は無事だった。
「なんなんだ、この体……」
そのとき、視界の端で、あの半透明の板がちかりと光った。
スキル:なし
――累積値:計測中……
「累積値?」
問いかける間もなく、森の奥にいくつもの光が灯った。ひとつ、ふたつ、みっつ……。暗がりから、同じ灰色の獣が次々と姿を現す。
逃げ道は、もうない。誠二は震える膝に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
この光景を、自分は知っている。誰もいない深夜のオフィスで、終わりの見えない仕事を前にしたときと同じだ。
「……まだだ」
血のにじむ拳を握りしめて、田村誠二は獣の群れをにらみつけた。
(第2話へ続く)
第1話をお読みいただきありがとうございます!
本日は第3話まで同時公開しています。誠二がスキル「不屈」に目覚める第2話も、ぜひ続けてどうぞ。




