グレナデンとエドマンド
時系列が六部開始前まで戻ります。
「失礼いたします、我が君。オルドリッジ家の御子息がいらっしゃっていますが、どちらにお通ししましょうか」
書斎で書き物をしていたグレナデンは、従者から声をかけられ、『はて、彼の家に六人いる息子のうちの誰だろう』と頭を悩ませるまでもなく、末子のエドマンドだと瞬時に理解した。
次いで、心が重くなる。
『ある目的』を胸に秘めてやってきた青年に対して、グレナデンは誠に遺憾な報告をせねばならないからだ。
――ハリー・スタインベックの住処を突き止め、石榴館の面々で襲撃するという計画は水泡に帰した、と。
ハリーとの戦闘から五日経っていたが、その間、エドマンドがどのように覚悟を決め、どのように己を奮い立たせてきたのか考えるだけで、グレナデンの胸は痛いほど締め付けられる。
「紫紺の間に通してくれ。くれぐれも丁重にな」
「……かしこまりました」
従者・モリィは、わずかな戸惑いの色を見せながら退がっていく。年若い青年に対し、グレナデンが破格の厚情を示したことが意外だったのだろう。
モリィは優秀な従者だが、古参なだけあって、若いカルミラの民に対して冷淡な態度を取ることがあった。誰彼構わず阿ることのない彼女の気性はグレナデンの好むところだが、時折ハラハラさせられる。
万感の思いを込めた息を吐いたあと、グレナデンは重い腰を上げ、エドマンドの元へ向かった。
***
「ハリー・スタインベックの追跡は失敗に終わった」
それを告げたとき、エドマンドが見せた表情を、グレナデンは生涯忘れないだろう。
銀髪の青年は、端正な顔にとびきりの絶望を浮かべたが、すぐにそれを引っ込めて、『仕方ない』というふうに微笑んで見せた。
激しく責め咎められるに違いないと思っていたグレナデンは、拍子抜けするとともに、より深い自責の念を感じた。失敗したのはフィリックスだが、指示したのはグレナデンだ。満身創痍のハリーを侮らず、共に追うべきだったのかもしれない。
「あなたのせいでも、フィリックス殿のせいでもありません。あいつが相当慎重だった、ということでしょう」
エドマンドの物言いは至極穏やかで、気品さえ感じられた。グレナデンが彼の立場だったら、決して同じようには振る舞えなかっただろう。
ずっと年下の青年に敬意を抱くとともに、よりいっそう居たたまれなくなった。
現に、会話が途切れた途端、エドマンドは生涯の目的を失ってしまったかのように呆然として、虚ろな目で応接間の外を眺め始めた。窓の向こうは裏庭で、純白の薔薇園が広がっているのだが、果たして、今の彼の目には美しき花々が映っているだろうか。
「エドマンド、身体の方は大丈夫か」
おずおずと尋ねると、青年は生気を取り戻したかのように明るい顔を見せた。
「ええ、おかげさまで。両脚に受けた傷も、すっかり癒えました。あなたがいなければ、未だ歩くことさえ叶わなかったでしょう」
「そうか……」
「ええ、ヴィーの従者の少女も、翌日には目を覚ましていました。本当に、感謝の言葉もありません」
彼の金色の瞳には真摯な感情が宿っていたが、同時に少し揺らいでいた。本当に大丈夫なのかと、見る者の不安をかき立てる。
「──ところでグレナデン殿。フィリックス殿のことなのですが」
不意に異なる話題を振られ、グレナデンは戸惑う。
「奴がどうした?」
「本日は、こちらにはいらっしゃらないのですか?」
「ああ、最後に会ったのは二日前だ」
「ええと、フィリックス殿からなにか聞いていませんか? その、慶び事など……」
──慶び事だと?
予想外の言葉に、グレナデンは目を見開く。
「どういうことだ?」
「いえ、あの、なんでもありません……」
エドマンドは急におどおどし始めて、また窓の外を見てしまった。その横顔には動揺がありありと現れており、なにか隠していることは明白だった。強く追及して白状させてみようかと思ったが、尾行失敗の負い目があるため、今日のところは諦めよう。むしろ、フィリックスの方を問い詰めればよい。
「それで、ハリー・スタインベックの件だが」
「はい」
話題を戻すと、エドマンドは目の色を変えた。先ほどとは一転して、凛々しく引き締まった表情を見せる。呆然としたり、笑顔を見せたり、慌てたりと、百面相が甚だしい。それは、彼の心の不安定さの表れのような気がした。
「セントグルゼンの街の殺人事件と同時進行で調査をしようと思う。以前も言ったが、ハリー・スタインベックこそが犯人であるという可能性を考慮してな。また、一部の同志には、他の街も探らせる。次は、慎重を期す」
「ありがとうございます」
「礼は不要だ。君のためだけではないのだから」
「理解しております。カルミラの民全体の規律のため、ですね」
「そうだ。――ああ、もちろん、君の私怨を否定するつもりは毛頭ない」
「ええ……」
エドマンドは恐縮したように笑ってから、また表情を真剣なものに変えた。
「ところでグレナデン殿。ぼくも、セントグルゼンの街の調査に参加してもよろしいでしょうか」
「また、どうして?」
意外な申し出に目を瞬かせながら尋ねると、青年の面持ちはいっそう研ぎ澄まされたものになった。
「結果を黙して待っていられないのです。それに、お世話になった貴方に恩を返す機会が欲しい」
「それは不要だと――」
「そんなことおっしゃらないでください」
グレナデンの言葉を遮って発せられた声には焦燥が感じられたが、澄み渡っており、小気味が良かった。そこまで言うのなら、彼の希望を叶えてやろうと心から思えるほどに、グレナデンの胸を打った。
「では、君の気持ちはありがたく受け取ろう。協力してくれるか」
「はい、喜んで!」
エドマンドは顔を輝かせた。その若く眩しい笑顔は初夏の日差しのようで、グレナデンの心をじんわりと熱くさせる。
「しかし、ご両親は君が我々に協力することを快く思わないのでは? オルドリッジ家は、石榴館の活動に不干渉を貫いている」
「そうですね……。しかし、ぼくも歴とした成人です。父母や、家の方針に服従する道理などありません」
彼の目には、曇りも迷いもなかった。
「そうか、その通りだな。無粋なことを言ってすまない」
「ありがとうございます」
青年が見せる笑みは相変わらず無垢だったが、よくよく観察してみれば、どこか危うさも感じられた。
年上の者として、支え、導いてやらねばと使命感に駆られるほどに。
***
以来、オルドリッジ家の末っ子は、石榴館に足繫く通ってくれるようになった。
最初はやや他人行儀だったものの、徐々に胸襟を開き、石榴館の面々とも打ち解けた。母親譲りの優雅な話ぶりで皆を楽しませ、短期間で多くの知己を得たようだ。
グレナデンの従者たちも、細やかな気遣いができるエドマンドをいたく気に入り、彼がやって来ると黄色い声を上げるようになった。
ことさら、グレナデンにはよく懐いてくれたように思う。まるで出来の良い弟を得たようで、共にいると心地が良く、鼻が高かった。
皆が、『本当の兄弟のようですね』なんてからかってくる。雰囲気が柔らかくなった、とまで言われた。
小恥ずかしいが、悪い気はしなかった。
だが、ハリー・スタインベックの調査も、殺人事件の捜査もまったく進展しなかった。石榴館の捜査の手を警戒したのか、てんで動きが無くなった。
焦燥を感じ始めたある日――その恐るべき情報がもたらされた。
「ああグレナデン、もう耐えられない。あんなに惨い行いが許されていいはずがない。どうか、フィリックスを止めてくれ!」