オルドリッジ家の苦難
「ああ、気分が悪い! 気分が悪いっっ!」
ヴィオレットは感情的に喚き散らし、テーブルを叩いた。茶器が揺れ、中身が飛び出す。シェリルが慌てて宥めに入った。
チャールズは、『ぼくに当たられてもね』といった様子で肩を竦めている。
「ヴィオレット様、落ち着いてくださいませ」
可愛がっている従者にたしなめられても、ヴィオレットの気持ちはおさまらないようだった。肩で大きく息をしながら、虚空を睨み据えている。まるでそこにフィリックスがいるかのように。
ラスティだって、気分が悪くて仕方ない。『人体実験』なんて、具体的にはどんなことをしていたのだろう。
今すぐチャールズに食って掛かりたいが、下手に口を挟むわけにもいかない。新人従者として大人しくしているべきだろう。
どっかりと椅子に腰を戻したヴィオレットは、悪罵の言葉を吐いたり髪をかき乱したり、錯乱したような行動を取っていたが、ぶんぶんと首を振ってから、ようやくチャールズを正視する。
「ちょっと待て、チャールズ。お前、妙に詳しいではないか。一連の情報の出どころはどこだ? オルドリッジ家は、石榴館の連中とは義理程度の付き合いしかしていなかっただろう」
「そうなんだけどね。これがまた、本当に厄介なことになっていてね……」
チャールズは疲労困憊したように、重々しい息を吐いた。
「エドマンドがグレナデンに付いたんだ。あいつ、いつの間にグレナデンと交流していたんだか。もう、あっちが本当の兄貴なんじゃないか、ってくらい、べったり心酔してるよ」
「な、なんだと……?」
ヴィオレットは顔をしかめ、驚きと不理解を示した。
だが、ラスティにはなんとなく理解できる。ハリーと一悶着起こしたあの日、グレナデンはエドマンドに治療を施しただけでなく、優しく慰めていた。満身創痍のエドマンドに、年上の男らしい寛容な態度で接していた。
ラスティだって、二言三言言葉を交わしただけでグレナデンに好印象を抱いたのだから、心の弱っているエドマンドには覿面の効果があっただろう。
グレナデン本人に、エドマンドを誑し込む意図があったとは考えにくいが、結果としてそうなったようだ。
「エドの奴……どうして……っ!」
「ヴィオレット様……」
再び苛立ち始めたヴィオレットを、シェリルが宥めすかせる。
シェリルの表情を窺うに、彼女もまた、エドマンドの心情を察しているようだった。あの混迷を極めた状況を、たった一人で制圧し、すべてを解決したグレナデン。あの場にいた誰もが、尊敬の眼差しを向けるのは当然だ。
「それだけならまだよかったんだが……」
チャールズが相変わらず重苦しい調子で口を開く。
「フィリックスには、ウィルヘルミナが付いたんだ」
「ミナが……?!」
目を見張ったあと、ヴィオレットは魂が抜けたようにうなだれた。
「どうしてミナが……。内向的だが、思慮深い女だったのに……」
ラスティは、ヴィオレットが他者を好意的に評価しているところを初めて耳にした。それほど、ウィルヘルミナというのは好人物だったのだろう。
「ミナ様は、オルドリッジ家の三女です。チャールズ様にとっては妹ですね」
シェリルが小声で教えてくれた。
「今ヴィオレット様がまとってらっしゃるショールは、ミナ様からの贈り物です」
「そうなのか……」
身に着ける物を贈ってくれたということは、それなりに深い親交と、信頼があったのではないだろか。
「グレナデン側の情報はエドを通じて入ってくる。だが、ミナがフィリックスに付いたのはまったくよろしくない。あの女、なにを考えているんだか」
チャールズが吐き捨てる。
「しかも相当以前から付き合いがあったらしい。恐らく、オルドリッジ家の情報はミナを通じてフィリックスへ流れていた」
「なんということを……」
額を押さえて嘆くヴィオレットに、チャールズも同様の仕草を取った。
「しかも笑える話だが……ミナのやつ、フィリックスの子どもを身籠っていやがった」
「!!」
脱力していたヴィオレットが弾かれたように身体を起こす。これ以上なく目を剥いて、まじまじとチャールズを見た。
ミナという女を知らないラスティも、『子どもを身籠った』という話には驚きを隠せない。
チャールズにとっては自分の妹が、ヴィオレットにとっては親交深い友が、吐き気を催すような『殺人犯』の子を妊娠しているなんて、彼らの心痛は如何ほどのものなのか。
「ほ、本当なのか。なにかの間違いでは……」
「最後に会ったとき、もう腹が膨らんでいた。今頃、もう生まれているんじゃないかな」
ああ、とヴィオレットは悲しみに暮れる。
「もう母上は発狂寸前だ。心労がひどく、寝込んで起きてを繰り返している。ミナのせいで、『フィリックスが犯している罪の責任をオルドリッジ家にもおっかぶせろ』と言い出す連中が現われるに違いないかならな」
「アーサーおじさまは、なんと言っている?」
「父上は『放置でよい』とさ。そんなことより、新大陸で己の勢力圏を広げることにご執心。実夫とはいえ、数百年生きている傑物の考えていることは超然とし過ぎていて理解できない。あのひとにとって、この事件もカルミラの民の歴史のごく一部に過ぎないんだろう」
「あの方らしいお考えだが、いささか無責任だな」
ヴィオレットは渋面を作り、苦々しい声で言う。チャールズは腕組みして、『まったくだ』とつぶやいた。
「我がオルドリッジ一門はてんてこ舞いさ。一番上の兄上なんて、銀髪なのか白髪なのかわからなくなっている」
「かわいそうに……」
ヴィオレットの言葉は、決して口先だけの同情ではないようだった。いつもは傍若無人に振る舞っている女が、他者を労わっている。それほどまでに、事態は深刻なのだろう。
だが、ラスティは思った。『別に、俺たちには関係ないんじゃないかな』と。アルバス全土に蔓延る醜悪な殺人者のことなど、放っておけばいいのでは。犯人のことは、いずれ誰かが誅するだろう。
オルドリッジ家の苦難だって、ヴィオレットには関係ない。関係ないはずだ……。
もうラスティにはわかっていた。チャールズがマクファーレン邸を訪れた真の理由を。彼が本当に伝えたいことを。