ひとりぼっちで、可哀相なハリー
「フレデリカ」
「なぁに?」
発作的に呼び掛けると、少女は素直に振り向いた。
呼び止められたことに対する煩わしさなど微塵も感じられない、『なんでも言って』と言わんばかりの温かい表情をして。その包容力にあふれた眼差しは、病気の子どもを案じる母のようでもあった。
少女の純真さは今のハリーにはひどく眩しく、心に大きな影を作った。
だから、衝動のままに『力』を放つ。宵闇の女王から奪った黒い瞳を光らせ、少女の精神を冒した。
フレデリカの顔に浮かんでいた慈愛が削げ落ちる。
代わりに現れたのは、凄絶なまでに淫靡な形相。娼婦がとびきりの上客に向けるような、甘く蕩けた視線。男心の一番醜い部分を呼び起こす、媚びへつらった笑み。
今の彼女に対してなら、なにをしても許されるだろうと思った。なぶり尽くして満足したら、記憶を消せば済む話だ。
「おいで」
声を震わせながら命じると、フレデリカは身をくねらせて近寄ってきた。熱い視線をハリーに送りながら、隣にすとんと腰を下ろす。
ハリーは手を伸ばして少女の頬に触れる。ふっくらと柔らかい感触は、年若い娘ならではだろう。そのまま指を滑らせて、くちびるをなぞった。
多少はなんらかの反応を見せるかと思いきや、フレデリカは身動ぎ一つしない。撫でられている口元には相変わらず甘い笑みが浮かんでいるが、ただそれだけ。
命令を待つ人形だ、とハリーは一抹の虚しさを覚えたが――。
ならば命じてみればいい、と心の奥から声が聞こえた。
君の手練手管の限りを尽くしたキスをしてみろ、と。
身にまとう大事なショールを投げ捨て、衣服を開け、脈打つ首筋と白い乳房をさらしてみろ、と。
他の男の手垢にまみれた中古品なのだから、ためらうことはない。
この娘で鬱憤を晴らせ。
柔肌へ吸い付き、皮を破り、赤い甘露を味わえ。
さすればすべてが解決する。
血を、血を、血を……。
「……ああっ!」
苦悩に満ちた呻き声は、ハリーの口から飛び出した。フレデリカから顔を背け、頭を抱えて震える。自己嫌悪と罪悪感が噴出し、心が潰れてしまいそうだった。
血なんてちっとも欲しくない。
強がりではなく、間違いなくハリーの肉体は血など求めていなかった。この口渇感が吸血欲だなんて、惑乱した心が作り出した妄想に過ぎなかったのだ。
ハリーが拒絶したのは、吸血行為だけではない。純真無垢な少女を意のままに操り、心と身体を穢す行いもまっぴらごめんだった。
一時の気の迷いでそんなことをしたら、自分の誇りは徹底的に地に堕ちる。もう生きていられないほどに。
確固たる『目的』があるからこそ、辛うじて生存を許される身の上だというのに。
「あれ、どうしたの? 大丈夫?」
術から解放されたフレデリカが、けろりとした調子で声を掛けてくる。その素朴な優しさが、ますますハリーの良心を責め苛んだ。怯えた子どものように身を縮めながら、絞り出すように少女へ命じる。
「帰れ、フレデリカ……。ホレス氏のもとへ……」
「……どうして?」
フレデリカは怒ったように声を低くした。
「どうして、はこちらの台詞だ。どうしていつまでも私の側にいたがる? どうして甲斐甲斐しく世話を焼きたがる?」
ハリーは、恨みがましげな物言いをせずにいられなかった。彼女さえいなければ、あんな愚昧極まりない衝動に駆られずに済んだ、という八つ当たり同然の思いがあったからだ。
「言ったでしょ。あなたの『目的』に協力するためだって」
憤然と言い返してくるフレデリカに、ハリーは弱々しくかぶりを振った。
「違うだろう……。それは建前で、本当は私を哀れんでいるだけだろう?」
一度口に出してしまえば、もう止まらない。
「『人間でもない、カルミラの民でもない。みんなに憎まれて命を狙われている、とても可哀相なハリー・スタインベックさん』。そんなふうに思って、自己満足のために側にいてくれるだけだろう!?」
自ら発した言葉に傷付き、最後は声を荒げてしまった。本当に情けない男だ。
「確かに私は哀れな男だ。誰もが見下げ果てるほど、救いようのない男だ。赤の他人である君の優しさに甘えて、当たり散らして、挙げ句の果てに……」
ハリーは、それ以上の告白をためらった。フレデリカ自身に記憶は残っていないため、事実を隠蔽し、何事もなかったかのように振る舞えばいい。
けれど、これ以上の卑怯者になりたくないという矜持が、ハリーに懺悔を促した。
「私はたった今、君の心を操って凌辱の限りを尽くそうとした。カルミラの民のように血を吸えないか、君の身体で試みようとした」
事実を告げると、フレデリカの相好が強張り、瞳に恐怖の色が混じった。彼女が心中でなにを思っているか、痛いほど理解できる。
「私自身、よくわかっているよ。従者にとって、主人以外の者に血を吸われることは、筆舌に尽くしがたい屈辱だということを。まさに、『魂の殺人』と言ってもいいことだと」
宵闇の女王の従者だった頃、エドマンドの姉に迫られたことがある。単なるおふざけだったとわかっていたが、身の毛がよだつようなおぞましさを味わった。
「今回は踏みとどまったが、またいつ同様の衝動に駆られるかわからない。こんなにも浅ましい男の側になんているべきではない……」
フレデリカはくちびるを引き結んだまま、なにも言わなかった。ただ揺れる瞳でハリーを見つめてきている。その中に在る感情は、怒りか悲しみか、とびきりの軽蔑なのか。
どうとでも罵ってくれたらいい、とハリーは覚悟を決めた。汚らわしいと罵倒し、気が済むまで打ち据えたあと、優しい主人のもとへ帰って幸福な生を送ればいい。
やがて、少女はゆっくりと口を開いた。
「……そうよ」
蚊の鳴くような声に、ハリーは眉をひそめて聞き返す。
「なんだって?」
「――そうよ! あたしは、あなたが可哀相だから側にいるの!」
フレデリカは勢いよく立ち上がると、肩を震わせて絶叫した。