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ひとりぼっちのハリー

 この一週間、ハリーはただただ苛立っていた。

 ラスティの『犬』に噛まれた右腕の痛みがちっとも治まらない。その上、微熱と倦怠感が続いている。

 だから自室にこもり、一日のほとんどを寝台の上で過ごしていた。


 眠りがすべてを忘れさせてくれたのは、最初の数日だけ。肉体の疲労のお陰だろう。あとはろくにまんじりとも出来ず、傷の痛みに歯噛みするばかりだった。


 ずたずたにされた肉は塞がったものの、歯型がくっきりと残っており、見るたびに恐怖と屈辱が思い起こされる。

 どれだけ槍を放っても、決して疾走を止めない真っ赤な犬。眼前で大きく跳躍し、襲い掛かってきた。喉笛を狙って牙を剥き、とっさに腕で防いだが、骨をへし折らんばかりに噛み付かれた。


 そのとき、自分の口から如何(いか)に情けない悲鳴が漏れていたか、思い返すだけで頬が赤らむ。


 もともと犬は好きではなかったが、よりいっそう嫌いになった。もう二度と見たくない。

 人懐っこい顔をして寄ってきたくせに、こちらが気に入らないとなると途端に牙を剥く下等なケダモノ。無駄にでかい図体をしていて、厚かましくて、粗暴で、良く吠えた。

 そのうえ、女に取り入るのは大変上手(じょうず)ときたものだ。


 むしゃくしゃしながら寝返りを打つと、今度は背中が痛んだ。エドマンドに斬られた傷だ。

 安静にしていればなんともないのだが、大きな動きをすると引きつるような痛みを発する。

 かつて友と呼び合った青年に、『ぼくの恨みを忘れるな』と言われているようだった。


 ――ああ、忌々しい。

 なにもかもが今のハリーを(さいな)み、虫の居所を悪くさせる。


 しかも、発熱しているせいで喉が渇いて仕方ない。だが滅多矢鱈(めったやたら)に水を飲んでも尿の量が増えるだけ。今は、口を湿らす程度に留めている。

 そのことさえもどかしくてたまらない。傷の治りが遅いのは、食事によって英気を養うことができないからではないか、という思いがあった。


 人間は『食物』から、カルミラの民は『血』から栄養補給をしているが、従者はどちらも不可能だ。嗜好品として軽食をつまむ程度のことならできるが、すぐに満腹になってしまう。基本的には、少量の水分を摂取するだけで生きていける。


 現在のハリーの肉体は、食物どころか血さえも欲することはない。つまり、自分は未だに『従者』なのだろうか。

 それとも、他者を誘惑し、血を自在に操る(すべ)を得たのだから、『カルミラの民』と呼んでも差し支えないのだろうか。


 ――いいや、そのどちらでもないに違いない。もちろん『人間』でさえない。

 ならばやはり自分は、『名称不明の化け物』なのだろう。


 暗澹(あんたん)とした気持ちになるとともに、居ても立っても居られず、痛みをこらえて寝台から脱出した。

 屋敷を徘徊したあと、なんとなしに庭へ出る。美しく咲く椿の花が無性に憎らしく、いくつか叩き落してしまった。


 ふと屋敷の方へ目をやると、二階の窓にフレデリカの姿があった。こちらを心配そうに見つめてきている。離れたところに留まったまま声を掛けてこないのは、彼女なりの気遣いだろう。


 だがその優しささえ、ハリーの苛立ちの種になった。なぜあの娘はしつこくハリーの元に留まりたがるのか。主人のもとに帰ってしまえばいいのに。


 ……本当は、有り難いと感じているのだ。彼女がいなければ、手当てさえままならなかった。看病だってしてくれた。それがとても嬉しかった。

 けれど、その好意を素直に受け取ることができない。同情心で世話を焼いているだけだろうと、いじけた見方をしてしまう。


 ひとりぼっちのハリーを哀れみ、どれだけひどい態度を取られても献身的に尽くす己に陶酔しているだけではないか?

 そんなふうに思ってしまうから、フレデリカのことが目障りでたまらない。そのくせ、追い払うこともできない。


 ――だって、彼女がいなくなってしまったら寂しいから。


 ――ああ、なんて情けない男だろう……。


 苛立ちを(つの)らせながら居間へ向かい、強い酒を空けた。良い具合に酩酊(めいてい)し、そのままソファで眠りに落ちる。


 夢現(ゆめうつつ)(さかい)、浮かんでくるのは赤毛の男のことばかり。

 無知で無力な愚物だと思っていたが、尋常ならざる『力』を発揮し、ハリーを圧倒してみせた。

 もっとも驚嘆すべきは、己の血の中にハリーの血を取り込んだことだ。ハリーの知る限り、カルミラの民にあんな能力はなかったというのに。


 あれこそが、『超越者』の力なのだろうか。


 最初はなにもできず、重傷を負って這いつくばっていたくせに。ヴィオレットの血によってたちまち快癒し、突如として『力』に目覚めた。ハリーへの敵愾心(てきがいしん)がそうさせたのか、はたまた死に瀕したことで生存本能が働いたのか。

 もしくは、大量の血の摂取が引き金となったのか……。


 ――ならば、とハリーの脳裏に閃きが起こった。

 ならば、自分も血を飲めば、同様の現象を起こすことができるだろうか。


 加えて思う。もしや、この口渇感(こうかつかん)は発熱によるものではなく、吸血欲なのでは、と。

 飲血(いんけつ)行為は未経験ゆえに、この渇きの正体が判然としないだけではないか。

 ひとたび血を目にすれば……ひと舐めしてみれば……きっとわかるはず。


 もし、他者の血を『糧』として摂取できる肉体になっているのならば、ハリーはまごうことなき『カルミラの民』だ。

 いやむしろ、人間の身から成り上がったのだから、『超越者』と言っても差し支えないのかもしれない。


 あの赤毛男のように超越的な力が発揮できるようになれば、もう屈辱感に震える必要はない。

 俄然(がぜん)気分が高揚し、目が冴えた。身体に残る酒精をねじ伏せ、跳ね起きる。


「きゃっ」


 誰かが悲鳴を上げた。驚いて視線を巡らせると、すぐ脇にフレデリカがいた。困惑を顔いっぱいに浮かべて、口をもごもごさせている。


「あの、その、ごめんなさい。起こすつもりはなかったの」


 と、謝罪するようにうなだれた。彼女の両手には、美しい松毬模様(しょうきゅうもよう)のショールが握られており、それをハリーの身体へあてがっている。

 どうやら、ソファで眠り込んでしまったハリーに掛けてくれるところだったらしい。


 フレデリカは、何事もなかったかのようにショールを羽織り直して立ち上がる。


「体調が良くないくせに、こんなところで寝るんじゃないわよ」


 ぶっきらぼうに言い放ったあと、くるりと背を向けた。ショールが軽やかに(ひるがえ)り、(はし)のフリンジがハリーの頬をくすぐる。その柔らかな感触に、ハリーはとあることを思い出し、はっと息を呑んだ。


 フレデリカはこのショールをとても大切にしている。主人であるホレスから最初に(たまわ)ったものだと言っていた。手持ち無沙汰のときなどは、愛おしそうに撫でさすっている。

 彼女にとって格別に尊い品を、他の男を労わるために使おうとしてくれた。

 なんと健気で優しい娘だろう……と、(すさ)んでいたハリーの心が癒えていく。


 だが同時に、ふつふつと暗い想念が湧きあがる。


 この素晴らしい娘は、どうして自分の物ではないのだろうか。

松毬模様(しょうきゅうもよう):ペイズリー柄のこと。カシミアショールの伝統的な柄。

名前の由来は、織物の量産地となったイギリスのペイズリー市だが、もともとはインドから西洋に伝わったものである。

柄の起源はイラン辺りだと言われており、相当古い時代から存在しているらしい(紀元前まで(さかのぼ)るとか?)。

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