狼なんかじゃなく、ただの犬でいい
「ラスティ、貴様……もう血液操作を覚えたというのか。あの満身創痍の状態で……」
ハリーの愕然としたつぶやきが耳に届く。
「……なるほど、ゆえに『超越者』か。そのたいそうな名は伊達ではないということか。──化け物め!」
なんとでも罵れ、と思いつつ、ラスティは声の方向へと血を奔らせる。そこにいる者を制圧するために。
もうヴィオレットの心を傷付けたくなかった。悲痛な叫びをあげさせたくなかった。愛した男と争わせたくなかった。
彼女の胸に残る熱い情念を、聞きたくなかった。
だからハリーをねじ伏せて、一刻も早くここを離れたい。
獲物めがけて迸る血の川に、なにかが突き刺さった。視覚は茨によって遮られているため視認できないが、刺さったのはハリーの槍だろう。
だが、勢いを増して流れる液体を、ただの槍が堰き止められるはずがない。
「なんだ、これは!」
ハリーが発する悲鳴混じりの声が、彼の居場所をますます明瞭にする。
だからラスティは、血の形状を変えた。
とびきりの恋敵を征伐するための形へ。ラスティの武器として相応しい形へ。
血の奔流はラスティの意思に従い、四つ足の獣の姿になった。見えずとも、感覚として伝わってくる。
逞しい四肢で地面を蹴る獣。
獅子や虎、熊じゃあない。
鼻面が長くて、垂れ耳で、上向きの尻尾があって。
肉を裂く牙を持つ──大型の『犬』。
狼なんかじゃなくていい。ただの犬でいい。少年の頃、下働きをしていた屋敷で飼われていた狩猟犬あたりが最適だろう。
ラスティよりも、ずっといいものを食べていた。ラスティよりも、ずっと愛されていた。とっても羨ましかった。犬に生まれていたらよかった、なんて思ったこともあった。
そんな懐古の念が、ますます犬の形を正確に模っていく。
「忌々しいヤツめ!」
ハリーが叫んだ。次いで、何本もの槍が犬に突き刺さる。右後ろ脚が粉砕された。
犬は体勢を崩したが、すぐに走行を再開する。もうラスティの『血』は、犬の形を覚えた。どれだけ破壊されても、たちまち元の形状に戻ることができる。
胴体部分に刺さった槍は、吸収した。犬の体積が増える。
ハリーのくぐもった悲鳴が聞こえた。ざり、ざり、と二歩後退したのもわかった。
疾駆している犬を、足音めがけて跳躍させる。
──捉えた!
犬の猛襲を受けたハリーは悲鳴をあげ、なすすべもなく後ろへ倒れ込んだようだ。
押し倒した程度では、すぐに反撃されるだろう。
だからラスティは、犬に喉笛を狙わせた。大きくあぎとを開いて、喰らい付かせる。
犬の牙は、なにかを食んだ。
感触からして、腕だ。腕で首元を庇ったのだろう。ずいぶん手加減してやったのだが、ハリーは大きな苦鳴を発した。
犬を振りほどこうと激しく抵抗するから、さらに深く噛み付かせ、前脚で強く青年の身体を押さえる。
ハリーを制圧できたと確信したラスティは、肉体を霧に変え、茨の隙間から脱出した。
地を踏みしめても、腕を動かしても、もうどこも痛くない。シャツが破れてしまっているので、ちょっと肌寒いくらいだ。
「ラス……」
ヴィオレットが弱々しく呼び掛けてくる。視線を向けると、地面に両手をついてうなだれていた。やはり、血を放出し過ぎて体調を崩しているようだ。
「俺はもう大丈夫だから、この茨を身体に戻してくれ」
「ラス、お前……」
ヴィオレットはなにか言いたげに見上げてくる。揺らぐ瞳の中に在るのは、突如として力を発揮したラスティへの驚きか、はたまた犬に襲われている青年への心痛か。
だがヴィオレットは素直に言うことを聞いてくれた。男一人を包み込んでいた巨大な籠が溶けていく。赤黒い色も相まって、まるで溶岩のようだった。
液体に戻った血は幾筋もの流れとなり、ヴィオレットのショールの中へと吸い込まれていった。
ショールの隙間から見えるヴィオレットの細腕には、細かい傷がいくつもついていた。彼女は、防寒やおしゃれのためだけでなく、傷を隠すためにショールをまとっていたようだ。
万が一のことが起こったら、いつでも血を放出できるように、あらかじめ皮膚を傷付けていたのだ。
ヴィオレットが如何に凄絶な覚悟を決めてラスティを迎えに来てくれたのか、はっきりとわかった。
彼女の気持ちを思うと、胸が痛くなる。
だが感傷に浸っている場合ではない。今はまだ、ハリーの対処に集中せねばならない。
深紅の犬はハリーを押し倒したまま、右腕へ牙をめり込ませている。
ラスティは今このとき、ようやく犬の姿を視認した。おおよそ想像の通りの形状をしており、秘かに安堵した。不細工なものができていたらどうしようかと思っていた。
ハリーの表情を窺えば、苦悶だけでなく恐怖も浮かんでいた。痛みと怖れに断続的な悲鳴をあげている。
それもそのはず、犬は、ハリーの血を吸っているのだから。
咬傷から染み出る血を取り込んで、徐々に大きくなっている。
ハリーの血は犬の中で暴れまわるが、すぐに大人しくなって、ラスティの意思に従う。
その様は小気味よいが、他人の血――ましてやハリーの血を取り込んだ犬を、身体の中に還したくはない。そこらへんに捨てて帰ってもいいだろうか。
「ラス、もう……やめてあげて……」
ヴィオレットの静かな懇願に、ラスティは犬の顎の力を緩めた。様子を窺いつつ、ハリーの腕を解放してやる。
ハリーはぜいぜいと喘ぎながら、四肢を地面に投げ出した。
右腕は血まみれ。顔面は蒼白。金髪はほつれて、顔に貼り付いている。
昨日のダメージを引きずりながら、大量の血槍を作り、操作し、そして犬に血を吸い取られた。そんな彼はまさしく疲労困憊、満身創痍。
やり過ぎたなんて思わない。ラスティが負わされた怪我の方が、ずっと重傷だった。ずっと痛かった。やり返すことができて、溜飲が大いに下がった。
それでも、たった一つの懸念があった。ヴィオレットのことだ。
今この瞬間にも、ラスティを押しのけて一目散にハリーへ駆け寄ったらどうしよう。彼を愛おしげに抱き起こし、労わりの言葉を掛けたらどうしよう……。
不安のあまり、心臓がどくどくと嫌な音を立てた。
恐々としながら振り返ると、ヴィオレットはただ立っていた。髪とショールをなびかせて、ハリーをただ見つめている。
その瞳の中に詰まった感情がどんなものなのか、ラスティにはわからなかった。