路傍の石ころ、そして踏み台
「本当に、なんとも思っていないのか」
「なんだと?」
ハリーは不快げに目を眇める。ラスティはもう一歩踏み出して、さらなる問いをぶつけた。
「だったらどうして、思い出を宝石箱にしまっているんだ? どうしてあんな愛おしそうな顔で、思い出を語れるんだ?」
昨日、未だ互いの素性を知らなかったとき。ハリーは自慢げに宝石箱を開いて、陶酔したようにヴィオレットへの想いを語ってくれた。
ヴィオレットへの想いが消失しているのなら、宝石箱ごと捨ててしまえばいいのに。
そして、健気に彼に付き従っている、天真爛漫な少女のことも尋ねた。
「俺を見ていると苛立つのに、どうしてフレデリカへは兄貴みたいに接している?」
ハリーからの答えはない。不意に威勢を強めたラスティに戸惑っているのか、はたまた怒りに言葉を失っているのかは定かでない。
しかしラスティは問わねばならない。眼前の男の真意を。
「ヴィーのことは、殺したいとさえ思わないほど興味がないのか? ――それとも、殺したくないということか? まだ、気持ちが残っているから……」
ラスティはそれ以上言葉を発することができなかった。ハリーから強烈な殺気が吹き出し、威圧されたからだ。
だが、ハリーが赫怒したのはほんの一瞬。ラスティが額の汗を拭う頃には、嵐が通り過ぎたあとのように悠然としていた。
ひょいと肩を竦めて、呆れたように笑う。
「美しかった思い出を残していてはいけないのか? それをしなければ、私は憤怒と憎悪に心を焼かれ、正気を保てなかっただろう。フレデリカは、彼女との主人との契約の元、便利に使っているだけだ」
彼の物言いには、正当性があった。しかしあまりに泰然自若としすぎている。つい今しがた発揮された恐るべき怒りは、一体どこへ消え去ったのか。
それはきっと、寂然とした仮面の下に押し込められているに違いない。
それを暴くべきではないと、ラスティは本能的に感じた。
このまま踵を返して、マクファーレン邸に帰るべきだ、と思った。ハリーの気持ちは十分に聞くことができた。ヴィオレットに無関心な男など、放っておけばいい。
さもなくば、ハリーは今度こそラスティを全力で殺しに来るだろう。
だがラスティは、半ば衝動的に禁忌へと踏み込むことにした。
そこには、未だヴィオレットの心を捉え続けるハリーへの対抗心が大いにあった。
そして、ラスティの大切なものを傷付けた男への敵愾心も。
「ラスティ、貴様……なにを笑っている?」
ハリーが胡乱な目を向けてきた。ラスティはゆっくりと手を動かし、口元を覆い隠す。
「すまない。つい、な。……良かったな、と思ってさ」
「なに……?」
ハリーは形の良い眉を訝しげに歪ませた。それをからかうように、ラスティは喉の奥でくつりと笑う。
「あんたがヴィーに興味がないと知れて、本当に良かったよ」
口元にあった手を下げ、笑みを隠すのをやめた。とてもめでたい出来事があったかのように、明るい調子で言い放ってやる。
「方法はどうあれ、自由になれて良かったなぁ、ハリー。残りの人生、好きに生きればいい。俺は心置きなく、ヴィーとシェリルと、三人で生きて行く」
ハリーの美しい容貌がさらに歪んだ。彼の胸中に生じた感情がなんなのかは掴めないが、ラスティはさらに続ける。
今度は、より酷薄な言葉を選んで。
「あんたは路傍の石ころだった。俺がちょっと蹴っ飛ばして、ヴィーが転ばないようにしてやればいい、その程度の存在だった」
ハリーは微動だにしなかったが、表情に刻まれた皺は間違いなく増加した。ラスティは腕組みして、尊大に言う。
「時間はかかるかもしれないが、いずれヴィーもあんたのことは忘れるだろう。寝言で名前を漏らすこともなくなるさ」
途端、ハリーの険相にわずかな動揺が浮かんだ。
「……なんっ」「おっとすまない」
ラスティはハリーの言葉を遮って、わざとらしく謝罪する。
「『路傍の石ころ』は、悪しざまに言い過ぎたな。……『踏み台』だ。あんたは、俺の幸福のための踏み台になってくれた。俺は心の底から、礼を言わなきゃならないな」
弄るような視線を向けると、憤怒を顔に浮かべたハリーが二歩三歩と踏み込んできた。
視線が間近でぶつかった瞬間、胸倉を掴みあげられる。
「貴様……!」
「どうした色男、なにをそんなに怒っている? 興味のない女と、その女に惚れてる男のことなんて放っておけ。二度と関わり合いにならなければいい」
ラスティはハリーの激憤を真っ向から受け止めつつ、軽口を叩く。
瞳術を警戒せねばならないことは承知していたが、視線を逸らしたくなかった。――いや、感覚的に理解していた。ここまで感情を乱していては、その術は使えないだろう、と。
「愚鈍な男だとばかり思っていたが、存外よく口が回るな」
ハリーの声はぞっとするほど低く、怒りを必死で押し殺しているようだった。だがラスティは怯まず、挑発するように言ってやる。
「俺は元々おしゃべりだ。ことさら、『本音』を言うときはな」
ぎりり、とハリーが奥歯を噛み締める音が聞こえた。だが、彼はすぐに口元に笑みを浮かべる。すこぶる愉快で、甚だ醜悪なことを思い付いたかのような、歪んだ笑顔。
「ラスティ、お前に呪いをかけてやる。あの女は、私がさんざん楽しんだあとの残り滓だ。抱くたびに、私の顔を思い出せ」
低劣な言葉は、ラスティの胸に真っ直ぐ突き刺さった。あまりに唐突過ぎて、聞き流すことも、防ぐこともできなかった。ヴィオレットへの侮辱的な言葉よりも、男としての優位性を主張されたことが衝撃的だった。