君に誓う
ウルス帝国側の言葉がわかるハナと長老ユエは既に愕然としていたが、ニコラ・スカリエによる通訳を受けて族長モズも顔から血の気が引いた。
頭を床へ叩きつけるような勢いで平伏し、彼は必死の抗弁を試みた。
《皇帝陛下! 何卒、何卒それだけはお許しを! これなる我が娘ハナはまだ齢十六、礼儀作法の心得もない不躾な未熟者にございます! 大陸全土に覇を唱える陛下のような高貴なお方とは到底釣り合いませぬ! どうか、どうか!》
心の底からの叫びのごとき哀願を繰り返すモズのみならず、事の重大さに慌てた何人かの家臣も入れ代わり立ち代わり、皇帝へ翻意を促している。
しかし皇帝ランフランコ二世は「もう決めたことだ」と取り付く島もない。それどころか、目に見えて表情に不機嫌の度合いが濃くなっていくのがわかる。
人差し指を一本、無言のままで彼が立ててみせた。途端に族長モズ以外の全員が口を噤んで頭を垂れる。あの動作でこれまでどれほどの数の家臣を罪に問うてきたのだろうか。
まだ哀訴しているモズに向かい、冷たい声音で皇帝が告げた。
「長老と族長よ、もう其方らに用はない。この娘の身に余るほどの幸運を喜び、さっさと流浪の旅へ戻るがよかろう。でなければ娘以外、〈シヤマの民〉の全員を処刑してくれようぞ」
無表情でニコラ・スカリエが通訳を務め、その絶望的な通告を聞かされてついにモズも黙り込んでしまった。
先ほどからハナもほとんど放心状態といってよかった。ウルス帝国の皇帝という強大な権力者から無理難題を押しつけられ、もはや彼女に取れる選択肢など受諾か拒絶の二択しかない。そして後者ならば、おそらく〈シヤマの民〉に危険が及ぶ。
《うう……》
ハナの口から苦悶に満ちた呻きが漏れる。
そんな彼女へ、力なく座りこんでいるように見えたモズが声をかけてきた。
《ハナよ、最愛の我が娘よ》
顔を向けた父はこの場にそぐわぬ微笑みを浮かべていた。
《逃げろ。逃げて逃げて、必ず生き延びろ》
言うなり、急な勾配となったまま宙で凍りついているかのような赤い絨毯へとモズが跳び乗った。
懐に右手を差し込み、モズは全速力で駆ける。帝国側による身体検査でも見つからないほど巧妙に、小さな刃を隠し持っていたのだ。宮殿内とあってさすがに弓兵など配備されておらず、衛兵たちも後ろから一人ずつ追うのが精いっぱいである。
まだハナの頭の理解が追いつかないまま、今度は後ろから長老ユエの声が飛んできた。
《モズの覚悟を無駄にしてはいけないよ、ハナ》
ユエに腕を引っ張られ、彼女は無理やりに体を起こされた。
父と師、二人の意図するところはハナにだってもちろんわかる。
だがそれはつまり、父を見捨ててこの場から逃げろということではないか。
頭で理解できていたって気持ちが納得できるわけじゃないのだ。
思わず振り返り、ハナは絨毯の先端から皇帝へ躍りかかっていく父の後ろ姿を目で追ってしまった。
《皇帝、お覚悟!》
小さな刃といえど、柄の底に左手を押し当てて急所に突き立ててれば命は奪える。それを実行できるだけの確かな技量を族長であるモズは持ち合わせていた。
ただし、自らの命と引き換えでの行動だ。
しかも結局は、皇帝ランフランコ二世の体にかすり傷一つたりとも負わせることができなかった。
十二段の階段を使いもせず、玉座のある壇上へとニコラ・スカリエが跳び上がってきたのだ。そのまま彼は皇帝を守るために立ちはだかり、襲い来るモズを迎え撃つ。
ニコラ・スカリエが抜いた剣は躊躇いなく、あまりにもあっさりとモズの首を刺し貫いてしまった。
いくらか返り血が後ろにいる皇帝にもかかったが、ランフランコ二世はまったく表情を変えることなく平然とした態度を崩さなかった。
《族長モズ、あなたは勇猛だ。だがそれ以上に果てしなく愚かだ。族長としての生よりも、父としての死を選んでしまうとは》
軽々とニコラ・スカリエが剣を振り回したために、貫かれていたモズの体は弾みで飛ばされ、そのまま床へと大きな音を立てて落下してしまう。
それだけではなかった。ハナを引っ張る長老ユエの力が急に弱くなったように感じたのだが、実際は違っていた。ユエの右腕が衛兵によって斬り落とされていたのだ。
すぐに他の衛兵たちによって長老ユエはめった刺しにされてしまう。ハナへの最後の言葉さえも遺せずに。
あまりに現実感がない光景に、ハナは眩暈がした。いつの間にかこめかみのあたりがひどく痛んでいる。
そっと指先でこめかみへと触れてみた。激しく脈打っているのがわかる。
次の瞬間、彼女は全身の血が沸騰しそうなほどに叫んだ。
《災いあれ、この国のすべてに災いあれ! 災いあれ!》
肉体を引き裂かれそうな激しい哀しみと怒りが、ハナという人間の底からどんどんと湧きだし、今にも彼女を飲み込もうとしている。
そんなハナを、皇帝ランフランコ二世は観察対象のようにして眺めていた。
「いい目をしている。まさしく獣の目よな。これを飼い馴らすのもまた上に立つ者の度量ということよ」
のうスカリエ中佐、と傍らの忠臣へ同意を求める。
ニコラ・スカリエはそれには答えず「玉座を血で汚してしまい、申し訳ございません」と許しを請うばかりであった。
◇
《──後で牢獄に繋がれているときに知った。他のみんなも一人残らず始末されたって。教えてくれたのは父を殺した、あのニコラ・スカリエって男だったよ》
もう涙も枯れ果てたのか、淡々とした口調でハナが語る。
《皇帝に一矢報いることさえできず、ただ手負いの獣が半狂乱に鳴き喚いていただけ。何の脅威にもなりはしない。父とユエ婆を目の前で死なせてもそのザマだ、結局は牢獄に繋がれたまま死を待つだけの末路でさ。あたしだけを生かしておいた皇帝の気が変わるのが早いか、こっちの体が衰弱してくたばるのが早いか。そんなときにあいつがやってきたんだ》
身じろぎ一つさえ許されていないかのように、ほんのわずかな物音も立てることなくピーノとエリオはずっとハナの話に耳を傾けていた。
《物静かなやつだった。父の仇だからって顔に唾を吐きかけてみても、あいつは感情の波をまったく見せない。でも、あたしのことなんか歯牙にもかけないのだけはよく理解できた。そんな薄気味悪い男が言ったのよ。君には三つの選択肢があるって》
さらに彼女はその先を続ける。
《一つめは、宮殿で起こったことをすべて忘れて皇帝との結婚を受け入れる。まあ、論ずる価値なんてほんのわずかにもないよ。牢獄で一度だけ笑ったのはこのときだった。二つめ、すべてを拒絶したまま薄暗い牢獄で朽ち果てる。とても現実的な案だ、とちょっと感心した。でもこの二つの案以外に選択肢なんてありえないじゃない? だからあたしは三つめについて問い質してみた。人生最後の会話のつもりでさ。そしたらね、何て答えたと思う?》
両手で膝を抱えたハナの声が、かすかに弾んだものへと変わった。
《助けが来るのを信じて待ち続ける、だって。ありえない、本当にありえない。案外バカな男だったんだなと呆れるよ、そりゃ。でもあいつ、続けてこう言ったんだ。彼らが再会したがっていた〈シヤマの民〉の友人とは君のことだったんだな、って》
そう言ってから彼女はピーノの頬へと手を伸ばし、薄い傷跡にそっと触れる。
《ごめんね、傷つけちゃって》
柔らかなハナの指先が、ここまでずっと平衡を保ってきたピーノの感情の天秤を揺らしてしまった。
美しい褐色の肌をした彼女の手の甲へぽたり、と涙が落ちる。
《え、ちょっと、やめてよ。何であんたが泣くのよ。ねえエリオ──》
すぐ横のエリオへと振り向いたハナだったが、さらに驚く羽目となる。
彼がピーノ以上にぼろぼろと泣いていたからだ。
恥ずかしそうに両手で涙を拭い、それからエリオは吐息がかかってしまうほどの近い距離で真正面からハナの目を見据えて言った。
《ハナ、おれは君に誓う。おれのすべてを懸けて君を護り抜くよ、必ず》
短く、しかし決然としたエリオの意志表明だった。




