001 手交書類と私設事務官
「ミア、これを手交で頼む」
ミア、と名前を呼ばれるたびに、ずっと曖昧だった自分の輪郭がはっきりしていくような気がする。
自分の核となるもののひとつが名前だ、そう教わったばかりのころはピンとこなかったのに、いまではその意味も理解できる。
「場所はわかるか」
ライネスブラウ氏から受け取った封筒の上には、青いインクでしたためたような宛先が宙に浮かんでいる。それはライネスブラウ氏のかっちりと整った筆跡に間違いなく、術式にも筆跡は反映されるのだな、と見るたびに思う。
「はい」
覚えた宛先を何度か頭の中で繰り返してから、浮かび上がっていた文字を指先でなぞるように取り込む。青い魔力が指先にすっと吸い込まれて消えた。
次に、受け取った書類をA4サイズほどの大きさの耐魔力ケースに入れて手のひらを翳して施錠する。
よし、今日こそは! と意気込んで顔を上げると、呆れたような諦めたような視線とかち合った。
上官であるライネスブラウ氏に視線を下げて顎を引くだけの礼をする。軍所属ではあるものの私設事務官は軍人ではないので敬礼はしない。礼は会釈のような僅かな動作で、視線を下げると同時にくっと顎を引いてすっと戻す。メリハリをつけないとだらしなく見えるので、鏡を見ながら何度も練習した。
「行ってまいります」
「ああ、気を付けて」
声にまで呆れが混じっている。最初の頃は驚きと叱咤だったことを思えば随分と柔らかくなったものだ。
執務室のドアを開け、振り返って再度一礼し、ドアを閉めようと視線を上げると、見送るライネスブラウ氏は最後まで複雑な表情のままだった。
ドアを閉めると同時に、様々な防御紋が浮かび上がって空気に溶けた。何度見てもライネスブラウ氏の魔力は美しい。
「やはり手交書類か」
執務室の前室には、副官のミルトさんが詰めている。
「席を外します」
機密文書である手交書類は相手に直接手渡しする必要があり、宛先も機密となるため配達にまつわる一切を口外することは禁じられている。手交書類を上官から預かったことはおろか、どこに行くか、いつ戻るかなど、些細なことであっても手掛かりになるようなことは口にしない。
ミルトさんが口を閉ざすわたしを満足そうに眺めている。初めの頃はうっかり反応してしまったものだ。ミルトさんの声にはうっかりを誘発するなにかがあるような気がする。
手にしたままの耐魔力ケースに引っかからないよう気をつけながら、足元まですっぽりと隠れる専用のマントを羽織る。胸元には国章と隊章、それにライネスブラウ氏の個人徽章がついている。そのうちの国章以外をフラップで隠し、フードを深く被る。
「気を付けて行ってこい。迷ったらではなく迷いそうなら連絡を入れること」
こうもしつこく念をを押されるのは過去に何度も迷っているせいだ。
城内は広大なうえに迷路のごとく入り組んでいるため、勤務歴が浅いと迷ってしまう。しかもそこかしこに侵入者対策が施されており、それに気を取られているとさらに迷子率が上がる。
国の主要機関が集中する城塞内は本当に広い。
国王が住まう宮を除いても、関係各所様々な建物や塔が立ち並び、端から端まで歩くとなれば、直線距離だとしてもゆうに一時間はかかる。もしかしたらそれ以上か。
軍の関係施設は警備の都合上、王城中に散らばっているため、ライネスブラウ氏の事務官になってから足腰が鍛えられた。
城内の大廊下を歩いている人はそれほど多くない。同じようにフードを深く被った手交書類の配達者か設備維持者、それと警備の軍人くらいだ。
通常各部署への移動や書類などの送付は移送ケージやボックスを使用する。徒歩だとしてもせいぜい部署内の小廊下を行き来する程度だ。
機密情報は魔力干渉による漏洩を防ぐために人力が基本だ。配達は徒歩か騎馬、もしくは荷馬車に限る。宛先が城内ならまだいい方で、部署によっては城外や王都外に出ることもあるため、馬に乗れないと悲惨だ。
目的地付近までは回廊のような造りの大廊下を進む。ここまでは迷わないのだ。そこから防犯円をくぐって各建物内の中廊下に入る。その途端、侵入者対策として幻影措置が取られているため迷いやすい。意識を集中して迷わないよう慎重に進む。いくつもの識別円をくぐって各部署内の小廊下に入る。
宛名の人物が所属する部署に到着すると、隊章を隠していたフラップを上げる。着用しているマントが配達員専用だったり、何度も識別円をくぐり抜けてきたこともあって、特に誰何されることもない。
忙しそうに立ち働く人々の合間を縫って、宛名の人物の執務室に到着する。前室で個人識別を行い入室すると、その奥にある執務室の扉の前に立つ。
そこでようやくフードとライネスブラウ氏の徽章を明らかにして、扉をノックする。
返信がなければ移送ケージで一足飛びに戻れるが、今回は返信があるため再び徒歩で戻る。
――よくもまあ、サフィルスの三番目の側仕えなどできるものだ。うっかり触れられて跡形もなく消し飛ばされぬよう、せいぜい用心しておくことだ。
退室間際に投げかけられた嘲りは、一語一句漏らさず、あの貴族らしからぬ下卑た表情もろとも全部ミルトさんに報告してやる。
「あっ……」
しまった。怒りに任せて歩いたせいでまた迷った。今日こそは迷わず戻るつもりだったのに。
立ち止まり、一度深呼吸してから指先に意識を集中する。ライネスブラウ氏の魔力が彼の元まで導いてくれる。
岐路に立つたびに指先が反応する。いくつかの識別円を抜け、防犯円をくぐり、あっけなく大廊下に出た。必死に足を動かして軍本部にたどり着いた。更に防犯円を抜けていくつもの識別円をくぐり、ようやくライネスブラウ氏の執務室に戻ってきた。
前室の扉をノックしてから認証円に手のひらをかざす。解錠されたドアがひとりでに開いていくのは、この部屋の使用者として登録されているからだ。
「ミアです。戻りました」
立ち止まる時間も惜しい。歩きながらマントを脱ごうとして手放すことのできない耐魔力ケースが引っかかる。
「ああ、もう」
小さく悪態をつきながらなんとかマントを脱いで、笑いをこらえているミルトさんを横目に執務室の扉をノックする。
「ミアです。ただいま戻りました」
ライネスブラウ氏の識別円に全身が包まれると、すべての防御紋が解除されて扉が開く。
「失礼します」
一礼して室内に足を踏み入れ、ライネスブラウ氏の執務机の前に立ち、再度一礼する。
「返書でございます」
耐魔力ケースを解錠し、手交書類を差し出す。
「また迷ったな」
書類を受け取るライネスブラウ氏の目が笑っている。
彼の魔力を指先にまとわせて行ったのだから、迷子になったことは筒抜けだ。
GPSのようなもので便利だと思うのに、ライネスブラウ氏はわたしが彼の魔力をまとうことをよしとしない。わたしのためにならないから、と無表情で言われて悲しくなった。
それでも、使ってはいけないわけではないと聞いて、積極的に使うようにしている。なにせ便利で、いざというときも安心だ。
「申し訳ございません」
きっとまた面白がられている。
「いい加減慣れろ」
書類に視線を落とすライネスブラウ氏の表情は読めない。
「お言葉ですが、慣れていいことだとは思いません。むしろぶっ飛ばさなかっただけありがたいと思ってほしいくらいです」
ライネスブラウ氏の悪口に慣れる日が来るとは思えない。わたしが知る誰よりも穏やかで思いやりのある人なのに、なにも知らない人に悪く言われて黙っていられるほど人格者でもなければ薄情者でもない。
「なぜ君はそう好戦的なんだ。弱いくせに」
「弱くてもやり返さないといつまでも舐められたままだからです」
ライネスブラウ氏が顔を上げた。青い瞳がほんの少し濃くなっている。
「ミアは面白いな」
「その一言で片付けるの、いい加減やめてもらえますか」
いつもそうだ。二十八歳と二十一歳の年の差は子供扱いするに十分だとでもいうのか。それとも、記憶を失くしたわたしの後見人だからか。
わたしは、三ヶ月ほど前にライネスブラウ氏に保護され、いまも豪邸を通り越して宮殿のような彼の家に住まわせてもらっている。
「今日の夕飯、こっそりお肉抜いてやる」
口の中で悪態をつきながら「失礼します」と一礼して扉に向かう。
愚痴の相手はミルトさんに限る。彼とは出会った瞬間から妙に気が合うのだ。
ドアの前で振り返って一礼しようとしたら、ライネスブラウ氏が声を殺して笑っていた。
〈笑うなら声を出して笑え!〉
ドアを閉めようとしたところでくぐもった笑い声も聞こえてきた。いつか見てろ、と思いながらドアを閉めると、青の魔力が煌めいた。
本当に美しくて余計に腹が立つ。
「聞いてください!」
振り向きざまミルトさんに泣きつくと、ミルトさんまでが声を殺して笑っていた。
「こういういかにもな卑しい顔で――」
意気込んでその時の様子を再現しようとしたところで前室のドアがノックされた。識別円が解除通知を表示する。
小さく息をついて表情を改め、丁寧にドアを開ける。
「手交書類をお持ちしました」
先程自分も同じセリフを言ったな、と思いながらドアから一歩下がる。
室内を見渡した配達者は、ミルトさんに目を留めたあと、彼の執務机の前に進んでフードを被ったまま書類を差し出した。
「私宛ですか」
ミルトさんの突き放すような低い声に、配達者はまごつきながら今度はわたしに差し出した。私設事務官に手交書類が届くことはない。
「手交書類ですよね」
怒りを押し殺して念を押すと、フードの頭が上下に揺れた。本当に腹が立つ。
「わたしも同行します。それでよろしいですか」
フードの頭がビクッと震えた。俯いたまま戦慄いている。わたしもミルトさんも手は貸さない。機密文章だ。これ以上は譲歩できない。
しばらくしてから配達員の頭が更にうなだれるように上下に揺れた。
〈礼儀も知らなければ仕事ひとつまともにできないならクビになってしまえ!〉
配達員が退室すると同時に頭の中で思いっきり罵倒した。
「悪態が思いっきり伝わってくるぞ」
「伝わってもいいと思って怒りを発散しました」
どうせ伝わるのはミルトさんとライネスブラウ氏だけで、ライネスブラウ氏は厳重に守られた扉の向こうだ。わたしはいまミルトさんにしか伝えていない。……はずだ。
「頭の中に響くほどの、どでかい怒りってことか」
ミルトさんがこれみよがしに顔をしかめて眉間をもんでいる。魔力耐性が高いミルトさんはこの程度でダメージを受けることはない。
「当然です。手交書類ですよ。他人を介したら規律違反だってわかっていてあれですよ。その片棒を担がされるわたしの身にもなってください」
〈さっさとやめてしまえー〉
「君はどうして弱いくせにそう好戦的なんだ」
採用時の体力測定の結果が事務官の中でもダントツの最下位だった。
「それ、さっきライネスさんにも言われました。弱者こそやり返さないと舐められたままだからですよ」
「年頃の娘の言うセリフじゃないな」
「都合のいい時だけ年頃の娘にしないでください。普段子供扱いのくせに」
わたしの文句に、ミルトさんが面白そうに目を細めた。
わたしは他人が苦手だ。可能な限り極力関わらないよう生きてきた。
ところがどういうわけか、ライネスブラウ氏とミルトさんは平気なのだ。自分でも驚くほど彼らとは気負いなく接することができる。
彼らは彼らで、わたしが文句を言えば言うほど面白がる傾向にある。子供が拗ねたり駄々をこねるのを微笑ましく見ている大人の顔だ。彼らはどんなときでも好意的で、初めはなにか裏があるのではないかと疑ったほどだ。
なんの含みもない純粋な好意を知らずに生きてきたせいで、裏がないとわかってからもどう接していいのかわからなかった。
「で、なんでさっきライネスに笑われていたんだ。あれが声を上げて笑うなんて珍しい」
くくっと漏れただけで声を上げて笑ったわけではないと思うが、ライネスブラウ氏にとってはそれでも珍しいことだ。
「多分ですけど、夕食はお肉抜きだって言ったのが聞こえたみたいです。聞こえないように言ったつもりだったのに。最初は声を殺して笑っていたので、なんだか無性に腹が立って、笑うなら声出して笑えって、つい頭の中で叫んでしまったのが……」
ミルトさんの面白がるような表情にむっとする。彼らにだけは素直に感情をさらけ出せる。
「伝わってしまったというわけか。君は本当に面白い」
誰よりも子供扱いしているのはミルトさんだ。それでいて、誰よりも愚痴を聞いてくれて、怒りを発散させてくれる。ライネスブラウ氏よりも年上らしいが、正確な年齢は聞いていない。ライネスブラウ氏の年齢も本人からではなく、赤の他人から一方的に知らされたものだ。
ミルトさんの推薦でライネスブラウ氏の私設事務官になってからというもの、行く先々で衆目を集め、助言という名の誹謗中傷を聞かされる。正直、お給料に釣られたことを後悔したくらいだ。
「俺の肉は抜くなよ」
「冗談を本気にしないでください。軍人はタンパク質摂らないと」
そもそも、アンナさんはにこやかに笑うだけで取り合ってくれないだろう。
「ミアのその妙な知識はどこからくるんだろうな」
魔力以外は人体の構造が同じなら、タンパク質が筋肉を作る栄養素だということは広く知られていたことだ。
わたしは身元不明者だ。発見時は記憶も失っていた。
発見者であるライネスブラウ氏に保護されたあと、魔力干渉によって自分に関すること以外の記憶を取り戻したわたしは、自分自身も持ちうる魔力に関する具体的な記憶がないことに戸惑った。
わたしの記憶では、魔法はあくまでもフィクションだった。
すべての原動力である魔力――それとは別のエネルギー源や、魔術とは似て非なるテクノロジーの記憶があり、それらはここで生活する上で特に支障ないほど似通っている。
魔力に関する記憶がないと同時に、魔物に関する記憶もなかった。
魔物とは、原因はいまだ解明されていないものの、なにかしらの理由で変質した魔素を取り込んでしまった動植物が毒性を帯びたり、魔物化すると考えられている。
しかも、わたしの記憶では恐竜は太古に絶滅したはずなのに、ここでは現在でも生存している。恐竜が魔物化すると災害級に周辺一帯が破壊されるため、討伐のために軍隊が派遣される。
その対魔物討伐隊を率いているのがライネスブラウ氏だ。




