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英霊の花嫁  作者: 原田修明
9/12

比島

わたくしはずっと衣のうの中にいたので、夫の旅路がどういうものだったかはわかりません。

ただ、ゆらりゆらりと揺れていた日がずいぶん長かったので、船旅だったのでしょう。

わたくしが久しぶりに太陽の光を浴びたとき、そこは百里の家とは似ても似つかない簡素な部屋でした。


有働(うどう)中尉、貴様が同部屋か。心強いな」


「お久しぶりです、立花(たちばな)教官」


机の上に置かれたわたくしの目にとびこんできたのは、有働というにきびづらの若者でした。

どうやら夫の教え子だったようです。

ちなみに夫の名字は立花でした。


「どうですか、フィリッピンは暖かいでしょう」


「まったくだな。日本じゃ松が取れたばかりだ。ところで、こっちの戦況はどうなんだ?」


「ずっと東のニューギニアじゃあ、反攻されてるみたいですね。でもこっちはまだまだですよ」


「そうか……敵が来ないうちに、腕の錆を落とさないといけないな」


「立花教官が腕を磨いたら、たまったもんじゃないですね」


 有働中尉の言葉に、夫は苦笑しました。


「そんなに大したもんじゃない。それに有働中尉、俺はもう教官じゃないぞ」


 わたくしは、夫が「僕」ではなく「俺」と言うのに驚きました。

どうやら、海軍では「俺」と言わなくてはいけないようでした。


「はっ、立花大尉殿……ところで、その人形はどうしたんですか?」


有働中尉が、暑苦しい顔をわたくしに近づけてきました。

正直、動けるものなら顔を逸らしたいところでした。


「ああ、娘の餞別だよ」


「へえ……何歳なんですか?」


「今年3歳になる」

「一番かわいい時ですね」


 夫は、甘いものを含んだような顔で、優しく笑いました。


「何歳だって、一番かわいいさ」


わたくしの大好きな、夫の顔でした。


「娘さんの話、夜に聞かせてくださいよ。宴会用意してますから」


有働中尉は一升瓶を取り出すと、にっと笑いました。


日が暮れて、夫の部屋には10人ほどの士官が集まりました。

全員が夫と同じ戦闘機乗りでした。

夫が最先任のようで、みんなは夫に敬語を使っていました。


「有働学生! 空でエンストなんかさせたら、点検用のハンマーでひっぱたくからな」


「勘弁してくださいよ」


酔った男たちがどっと笑いました。

百里の家で飲んでいた時とは違って、夫はとても楽しそうでした。


家では穏やかだった夫も、教官としては厳しかったようです。


わたくしは窓から見ているだけでしたが、フィリッピンでの夫は朝から晩まで、時には深夜まで激しい訓練をしていました。

ゼロ戦と言う戦闘機に乗って、急上昇をしたかと思えば急降下をしたり、あるいは空のかなたまで飛んで一日中帰ってこなかったり、駆け足をしたり懸垂をしたりといろいろなことをしていました。


時間ができたときに、日本にいる姑や美代や恵子ちゃんに手紙を書いていました。


「けいこちゃんへ。おげんきですか。おかあさまやおばあさまのいうことをきいていいこにしていますか。おとうさまはまいにちひこうきにのって、おそらをとんでいます……」


恵子ちゃん宛てにカナで書いているときには、気づいていないのか口に出していて、有働中尉が必死で笑いをこらえていました。


4月に連合艦隊司令長官の山本五十六大将の乗った飛行機が撃墜されるという大事件がありましたが、フィリッピンでの昭和18年は比較的穏やかだったと思います。


夫の任地がフィリッピンだったのは、わたくしの力だったのかもしれません。

夫の鬱屈を払うことができて、敵も来ないフィリッピンにいたのは幸いでした。


とはいえ、ニューギニアやその周辺の島々では、連合国軍が上陸したという話ばかりで、不気味な足音はだんだん大きくなってきていました。


年が明けて昭和19年4月のことでした。


「立花大尉殿、噂なんですが……パラオが大空襲を受けたらしいですよ」


「パラオだと? 目と鼻の先じゃないか」


「2月にクエゼリンもブラウン環礁も()ちたって噂がありましたし、どうなるんですかね」


夫は、深刻な顔の有働中尉を叱咤しました。


「もう学生だったときのことを忘れたか。俺が一番よく言っていたことはなんだった?」


有働中尉は、昔に戻ったかのように、視線をきょろきょろさせて考えていました。


「任務に帰れ……ですか」


夫は、大きくうなずきました。


「そうだ。大局を判断するのは俺たちの仕事じゃない。勝つための作戦を遂行するのが、俺たちの任務だ。俺たちの任務はなんだ」


「基地防空……ですね。今のところは」


「俺たちは任務を果たすことだけ考えていればいい。それぞれの持ち場で使命を完遂すること、それが大日本帝国の勝ちにつながる」


「懐かしいですね。『任務に帰れ』か……それしかないですね」


有働中尉は口を引き締めて頷きました。


そう口にしたものの、「破滅」は単語でも比喩でもなく、近い将来の現実として、夫も有働中尉も感じているようでした。


それから3か月経った7月、すでに消灯時間を過ぎた居室で、夫と有働中尉は椅子に座って向かい合っていました。


「自分は、熱望しますよ」


有働中尉は、真剣な顔で息を大きく吸いました。


「特別攻撃隊」


ふたりの間に、痺れるような沈黙が満ちていました。


「そうか……」


夫はひとこと、絞り出すようにつぶやきました。


「自分はもう両親も兄弟もいませんからね、海軍に養ってもらったようなもんです。本望ですよ」


有働中尉の声に気負いはなく、本当にそう考えているようでした。


「もう米軍は目と鼻の先だ。本部の作戦参謀の話では、レイテ湾に空母機動部隊を入れられたら終わりらしい。とは言え、爆弾を抱えて突っこめというのは、戦術をバカにしているにもほどがある」


夫が苦々しく吐きだしました。


わたくしは飛び上がりそうになりました。

なぜ夫らにそんなひどいことをさせるのでしょう。


「立花大尉殿、自分、出来は良くなかったですけど、これでいいんだと思います」


「なぜだ」


「頭のいいお偉いさんが、普通の戦術じゃ勝てないから、勝てる方法を考え出したんじゃないんですか」


「ならば、もう俺は教官失格だ。普通の戦術しか知らん」


夫は吐き捨てるように言いました。


「立花大尉殿は、勝って帰らなくちゃあいけません。恵子ちゃんにその人形、返さなきゃいけないじゃないですか」


有働中尉は立ち上がると、自分のハンモックを吊りました。


「じゃあ、お先に休みます」


夫は頷きました。

有働中尉はすぐにいびきをかき始め、それを待っていたかのように夫は机の上に紙を広げました。


それは、特別攻撃隊の希望調査でした。

『熱望する』『希望する』『希望しない』のみっつから、どれかひとつを選ぶようになっていました。


夫は怒ったような顔で、長い間紙を見つめていました。


窓の外の月の位置が、随分変わるほどの時間が経った後、夫はわたくしに眼をやり、つぶやきました。


「ごめんな、恵子」


夫の眼には、諦めと安堵、そして固い意志が浮かんでいました。


鉛筆が、しゃっと音をたてて紙の上を走りました。


「熱望する」の上に、勢いよく丸がつけられていました。


わたくしの力は、夫の意志を変えることはできませんでした。


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