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狂女王フアナ〜我、女王〜  作者: ところがどっこい
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誇り

修道院の一室で1人


その時からフアナの時間は止まってしまった。1555年4月12日、フアナは日の沈まぬ大王国スペインの君主とは思えぬほど質素な部屋で最期を迎えた。枕元にいたのは再び未亡人となっていた娘レオノールと数人の侍女のみだった。彼女は娘の顔を見て「我が夫フェリペはそれはそれは見目麗しい男でした」と言い、力無く微笑んだ。そして目を大きく見開いて言った


「王は我のみ」


レオノールは父への執着を拭えなかった母・女王としてのプライドだけで生きてきた母の姿をやや引き気味になって見ていた。思えば物心着いた時から母は異様だった。父は女を取っ替え引っ替えし続け、母代わりとなってくれた叔母も母のヒステリーにはお手上げだった。スペインへ帰国した後の両親の事は分からない。ポルトガルへ嫁ぐ前と、フランスに再嫁する前ですら自分の意思で母に会いに行く事は無かった。会っても話す事など殆ど無かった。そして再びスペインへ帰国した後、母の最期を看取る事になった。

レオノールは母と空虚な時間を過ごす内に、この間逃げるようにポルトガルへ戻った娘の事を考えた。息子は産んで直ぐに亡くなり、娘マリアはポルトガルの王族として残った。そしてヴィゼヴ女公マリアとして未婚のままポルトガルにいる。

自分と同じように母無しで育った娘は、母に会っても何の感慨も感じない。それどころか早く離れたいとさえ感じているのだろう。

皮肉な事である。




その母は、娘の引き気味な姿勢に気付いてか気付かないでか、目を瞑り息を大きく吸って大きく吐いたまま動かなくなった。その顔には幾重にも彫られた皺と不気味な笑みが浮かんでいた。


フアナは最後まで夫への狂気なまでの愛と女王としての誇りを抱えたまま75歳の生涯を閉じた。


彼女は生涯を通して自分の子どもの事には興味が無かったように思われるが、一応その後の事を紹介しておこう。


1530年、カルロスの宿敵フランス国王フランソワ1世とフアナの長女レオノールが再婚した。歳が近く伴侶を亡くした者同士で丁度良いというが、実に体の良い人質交換であった。スペインにはフランスから2人の王子が来た。2人のうち1人は若死にし、もう1人は後に国王アンリ2世となる。


女誑しの国王フランソワや実権を握る気が強い王母ルイーズとの宮廷生活が幸せでは無かった事は言わずとも分かるだろう。ルイーズにとって新しい嫁エレオノールは宿敵である元義妹マルグリットの姪であり、息子を戦で負かし監禁した憎きスペイン国王カルロス1世の姉なのだ。


夫国王フランソワ1世の死後、彼女はスペインに帰国して母フアナを看取った。ポルトガルに残した一人娘マリア(ヴィゼヴ女公)とスペインで生活する事を望んだが、此方の母娘のすれ違いも解消されなかったようだ。


結局国王フランソワ1世と王妃エレオノールの間には子ができなかったが、双方の人質の存在は一応両国間の架け橋となったようだ。



フアナの長男カルロスは王妃イサベル・デ・ポルトゥガルとの間に夭逝したフェルナンド王子を含めて4人の子を儲けた。


一番上の子はフェリペ

後のスペイン国王フェリペ2世


父方祖父でフアナの亡夫カスティーリャ共治王フェリペ1世に因んだ名前。

フアナにとっては待望の嫡孫であるはずだったが、この名前故に朗報が届いた時の心境は何とも複雑だった事だろう。



二番目の子はマリア

後の神聖ローマ皇后マリア・フォン・シュパーニエン


母方祖母でフアナの妹ポルトガル王妃マリア・デ・アラゴンに因んだ名前。


三番目の子はフアナと同名

後のポルトガル王太子妃ジョアナ・デ・アウストリア、ポルトガル国王セバスチャン2世の母だ。


カルロスとイサベルは二重結婚の末に出来た夫婦だが、仲睦まじかった。

だがイサベルは五番目の子を出産中に命を落とした。

死産した末の産褥死だった。


デンマーク=ノルウェー国王クリスチャン2世に嫁した次女イサベル(王妃エリサベト)は、残忍な夫とその愛人デュヴェケとその一族の存在に悩まされ、3人の子を儲けるも結婚生活は幸せなものとは言えなかった。愛人が謎の死を遂げると夫の狂気は誰の手にも負えなくなってしまった。王妃エリサベトはヨーロッパ各地を廻る兄カルロス(カール)に助けを求める手紙を出したが、結局不幸な状況が変わる事は無かった。


ストックホルムの血浴事件を契機に叔父を擁したクーデターによって王位を追われて亡命していた国王クリスチャン2世と王妃エリサベトは育ての親マルガレーテを頼ってネーデルラントへ戻った。

王妃の意地ゆえに離婚・再婚話やデンマークへの帰国話を蹴って夫国王と行動を共にしていたが、日々の暮らしの苦しさからプロテスタントに傾き、子どもへの影響を危惧した叔母によって子どもと引き離されて失意の内に28歳の生涯を閉じた。


一人目の子はハンス

デンマーク国王の伝統的な名前を付けられた王子はクーデターで幼くして王太子の地位を追われ、結局デンマーク=ノルウェー王位を継承する事なく、15歳の若さで亡くなった。


二人目の子はドロテア

後のプファルツ選帝侯妃ドロテア・フォン・ダンマーク・ウント・ノルウェゲン

兄ハンスの死後から亡くなるまでデンマーク王位請求者だった。夫婦に子はなかった。


三人目の子はクリスティーヌ

始めミラノ公妃クリスティーナ

夫の死後に同じく離別や死別(処刑又は死産)で寡となっていたイングランド国王ヘンリー8世からの求婚を断り、後に四番目のイングランド王妃となるアン・オブ・クレーヴズの元婚約者ロレーヌ公フランソワ1世と再婚。

ロレーヌ公妃クリスティーヌとなった。


ウィーン二重結婚で結ばれた2組


次男フェルナンド(フェルディナント)は愛妻アンナ・ヤギェロとの間に13人の子を儲けた。さらに義弟ラヨシュ2世の戦死を受けてハンガリー=ボヘミア王位を継承、夫婦で戴冠した。さらに兄カルロス(神聖ローマ皇帝カール5世)の退位を受けて神聖ローマ皇位・オーストリア大公位を継承、以降皇帝の位はフェルディナントの子孫が継ぐ事になる。フェルディナントの家系は女帝マリア・テレジアまでオーストリア・ハプスブルク家として繁栄した。


三女マリアは夫国王ラヨシュ2世が対オスマン=トルコ戦で戦死。子を儲ける事なく未亡人となった。ブルゴーニュに帰国した後、叔母マルガレーテの後を継ぎ、ネーデルラント総督として兄弟の仲を取り持った。姉イサベル(デンマーク王妃エリサベト)の遺児を養育したのも彼女だ。


四女カタリナはスペイン・ポルトガル間の二重結婚の結果、兄カルロスが従姉妹イサベル・デ・ポルトゥガルを妻に迎える前年にポルトガル国王ジョアン3世へ嫁いだ。夫国王ジョアン3世との間に9人の子どもを儲けたが、成人したのは2人だけだった。2人の子ども・夫国王ジョアン3世に先立たれた彼女は残された孫国王セバスチャン1世の養育と摂政としての政務に励み、孫の奇行に悩みながらこの世を去った。


スペイン・ポルトガルは関係を親密なものにするため、再び二重結婚をする事になった。

2人の子どもはスペインのいとこと結婚した。


一人はマリア=マヌエラ

いとこのスペイン王太子フェリペに嫁いだ(後の国王フェリペ2世)。夫婦仲は極めて良く、一子カルロスを儲けるも産褥死。息子カルロスはフェリペに疎まれ続け、成人こそしたものの若死にした。即位後のフェリペは父の従妹マリア(イングランド女王メアリー1世)、息子カルロスの婚約者イサベル・デ・バロイス、息子カルロスの元婚約者で姪に当たるアナ・デ・アウストリアと再婚するが、それはまだまだ先の話だ。


もう一人はジョアン=マヌエル

ジョアナ・デ・アウストリアを妃に迎えたが、若くして病死。一人息子セバスチャンは彼の死後に生まれた。産後ジョアナはスペインへ帰国した。セバスチャンの養育は母カタリナに委ねられ、カタリナの死後に親政を行った血気盛んなセバスチャンは結婚しないままアフリカで戦死し、ポルトガル王家の血筋は断絶した。スペインに帰国したジョアナは後に2度目の結婚でイングランドへ嫁いだ兄フェリペ2世の摂政となるが、それはまだ先の話だ。


近世ヨーロッパ

君主たちはどの様な形であれ、君主としての誇りを持って生きてきた。

その誇りは時として狂気の人間を作る事がある。

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