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血統 ー蹄の記憶ー  作者: あいまいもこ
スーパーカー

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6_それでも勝ち続ける

空気が、違った。

中山競馬場。 1976年12月12日。


「朝日杯3歳ステークス」


関東の3歳王者を決めるレース。

その言葉の重みを、中野渡清一は嫌というほど分かっていた。


だが――


その“王者”という言葉が、どこか遠く感じていた。


前走。府中。


あの、ハナ差。


勝った。確かに勝った。

だが、あれは勝利じゃない。


――取りこぼしかけた。


その事実だけが、頭に残っていた。


「……」


手綱を握る指に、わずかに力が入る。

あの一戦で、すべてが変わった。


自分の中で。

周囲の空気で。


そして何より――


あの馬の見え方が。


――


調教。今までと違うことが一つだけあった。


「行け」


短い指示。

そして、初めて一杯に追った。


鞭が入る。


それでも、まだ余裕がある。


もう一度。


さらに伸びる。


限界が、見えない。


止めたとき、初めて理解した。

――今まで、何も出していなかった。

その事実が、背筋を冷やした。


――


レース前。


調教師――本郷が言う。


「壊れてもいいから行ってみろ」


一瞬、言葉の意味を測る。

壊れてもいい。

それは命令じゃない。


覚悟だ。


「責任は俺が持つ」


その一言で、逃げ場は消えた。

中野渡清一は、何も言わずに頷いた。


――出し切る。


それだけだ。


――


パドック。


歓声は、もう疑いを含んでいない。

期待だけがある。


「あれが一番強い」


誰もが、そう思っている。

だが、その強さがどこまでかは、誰も知らない。

まだ、見せていないからだ。


――


ゲート。


静かだ。


いつも通り。


いや――


いつも以上に、無駄がない。


スタート。


出る。


先頭へ。


迷いはない。


抑えない。


そのまま行く。


ペースは速い。


だが、関係ない。

この馬の中では、それが“普通”だからだ。


後ろの気配が遠ざかる。


誰も来ない。


来られない。


コーナー。


脚色は変わらない。


むしろ、余裕がある。


――まだだ。


直線。


一瞬だけ、横を見る。


ヒシスピード。


いる。


だが――


並んではいない。


「……行け」


小さく呟く。


合図を送る。


その瞬間だった。


景色が、変わる。


一段、上がる。


いや――


“解放された”。


そんな感覚。


一気に突き放す。


差が開く。


一馬身。二馬身。三馬身――


止まらない。


止められない。


いや、違う。


止める理由がない。


観客の声が、悲鳴に変わる。


「離れすぎだろ……!」


誰かが叫ぶ。


だが、もう届かない。


完全に、別のレースになっている。


ゴール。


振り返る。


遠い。


あまりにも、遠い。


13馬身。


2秒以上。


数字が現実感を失う。


――


歓声。


今度は、違った。


疑いはない。


ただ一つの結論。


――強い。


誰もが、それを認めていた。


中野渡清一は、何も言えなかった。


分かってしまったからだ。


あの府中の一戦は、何だったのか。


ミス。


ただ、それだけだ。


この馬は――


「こんなもんじゃない」


思わず、口に出る。


――


検量室。


静まり返っている。


誰もが理解している。


見てはいけないものを見たような、そんな空気。


本郷が近づく。


「どうだった」


短い問い。


答えは一つしかない。


「……出ました」


それだけで十分だった。


全部、出した。


その結果が、これだ。


本郷は、わずかに頷く。


それ以上、何も言わない。


――言う必要がない。


――


外に出る。


観客の熱はまだ残っている。


だが、その熱の中に、別の色が混じっていた。


「これ、ダービーはどうなるんだ……?」


誰かの声。


その一言で、空気が止まる。


ダービー。


誰もが思う。


この馬が出たら、どうなる。


勝つのか。


どれだけ差をつけるのか。


――だが。


中野渡清一は、足を止めた。


その言葉に。


ゆっくりと、顔を上げる。


何も言わない。


言えない。


分かっているからだ。


この馬は――


出られない。


持ち込み馬。


その一言で、すべてが閉ざされる。


さっきまでの圧倒的な勝利。


あの13馬身。


あの2秒。


そのすべてが、意味を失う。


――いや。


意味はある。


だが、“届かない”。


一番行くべき場所に、届かない。


「……」


言葉が出ない。


歓声が遠くなる。


さっきまで、あれほど近くにあったのに。


「もし出たら――」


誰かが言いかけて、止まる。


その続きを、誰も言わない。


言えない。


現実だからだ。


中野渡清一は、ゆっくりと歩き出した。


振り返らない。


振り返ると、何かを認めてしまいそうだった。


あの走り。


あの差。


あの圧倒。


それでも――


届かない場所がある。

その事実だけが、胸に残った。


「……なんでだ」


小さく、呟く。


答えはない。


ただ一つ、はっきりしている。

今日、証明されたのは強さじゃない。

――届かないという現実だった。

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