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血統 ー蹄の記憶ー  作者: あいまいもこ
スーパーカー

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5_油断

ざわめきは、もう小さくなかった。


名前を呼ばれる。

姿を探される。

それが当たり前になっていた。


1976年11月21日、東京競馬場――府中。


「府中3歳ステークス」


パドックを歩くマルゼンスキーを、観客ははっきりと“主役”として見ていた。


「今日もどんな勝ち方するかだな」


そんな声が聞こえる。


もう、勝つかどうかではない。


どう勝つか。


それだけが関心だった。


――


だが、その日。

一頭だけ、違う視線を向けられている馬がいた。


北海道3歳ステークスの勝ち馬。

ヒシスピード。


「相手になるなら、あれか」


そんな評価。


だが、それでもなお、中心は揺らがない。


――マルゼンスキーが負けるとは、誰も思っていなかった。


騎手である中野渡清一でさえも。


――


地下馬道。


「今日はどうする」


調教師の問い。


短い沈黙のあと、答える。


「……待ちます」


「何をだ」


「来るのを」


自分でも、少し言い方がおかしいと思った。


だが、他に表現がなかった。


来るはずだ。

来るなら、その時でいい。


それまで、無理をする必要はない。


「……油断するなよ」


「分かってます」


そう答えながらも、心のどこかで思っていた。


――負けるはずがない。


――


スタート。


出はいい。


いつも通り、前へ行ける。


だが、行かない。


少し抑える。


後ろを感じる。


脚音がある。気配がある。


それでいい。


――来させればいい。


コーナーを回る。


位置は悪くない。


むしろ余裕がある。


「まだだ」


自分に言い聞かせる。


直線。


前にスペースがある。


出せば離せる。


だが――出さない。


「来い」


そう思った瞬間だった。


外から、一気に影が伸びてくる。


速い。


想定より、速い。


並ばれる。


いや――


並ばれた。


「……っ!」


一瞬、思考が止まる。


こんな形になるはずじゃない。


余裕を持って、突き放すはずだった。


だが、現実は違った。


隣にいる。


完全に、並んでいる。


ヒシスピード。


「くそ……!」


初めて、焦りが出る。


追う。


強く、追う。


だが、その瞬間。


違和感。


反応が、遅い。


――いや、違う。


“戸惑っている”。


今まで一度も経験していない状況。


並ばれて、追われる。


そのすべてに、馬自身が驚いている。


「行け!」


声が出る。


もう余裕はない。


残りは、わずか。


並んだまま、ゴールへ向かう。


歓声が、爆発する。


それは初めての“競馬の歓声”だった。


どちらが勝つか分からない。


純粋な、勝負の音。


――


ゴール。


分からない。


本当に、分からなかった。


息を整える暇もなく、引き返す。


「どっちだ」


誰かが言う。


「写真だ」


静寂。


さっきまでの熱狂が、嘘のように消える。


結果を待つ時間が、やけに長い。


中野渡清一は、手綱を握ったまま、何も考えられなかった。


いや、考えたくなかった。


――もし負けていたら。


その考えだけが、頭を離れない。


「降ろされるかもしれない」


その一言が、何度もよぎる。


――


結果。


ハナ差。


わずかに、前。


勝った。


だが――


歓声は、どこか違っていた。


安堵と、驚きと、そして疑問。


「今の……」


「危なかったな」


誰もが同じことを思っている。


――本当に強いのか?


――


検量室。


馬を降りる。


足が少し、震えていた。


自分のものか、馬のものか、分からない。


調教師が来る。


何も言わない。


その沈黙が、何より重い。


先に口を開いた。


「……僕のミスです」


顔を上げる。


逃げ場はない。


「あれは、僕の騎乗ミスです」


はっきりと言う。


「どう乗っても勝てると思って、楽に勝とうとして……抑えました」


言葉が続く。


止まらない。


「そしたら、機嫌を損ねて、折り合いを欠いて」


一度、息を吸う。


「今まで、ビッシリ追ったことがない馬だったんです」


視線を落とす。


「並ばれて追い出したら、馬も……面食らってました」


そして、小さく付け加える。


「でも」


喉が乾く。


「俺の方が……馬以上に慌ててました」


調教師は、何も言わない。


それが逆に、痛い。


「負けたら、次は乗せてもらえないと思って……」


そこまで言って、言葉が止まる。


言いたくなかった本音が、出てしまった。


静寂。


長い沈黙のあと――


「……分かってる」


短く、それだけ。


だが、その一言で、すべてが決まった気がした。


――


外に出る。


観客はまだざわついている。


だが、その空気は、今までとは明らかに違っていた。


絶対ではない。


負けるかもしれない。


そう思ってしまった。


その事実が、空気を変えていた。


中野渡清一は、振り返らなかった。


ただ一つ、はっきりしたことがある。


――この馬は、無敵じゃない。


そしてもう一つ。


――無敵だと思っていたのは、自分だ。


冷たい風が吹いていた。


その感触だけが、やけに現実だった。

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