30_65キロと1億円
宝塚記念を目標に、タケシバオーは関西に留め置かれていた。
西下してからの調教は順調であった。春の天皇賞を勝ったばかりの馬である。陣営としては、ここでもう一つ勲章を積み上げておきたいところであったろう。
しかし、馬というものは人の思うようには動かぬ。
ある日、熱を出した。
たいした病ではない。だが競走馬にとって発熱は、しばしばすべてを狂わせる。
宝塚記念は回避となった。
休ませれば治る。だが、失われた日程は戻らない。
結局、復帰戦は夏のオープン特別――ジュライステークスとなった。
競馬というものは、時として理不尽である。
強い馬ほど重いものを背負わされる。
それがハンデキャップという制度であった。
ところが、このレースでタケシバオーに課された斤量は、常識を越えていた。
六十五キログラム。
次に重い馬より八キログラムも重い。
理不尽とも思えるが、当時のハンデ戦というものは、強い馬には容赦がない。
それでも出走させたのは、陣営がこの馬の力を信じていたからであろう。
しかし、いささか、やり過ぎではないか。
関係者の多くがそう思った。
なにしろ次に重い馬との差が八キログラムもある。
だが、出走は決まった。
春の大目標であった宝塚記念は、発熱によって断念している。
ここで一度走らせておきたいという事情もあった。
当日、空は低く垂れ込めていた。
前夜から降り続いた雨は芝を柔らかくし、コースは不良。
踏み込めば泥が跳ねる。
こういう馬場では、軽い馬が有利である。
まして六十五キロ。
誰がどう考えても不利だった。
鞍上の古山良司も、それは承知していた。
パドックでタケシバオーの背に鞍を置いたとき、
「まあ、今日は無事に回ってくれればいい」
そんな気持ちが、心のどこかにあった。
スタートが切られた。
しかしタケシバオーは出ない。
重い斤量のせいか、脚がもたつく。
気がつけば、後方である。
前では各馬が泥を跳ね上げながら先を争っている。
その背中を遠くに見ながら、タケシバオーはゆっくりと進んでいた。
向正面。
位置取りは変わらない。
古山は思った。
――今日は、だめだな。
重い斤量。
重い馬場。
そして後方。
競馬というものは、ここまで条件が揃えばまず覆らない。
だが、この馬は時々、人間の計算を裏切る。
最後の直線に入った。
そのときである。
タケシバオーの体が、ふっと軽くなったように見えた。
古山の手の中で、手応えが変わる。
一完歩ごとに、前との差が詰まる。
泥の上を走っているはずなのに、脚色がまるで違う。
前にいた馬たちが、急に遅く見えた。
「おい……」
古山は思わず声を漏らした。
外へ出す。
そこからは、ただ伸びた。
一頭、また一頭と交わしていく。
先頭にはスイートフラッグ。
しかしその差も、みるみる縮む。
ゴール板が近づく。
並ぶ。
わずかに出る。
写真判定になるほどの僅差――
だが、鼻先はタケシバオーが前にあった。
アタマ差。
それだけで、勝ってしまった。
観客席がざわめいた。
六十五キロ。
不良馬場。
後方からの差し切り。
常識では説明がつかない。
古山はしばらく馬上で首を振っていた。
この馬には、派手な勝ち方がいくつもある。
レコード勝ちもある。
大差勝ちもある。
だが後年、彼はこう言っている。
「いちばん強いと思ったのは、あのジュライステークスでした」
勝ち方ではない。
勝てないはずの条件で、勝ってしまう。
それが本当の強さなのだと、
そのとき古山は思い知ったのである。
⸻
夏の戦いを終えたタケシバオーは、しばらく休養に入った。
陣営の視線は、すでに海の向こうにあった。
アメリカで行われる国際競走――
ワシントンD.C.インターナショナル。
前年にも挑戦したその大舞台へ、もう一度送り出す。
そのための秋初戦が、東京の古馬重賞、毎日王冠であった。
もっとも、ここでも条件は楽ではない。
課された斤量は六十二キログラム。
当時の日本競馬では、名馬に与えられる典型的な重荷である。
レースが始まった。
タケシバオーは例によって、後方にいた。
向正面へ入っても、位置取りは最後方のままである。
観客の目には、あまり勝ち気のある姿には映らなかった。
だが、この馬には時として、奇妙な瞬間が訪れる。
直線に入った途端である。
それまで静かだった黒鹿毛の巨体が、急に躍動し始めた。
一頭、また一頭と前を行く馬を呑み込んでいく。
脚色がまるで違う。
先行していた馬たちは、追われても伸びない。
その外を、タケシバオーだけが悠然と伸びてくる。
ゴール前では、もはや勝負は決していた。
二着馬に三馬身半差。
重い斤量を背負いながらの完勝であった。
この勝利によって、タケシバオーの通算獲得賞金は
一億四百六十万円に達する。
それまで日本競馬において、賞金が一億円を越えた馬は存在しなかった。
史上初のことである。
翌日の新聞は、競馬欄だけでは足りなかった。
一般紙の紙面にまで、その名が躍る。
――「一億円馬タケシバオー」
それは単なる数字ではない。
戦後日本の競馬が、ようやく世界の舞台を意識し始めた時代の象徴でもあったのである。




