6.伯爵夫人は日向で破滅の花を咲かせる
「ベロニカ様。少々、よろしいでしょうか」
長男が部屋を訪ねてきたのは一週間後のことだった。
その顔は蒼白で、目尻は赤い。
最悪の精神状態が顔に出ているというのに、ヴィルヘルミーナ同様の繊細な容貌はいつも以上に輝いて見えた。
「なにかしら。家督でも譲りに……」
刺繍に没頭していたベロニカは、突然訪れた長男を見ても何の警戒心も抱かなかった。
彼が竜ですら葬れるほど強力な魔法を使えることは知っている。
でも、ベロニカの知る彼はいつまでも「彼女の愛を求めてやまない哀れな子供」であり、虐げられる対象だった。
けれど、彼女の言葉は途中で止まった。
長男の腕にはベロニカが今この世界で何よりも大切にしている息子、ディートフリートが抱えられていたからだ。
その上、細い首には魔法で作られた氷の刃が当てられていた。
「ディートフリートを放して!」
憎しみの対象である女の子供が自分の大切な子に触れているだけでなく、その命をも脅かしている。
どうせ演技だろうが、自分の息子を脅しの道具に使われていること自体がベロニカにとっては耐えがたいほど不愉快だった。
鋭い声で言い放ったベロニカを一瞥して、長男が口を開いた。
「では、代わりにエミールの名誉を回復させてください」
その声からは感情がすっかり抜け落ちていた。
本来なら、ベロニカはそれに気が付いてもっと警戒すべきだったのだろう。
でも、昔のように「少し声を荒げれば怯えて何でも言うことを聞く子供」としか長男を見ていなかったベロニカはそれを聞いても恐怖など感じることが出来なかった。
「なんですって?」
「彼の無実を公表して、彼をきちんと葬らせてください。
それが弟を解放する条件です」
斬首されたエミールは首を晒され、身体は平民たちによって引き裂かれていた。
罪人の血を付けたハンカチを持っているとお守りとして厄を払ってくれるという言い伝えが、平民の間で信じられているからだ。
晒されているうちにカラスにでも啄まれたのか、首もすでになくなっている。
墓を作ることなど許されていないから、エミールの痕跡は今やどこにも存在しなかった。
「今更「あれは冤罪だった」なんて公表しろと言うの?」
「ええ、お願いします」
菫色の瞳は幼いころと変わらず一途で、ヴィルヘルミーナ同様に強い意思を秘めていた。
だからかもしれない。すっかり頭に血が上ったベロニカの口から、決定的な言葉がこぼれたのは。
「ふざけないで! あんな愚かな男の名誉なんて、今更どうでもいいでしょう?!
そんなことの為に、私のかわいいディートフリートの命を危険にさらしたの!?」
「……愚か? エミールが?」
表情の抜け落ちた顔で、ヴィルヘルミーナが残した子供が呟いた。
「平民が貴族に逆らって、その名を穢したのよ。殺されても当然でしょう?
魔法が使えない平民なんて、どれだけ能力が高くとも替えの利く道具同然だもの。
それを分かっていてあなたのような役立たずを庇ったのだから、愚かにもほどがあるわ。
愚か者は死んで当然よ。
それをいつまでも引きずった挙句、ディートフリートまで巻き込むなんて非常識にもほどがあるわ!」
自分の言動が論理的かどうかなんて、ベロニカにはどうでもよかった。
ただ、このヴィルヘルミーナの血を引く子供から自分の子供を解放したかった。
それも命の危険を察知したからではない。ただ、不愉快だったからだ。
だから、このやり取りを静かに見つめていた我が子に視線を移して問いかけた。
「ねえ、ディートフリートもそう思うでしょう?」
「うん。エミールは馬鹿だね」
周囲の期待に応えるのが得意なディートフリートは、ベロニカの期待通り頷いて笑った。
普段から母に言われた通り虐げていた兄がその言動をどのように感じるか、考えもしなかった。
彼にとって、兄は常に穏やかで自分が何をしても怒らない存在だったからだ。
「いい子ね、ディートフリート」
自分の思った通りに答えた息子を見て、ベロニカは笑った。
ヴィルヘルミーナの息子がこの光景を見てどれほど絶望するか、心を躍らせていた。
彼女にとって、長男はいくら踏みにじっても決して抵抗しない存在だったからだ。
「……そう、ですか」
まだ義母の良心を信じていた長男は、ただ微かに笑った。
そして、その膨大な魔力のうちほんの一部を氷の刃に変えて弟の首を掻き切った。
彼にとって、血が半分繋がった弟も生まれた時から傍にいた義母も、もうどうでもいい存在だったから。
「……ディートフリート?」
ベロニカは最初、何が起きたのか全く理解できなかった。
先ほどまで確かに動き、笑っていた最愛の息子が突然物言わぬ肉塊に形を変えたのだ。
クリーム色のドレスが真っ赤に汚れるのも厭わずに息子を奪い取ってその身体を揺さぶり、名前を呼び、頬を軽く叩く。
それからようやく目の前で起きた出来事を理解して、悲鳴を上げた。
「ディートフリート! ディー! 返事をして、お願い!」
「ベロニカ様。ドレスが汚れますよ」
「ドレスですって?!」
淡々とした助言を聞いて、ベロニカの頭に血が上った。
「そんなことどうだっていいわ! あなたには情がないの?!」
「情はあります。だから殺しました」
「何を言って……」
「いつまでも死ねずに苦しむのは、かわいそうですから」
静かに微笑んだ長男が手を軽く振ると、ベロニカの周囲に無数の氷の刃が生み出された。
一つ一つは小さなそれらが、魔法で発生させられた風によって渦を巻く。
シャンデリアの光を受けてきらきらと輝く氷の刃はとても美しかったが、中心にいるベロニカにそれを楽しむ余裕はなかった。
亡き夫の為に丁寧に手入れをしてきたきめ細かな肌が容赦なく裂かれ、血が飛び散る。
魔法障壁を張って防ごうとするも、氷の刃はあっさりと障壁を貫通して破壊した。
二人の間には絶対的な魔力の差があるのだから、当然だ。
全身を刻まれれば普通は痛みと失血で失神しそうなものだが、ベロニカの意識ははっきりとしている。
それが皮膚だけを裂くように調整された繊細な魔力操作と、意識を保たせる覚醒の魔法によるものだと気が付けるだけの余裕は彼女にはなかった。
「ひ、人殺し……よくも、ディーを……」
「どうして怒るのですか?」
息も絶え絶えに睨みつけるベロニカを、長男は不思議そうに見下ろした。
「魔法が使えない平民は、どれだけ能力が高くとも替えの利く道具同然なのでしょう。
貴族であってもわずかな魔力しかもたず、魔法の使えない弟も同じではないのですか?」
その言葉は、ベロニカがもっとも言われたくない言葉だった。
かわいい息子の存在意義を否定されて喜ぶ母がどこにいるだろう。
「ち、ちがう……ディーは違うわ!
だって、あの子は貴族よ。魔力があるもの!」
勉強も運動も人並み以上にこなせたディートフリートだが、魔力と魔法の才能だけはほぼなかった。
長男が二歳で使いこなし、普通の子供も五歳ほどで使えるようになる鎮静の魔法をいまだに発動すらできないほどに。
でも、ディートフリートは平民ではない。
だって、平民にはない魔力があるから。その身には間違いなく伯爵と子爵令嬢の血が流れているから。
子供の為に否定の声を上げるベロニカを眺めて、長男は静かに目を細めた。
「そうですか。でも、そんなことはもうどうだっていいでしょう
エミールも弟も、もう戻っては来ないのですから」
唐突に止んだ氷の嵐に一瞬喜んだベロニカだったが、長男の言葉にはっと息を呑んだ。
大切に抱えていたはずの「ディートフリート」を見下ろして、絶望に満ちた声を漏らす。
「あ、あぁ……」
そこにあったのは、ベロニカと共に氷の刃に切り刻まれた肉塊だった。
皮膚をずたずたに裂かれたせいで、もはや愛らしい息子の面影は一切ない。
わずかに残った服だけがそれがかつて彼女の息子だったことを示していた。
「……どうして」
愛した夫と自分の血を引く唯一の子供を失ったことに、深い絶望と怒りがこみ上げる。
その感情に突き動かされるがまま、ベロニカは叫んだ。
「どうしてディーを殺したの?! あの子に罪はないじゃない!
私に復讐したいなら、私にすればいいでしょう?!
こんな陰湿なやり方……あの子には未来があったのに!」
失血と怒りに突き動かされるベロニカの主張はとても正しいものだった。
これまで彼女がしてきたことを考えなければ。
「エミールを殺された時の私も、同じことを思いましたよ」
静かだが確かな怒りが込められたその声を聞いた時、ベロニカはようやく理解した。
目の前の男はもう、自分の愛を求めて縋ってきた弱い子供ではないのだと。
「……ゆ、許して」
全身を襲う強い痛みと息子を失った深い悲しみ。長男になら何をしても大丈夫だという根拠の喪失。
もう、これまでのように強気には出られなかった。
震える声で許しを請うベロニカを、冷ややかな光を宿した菫色の瞳がじっと見下ろした。
ベロニカはそれに急かされるように口を動かし、言葉を発する。
「あ、あなたの言った通り、エミールの名誉を回復させるわ。
あれが冤罪だったと公表して、私はどこか遠い屋敷で静かに暮らすつもりよ。
もうあなたの邪魔はしないから、許して」
ベロニカは必死だった。
平民とはいえ冤罪で処刑させたことが知られれば自分や実家の名に傷がつくことは分かっている。
でも、今はそんなことにこだわっていられない。まだ四十にもなっていないのに、死にたくなどない。
死と先ほど与えられた痛みへの恐怖が、彼女の思考を鈍らせていた。
なかなか返事をしない長男に焦りを募らせて、彼女はさらに言葉を重ねた。
「本当よ! 今度こそ、嘘なんてつかないわ。
それに、こんなことをしてエミールが傷つくとは思わないの?」
「……エミールが」
やはり、今は亡き親友を引き合いに出されては無視できないらしい。
心を動かされた様子の長男に希望を見出し、ベロニカは今まで彼に掛けたことがないような優しい声でつづけた。
「ええ、そうよ。エミールはあなたに手を汚してほしくないから逃亡を断ったのでしょう?
家族を……弟だけでなく母親まで手に掛けたなんて知ったら、彼は悲しむわ。
だから、ね。もうやめましょう。
大切な親友を失ったあなたとおなじように、私も愛しい我が子を失ったのよ。
もう十分傷ついたし、反省もしたわ。だから、どうか許して」
「……そう、ですね」
懇願するベロニカを無表情で見つめていた長男が、そう言って微笑んだ。
穏やかな笑みを浮かべた彼にベロニカもようやく胸を撫で下ろす。
ああ、よかった。自分は許されたのだ。早くここを出て、治療をしなければ――。
「エミールが生きていれば、きっと悲しんだでしょうね。
死んでしまった彼はもう、悲しむことさえできませんが」
紡がれた言葉の意味を理解するより前に、彼女の声帯は深く切り裂かれていた。
刻まれた喉から、声にならない悲鳴が空気と共に漏れる。
文字通り血を吐いてのたうつベロニカを見下ろして、長男は静かに告げた。
「エミールの名誉は私が必ず回復させます。
ですから、ベロニカ様はなにもなさらなくて構いません。
ただ、ここで死んでくださるだけで結構です」
違う。違う。違う! 私が死んでしまったら、意味がない!
死にたくない。まだ生きたい。
どうか――神様。
助けを乞おうにも、喉を裂かれたベロニカの口からは血の泡しか出てこない。
喉以外に深手を負わされることなく、再開した氷の嵐によってベロニカの全身は均等に少しずつ削り取られていった。
喉の傷は窒息しないぎりぎりの深さで留められているため、致命傷にはならない。
彼女に許されているのは、全身の血を失うまで嬲られることだけだった。
殺して。お願いだから、殺して。
やがて生命の存続から死への渇望にその望みが変わっても、ベロニカの願いは何一つかなうことはなかった。
お気に入りのクリーム色のドレスは真っ赤に染まり、視界は既に黒一色に塗りつぶされている。
長男の虚ろな笑い声といつ解放されるかもわからない耐え難い激痛だけが、ベロニカに残された世界だった。
ああ、自分は神に愛されてなどいなかったのだ。
彼女がそれを悟ったのは、死を迎える直前だった。