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黄昏を恋う (短編集)  作者: 新熾イブ
15/15

それが僕の初恋でした



「夢見が悪くなりそうだからやめてくれない?」


 私の身体が屋上の柵を乗り越えたその瞬間、背後からバリトンが響いた。


 フェンス越しに振り返るとそこでは、ミルクティー色のカーディガンを緩く羽織った男子生徒が、冷めた目をしながら焼きそばパンを囓っていた。



 ***



 他人が生きようが死のうがどうでも良い。殺人事件のニュースで心が痛む程優しくはないし、追悼番組を指差して笑う程オカシクもない。


「……けど、流石に目の前で死なれるのはなあ」


 先客の僕に気づかず屋上のフェンスをよじ登っている女子生徒の背中を眺めた。わざわざそんな苦労をしなくても、死ぬ方法なら他にも山ほどあると思うけど。まあ、電車に飛び込んで遅延の原因を作るよりは遥かにマシか。


 僕がツナサンドを食べ終わる頃、ようやく彼女はフェンスを越えて向こう側のコンクリートに降り立った。彼女の長い黒髪が風に靡く。


 別に彼女が死のうと生きようと、僕は心底どうでも良いんだけれど。


「夢見が悪くなりそうだからやめてくれない?」


 声をかけたのは気まぐれだ。もちろん、告げた言葉も嘘ではないが。


 目の前で人が死ぬのは流石に良い気はしない。それにこのまま彼女が死んで、万が一僕に余計な疑いが掛かろうものなら、鬱陶しくて堪らない。


 宙へ一歩踏み出そうとしていた彼女が、驚いたように此方を向く。二重の瞳と形の整った唇。なかなか可愛い子だった。


 重たい腰をあげて、食べかけの焼きそばパンを持ったままフェンスに近づく。


「びっくりした。悪いけど、嫌なら少し出ていてくれない? 5分……いえ、3分で良いから」


「食事中だし。だいたい僕の方が先客だったんだけど」


「……そう。ごめんなさい。それならあなたが出ていくまで待つわ」


 少しの会話で、彼女は随分あっさりと引き下がった。それ以上の会話をする気はないのか、彼女はふいっと僕から視線をそらす。


「素直だね」


「人にトラウマを植え付ける趣味はないもの。私を止める気がないのならそれで良いわ」


 僕に視線を戻すことなく肩を竦めて、彼女が詰まらなそうに軽く笑った。他人に興味が無さそうなあたり、なんとなく同類のような気がする。


 そのまま動く気配がないところを見ると、どうやら本当に待ってくれるらしい。が、特にすることがないのか、右手をフェンスに添えたままじっと此方を見つめている。


 見つめられたところで沈黙や視線に気不味さを感じるような繊細な人間ではないけど、こうも見つめられると気が滅入るんだけど。


「食べる? 不味いけど」


 購買で買った焼きそばパンは焼きそばが少ない。ほとんどただのコッペパンだ。喉に詰まる。


 安っぽい焼きそばパンを掲げてみせると、僅かに驚いたようにそれをじっと見つめていた彼女は力が抜けたように、吐息に似た笑みを漏らした。


「……じゃ、もらおっかな。朝から何も食べてないの」


 欲しいと言う割りにこちら側に戻るつもりはないようなので、仕方なく一度袋に戻してからフェンスの上に放り投げた。若干袋の中で紅ショウガが踊っていたのはご愛敬だ。


「食べかけでごめんね」


「平気。ありがとう」


「ん」


 メロンパンの袋をべりっと開ける。メロンパンは断固として神戸屋派だ。


 僕に背を向けてフェンスに寄り掛かった彼女が、焼きそばパンの端を小さな口で控えめに囓る。ゆっくりと咀嚼して、飲み込んで、彼女の細い喉がこくりと動いた。


「僕がこれ食べ終わるまで、話くらいなら聞いてやっても良いよ」


 顔だけで振り返った彼女は意外そうに僕を見たが、不味い焼きそばパンを引き取ってくれたお礼だ。特に深い意味はない。


「話したくないなら良いよ。これ食べたら出ていくから、どうぞごゆっくり」


 呆然と僕を見る彼女を横目に、目の前のメロンパンにかぶりついた。神戸屋のメロンパンはしなっとしていてそこが良い。



「……じゃあ、聞いてもらおうかな」


 ゆっくりと体をこちらに向けた彼女が僕に目を合わせる。よく見たら瞳の色が灰色だ。緩やかに細めた瞳は、ほのかに胡乱な光をたたえていた。


「義理の父親にね……毎日のように犯されるの。お母さんが死んだ3年前から、今日までずっと」


「ふーん。クズだね」


「……ふふっ、ほんとにね」


 メロンパンを囓りながら相槌を打つと、彼女は少しだけ楽しそうに笑った。中心にたっぷりと入ったホイップが甘ったるい。


「義父は……彼奴は大手企業の役員で、あちこちに顔が広くてね。一度交番に助けを求めたこともあったけれど、彼奴が名刺を見せたとたん、取り合ってくれなくなった」


 涼やかな声で、彼女は酷く滔々と語った。重い過去を、まるで他人事のように無感情で。


「はっ、クズだらけだね」


「でも、警察のことは恨んでないわ。恨むだけの人生なんて虚しかったから、呪うのは彼奴だけって決めたの」


 僕に向けてみせた緩やかな微笑みには、義父への憎悪の色が色濃く滲んでいた。


「ふーん」


 名前も知らない他人に同情するほど優しくはない。だから僕は、彼女のことをつよいとも甘いとも思わない。



「毎日、毎日……彼奴の吐き出した毒が、緩やかに私の中に溜まっていくの」


 僕から視線を外してぞんざいに笑う、彼女の声は震えていた。


「だから死ぬの?」


「端的に言えば、そうね。これは復讐なのよ。私を毒を吐き出す為の道具にした彼奴を苦しめてやるの」


「そんなクズが、アンタが死ぬくらいで後悔する?」


 別段、自殺を思い止まらせようなどと思って告げたわけではない。ただ純粋な疑問だった。


「直球ね」


 彼女がくすりと笑って、ブレザーの内ポケットへ手を這わせた。ゆっくりと取り出したのは、この場所にはとうてい似合わない、淡い桜色が映える封筒。


「それは?」


「今までのことを全て書き記した遺書よ。この手紙と同じ内容のものを、いくつかの新聞社にも送ったわ。これを残して私が死ねば、さすがに握り潰すことは出来ないでしょう」


 メロンパンを食べ終えて、食後のカフェオレをぐびりと飲む。今日は無糖の珈琲にしておけば良かったと少し後悔した。


「大した罪に問われなくても良い。ただ彼奴のしていたことが世間に知れて、一生その十字架を背負って苦しめば良い」


「なるほど。命を賭けたレジスタンス、ってわけね」


 僕の呟きに、彼女は微笑むだけで答えなかった。


 焼きそばパンの最後の欠片をゆっくりと飲み込んで、彼女が包装袋を丁寧に折り畳んでブレザーのポケットに仕舞う。



「話を聞いてくれてありがとう。来世では、あなたみたいな人になりたいわ」



 口許にそっと笑みが滲んで、彼女の右手がフェンスを放す。


 屋上の縁に足の指先を揃えて、彼女は青すぎる空を仰いだ。



「――ざまあみろ」



 呪いの言葉と復讐の瞳。


 彼女の身体が堕ちていく。


 星のような笑みを残して、奈落のようなにおいと共に。



「……僕が出ていくまでは待つって言ったくせに。嘘つきかよ」


 誰も居なくなった屋上に、僕の声だけが響く。

 空になったメロンパンの袋を、片手でぐしゃりと握り潰した。


「僕が悪夢を見たらアンタのせいだ」



 堕ちていく細い身体と、冬星のように光った微笑み。



 その一瞬に魅せられた、なんて。


 彼女に告げたら、彼女は何と言うだろう。



 『話を聞いてくれてありがとう』


 記憶の中の彼女が微笑う。



 ――間違いなく、それは僕の初恋だった。




 叶うはずのない初恋。

 (なんて不毛で、馬鹿らしい。)




  【Fin】






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