第78話 湯気の中で、次の声を待つ
温泉郷へ着いたのは、夕方だった。
空はまだ完全には暗くなっていない。
けれど陽はかなり傾いていて、湖面に落ちる光も昼のそれよりやわらかい。
王都から戻ってきた馬車が温泉郷へ入った瞬間、ゼノはようやく肺の奥の力が抜けるのを感じた。
湯気がある。
木の匂いがある。
道の端で子どもが笑っている。
遠くで誰かが桶を鳴らす音もする。
王都の綺麗さは、いつも少し疲れる。
だが、温泉郷のぼやけた景色は、何だかんだで身体に馴染む。
「着いたにゃ……」
ミュラが最初に言った。
「ほんと。帰ってきた……」
リーシャが小さく息を吐く。
「王都もすごかったけど、やっぱこっちが落ち着くね」
ミルファが言うと、ナディアが肩を鳴らした。
「そりゃそうだ。ずっと王都にいろって言われたら息が詰まる」
エレナも、ようやく少しだけ肩の力を抜いた顔をしていた。
リィナは静かに目を細め、セレスは荷馬車の揺れから解放された身体を小さく伸ばしている。
イグニスだけは相変わらず半眼だったが、王都にいる時よりほんの少しだけ空気がゆるい。
気づいているのはゼノくらいかもしれないが。
エマは、馬車を降りたあとも少し固まっていた。
「……ほんとに温泉ある」
ぽつりと言う。
「あります」
ゼノが答える。
「湯気すご……」
「慣れますよ」
「慣れたくないような、慣れたいような……」
まだ完全に場違いな顔をしている。
けれど、王都で拾った時の尖りきった目ではなくなっていた。
ロイドがすぐに迎えに来た。
「戻ったか」
「はい」
ゼノが答える。
「顔で分かる。疲れてるな」
「顔に出てますか?」
「出てるぞ」
笑いながら、ロイドの視線がエマへ滑る。
「で、それは何だ」
エマがむっとした顔になる。
ゼノは少しだけ笑った。
「拾い物です」
「またか」
ロイドは呆れたように言う。
「王都まで行って何を増やしてるんだ」
「今回は歌です」
その一言で、ロイドの目が少しだけ変わる。
「……そういう拾い方か」
「そういう拾い方です」
そのあと、荷を解く前に、全員で温泉湖の店へ寄ることにした。
もう今日は何も決めない。
何も始めない。
まずは、帰ってきた身体に飯を入れる方が先だ。
温泉湖のほとりの店は、夕方の客でほどよく賑わっていた。
王都の料理店みたいに格式ばってはいない。
湯気と出汁の匂いがあるだけで、それだけでもう十分だった。
「うわ……これこれ」
ミルファが席につくなり言う。
「やっとちゃんとしたごはんって感じ!」
「王都でも食っただろ」
ナディアが呆れる。
「食べたけど、なんか違ったの!」
「分かるにゃ」
ミュラがすぐに乗る。
「こっちは、落ち着く味にゃ」
その表現に、ダリオが吹き出した。
「何だそれ」
「でも分かる」
ボルグが真顔で言う。
「お前は全部それで片づけるな」
カイルスが笑う。
料理が来ると、さすがにみんな口数が減った。
疲れているのだ。
温かい汁物が身体に入った瞬間に、それがよく分かる。
エマも最初は遠慮していたが、一口食べたあとで完全に黙った。
夢中とまではいかないが、余計なことを考えずに食べている顔になった。
ゼノはそれを見て、少しだけ安心する。
今日はここまででいい。
王都公演は終わった。
レオニスとの話も通した。
エマも連れ帰った。
だから今夜だけは、先へ進まなくてもいい。
《視聴者数:1,446,812》
〈コメント:この流れの方が自然だ〉
〈コメント:帰ってすぐ温泉湖の店、最高〉
〈コメント:エマもちゃんと温泉郷の飯食べてるのいい〉
《エモーシア:帰る場所って大事ね》
《ルヴェリア:今日は休ませなさい》
《フィクサル:走り続けるだけが前進じゃない》
食事のあと、ゼノは全員を見回した。
「明日は休みにしましょう」
その一言で、かなりはっきり空気が変わった。
「ほんと!?」
ミルファが食い気味に言う。
「はい」
ゼノは頷く。
「王都帰りで、皆さんかなり疲れているので」
「珍しくまともなこと言うな」
ダリオが言う。
「だいたいいつもまともです」
「どの口が」
ナディアが言った。
エレナは小さく息を吐いた。
「助かります。正直、今日はもう頭が回らないので」
「私もです」
リーシャも続く。
リィナとセレスは口には出さなかったが、どちらも休むことに異論はない顔だった。
イグニスも何も言わない。つまり賛成だ。
「エマは」
ゼノが言う。
「ミラベルと同じ、集合館の空いている部屋を使ってください」
エマが顔を上げる。
「……あたしも?」
「はい」
ゼノは答える。
「もう拾ったので」
「言い方」
エマが言う。
「他に適切な表現がないので」
「あるでしょ、たぶん」
ミュラが笑った。
「大丈夫にゃ。集合館ならごはんもあるし、お風呂も近いにゃ」
「お風呂……」
エマが少しだけ顔をしかめる。
「嫌ですか」
リィナが聞く。
「嫌っていうか、落ち着かない」
「慣れます」
セレスが静かに言った。
「最初は誰でもそうです」
王都の裏で盗みをしていた子に、温泉郷の集合館はだいぶ落ち着かないのだろう。
でも、だからこそ早めに入れてしまった方がいい。
その夜、エマはミラベルたちと同じ集合館の空き部屋に入った。
エレナが最低限のことを説明し、ミュラが勝手に布を抱えてきて、ミルファが「眠れなかったら話しかけていいよ!」とうるさくし、セレスに黙らされていた。
エマは完全に戸惑っていたが、逃げる顔ではなかった。
――
そのあと、ゼノは一人で温泉へ向かった。
夜の湯気は昼より濃い。
湯の表面に灯りが揺れている。
王都の夜の光とは違う。
こっちの光は、ちゃんと身体をほどくためにある。
湯へ浸かった瞬間、思っていた以上に疲れていたことが分かった。
「……っ」
声にならない息が漏れる。
王都。
公演。
勇者。
レオニス。
エマ。
新しい歌い手。
ミラベルのこれから。
頭の中にあるものが多すぎて、逆に輪郭がぼやけかけていた。
だからこういう時は、湯に沈めるのが一番早い。
目を閉じる。
エマを拾った。
だが、エマ一人を見て何かを決めるのは違う。
あの声は強い。
けれど、エマを中心に全部を組んだら、たぶん悪くなる。
「……人、増やす、か」
湯気の中で、ゼノは小さく呟いた。
その時だった。
《視聴者数:1,452,284》
〈コメント:きた〉
〈コメント:今夜は温泉か〉
〈コメント:考え事の前のリフレッシュ〉
《フィクサル:何から始めるか分かったか》
《ラグゼル:町の前に音楽を太くしろ》
《ルヴェリア:一人見つけたくらいで満足するな》
《エモーシア:エマだけを中心にしたら、あの子も潰れる》
《リュケオン:もっと面白くなるぞ。集めろ》
ゼノは薄く目を開けた。
「うるせえな」
《リュケオン:開口一番それ!?》
《ゼノ:聞こえてんだから仕方ないだろ》
《フィクサル:慣れた顔をするな》
《ゼノ:見てるのそっちだろうが》
湯の中で、小さく息を吐く。
「エマは拾った。でも、エマだけで新しい何かを作るのは違うと思ってる」
《ルヴェリア:当然》
《エモーシア:一人に背負わせるのは悪手よ》
《ラグゼル:商売としても細すぎる》
《ノクティア(旋律の神):夜の声は、群れた方が強い時もあるわ》
ノクティアの名が出た瞬間、ゼノの眉が少し動いた。
「お前まで出るのかよ」
《ノクティア:何か文句ある?》
《ゼノ:いや別に。ただ、気まぐれだなと思っただけだ》
《ノクティア:あの子の喉を見たでしょう》
《ゼノ:見た》
《ノクティア:なら分かるはず。あれは一人で立たせるには、まだ若い》
ゼノは黙る。
それは正しい。
エマは強い。
だが、強さだけで一人立ちするにはまだ足りない。
擦れている。
尖っている。
だからこそ、少し違う声たちの中に置いた方が育つ可能性がある。
「じゃあ、広く募集する」
ゼノは言った。
「エマ専用じゃなく、最初から広く」
《フィクサル:そうだ》
《ラグゼル:王都にも撒け》
《ルヴェリア:温泉郷だけで足りると思うな》
《エルディア:近隣村落への伝播も推奨》
《エモーシア:迷ってる子が決める時間も要るわ》
ゼノはそこで、目を細めた。
「……すぐ審査はやらない方がいいか?」
《エモーシア:早すぎると、勢いだけの子しか来ない》
《ルヴェリア:腹をくくる時間をやりなさい》
《ラグゼル:噂が回る時間もいる》
《フィクサル:一カ月だ》
「一カ月」
ゼノが反復する。
《フィクサル:短すぎず、長すぎない》
《リュケオン:その間にミラベルも回るしな》
《ノクティア:募集は普通にしなさい。尖らせすぎると、拾える声まで捨てる》
《ゼノ:……分かってるよ》
そこで、ゼノの頭の中の線が少し変わった。
新しいグループを作る。
それ自体は間違っていない。
だが、最初から“この色だけ”“この声だけ”で狭めるのは違う。
まずは広く集める。
うまい子を拾う。
ミラベルに合うならそっちへ。
別の色なら別で考える。
エマのような声も、明るい声も、伸びる子なら見ていく。
「ミラベルも大きくする」
ゼノがぽつりと言う。
《ルヴェリア:そこを忘れるな》
《エモーシア:新しいものに夢中になって、今ある花を枯らしたら駄目よ》
《ラグゼル:今一番流れを作ってるのは誰だ?》
《ゼノ:ミラベルだよ》
《ラグゼル:なら回せ》
《フィクサル:止めるな》
《リュケオン:週一の音舞殿も、温泉湖も、挨拶の儀も続けろ》
ゼノはそこで、少しだけ笑った。
「最初からそのつもりだよ。勝手に止める前提で話すな」
《フィクサル:なら迷うな》
《ノクティア:別の群れを作るなら、既存の群れを止めずに広げなさい》
《エルディア:方針整理を推奨》
頭の中で、ようやく順番が見えてくる。
一。
ミラベルは今まで通り動かす。
温泉湖の舞台。
週に一度の音舞殿。
挨拶の儀。
共鳴鈴の販売。
二。
王都、温泉郷、近隣の村や町に広く募集を出す。
偏らせない。
新しいグループに拘らない。
うまければ採る。
三。
審査は一カ月後。
噂が走る時間。
迷っている子が腹をくくる時間。
旅の歌い手が辿り着く時間。
四。
その間に、ミラベルはさらに太くする。
「……そうか」
ゼノは小さく言った。
「今は、町の前に歌の数だな」
《ラグゼル:遅い》
《ゼノ:うるせえ》
《リュケオン:でも分かったならいいじゃん》
《エモーシア:人が増えれば、物語も増えるもの》
《フィクサル:その先で町をやれ》
《ルヴェリア:順番を間違えない限り、育つわよ》
ゼノは湯の中で目を閉じた。
王都の外れに町を作る話は、確かに大きい。
でも、その前に歌の側を広げておいた方が強い。
ミラベルがある。
エマが来た。
これから誰かが来る。
人が増える。
流れができる。
その上で、町だ。
「分かったよ」
ゼノは静かに言う。
「先に、人を集める」
《フィクサル:よし》
《ラグゼル:撒け》
《ルヴェリア:育てなさい》
《ノクティア:夜の声も忘れるな》
《エモーシア:甘くしすぎるな。ちゃんと選びなさい》
湯から上がったあと、ゼノは家へ戻った。
夜は深い。
だが、頭の中はかなり整理されていた。
募集の文面の下書きの為に、机に紙を広げる。
王都。
温泉郷。
近隣の村や町。
回す順。
紙を持たせる相手。
酒場に貼るか。
旅商人にも渡すか。
どのくらい広げるか。
文面は、尖らせない。
でも熱は抜かない。
ゼノは炭筆を走らせた。
歌い手募集
王都・温泉郷・近隣の村町を中心に、新たな歌い手を広く募集します。
舞台経験の有無は問いません。
年齢不問。ただし本気で歌う意思のある者。
歌姫団ミラベルを含む今後の歌の場に立つ候補として審査します。
審査は一カ月後、温泉郷にて。
そこで手が止まる。
「……最後だな」
《ラグゼル:置け》
《エモーシア:一つだけ、ちゃんと刺すの》
《ゼノ:分かってる》
ゼノは最後に、一文だけ足した。
声を、埋もれさせるな。
その一文で誰かの心が動くことを期待して。
《視聴者数:1,467,991》
〈コメント:きれいにまとまった〉
〈コメント:一か月後審査いいな〉
〈コメント:神との会話で方向決まるの好き〉
〈コメント:ミラベルを止めないの強い〉
《フィクサル:悪くない》
《ラグゼル:広く撒け》
《ルヴェリア:種は多い方がいい》
《エモーシア:明日、ちゃんと話しなさい》
翌日は、ミラベルの七人も音楽団も、今日は何も背負わなくていい。
王都公演の話をしたり、湯に浸かったり、昼寝したり、それぞれ好きに過ごす。
エマも、完全に馴染んだわけではないが、集合館の廊下を歩くくらいには力が抜けていた。
ミュラが勝手に世話を焼き、ナディアが「甘やかすな」と言い、結局ミュラが押し切っていた。
ゼノはその日はあまり人前に出なかった。
家で紙を広げ、募集の流し方を詰めていた。
どの商人に預けるか。
王都へ何枚回すか。
近くの村へは誰経由が早いか。
酒場に貼る分と、劇場関係へ流す分は分けるか。
王都で拾ったエマ一人で終わらせないためには、広げるしかない。
夕方には、机の上が紙だらけになっていた。
「……一カ月」
独り言が落ちる。
短すぎず、長すぎない。
噂が走る時間。
迷ってる奴が決める時間。
辿り着く時間。
それなら、一カ月だ。
――
次の日の朝、ようやく歌舞殿で練習が再開した。
丸一日休ませたおかげで、ミラベルの七人の顔はだいぶ戻っていた。
王都帰りの疲れも抜けて、むしろ少しだけ鋭くなっている。
エマも端で見ている。
まだ混ざるには早い。
でも、見せておくことは必要だった。
イグニスが鍵盤の前で短く言う。
「王都帰りだからって、変に緩むな」
「はい」
エレナが答える。
「王都で通ったから、こっちでも通ると思うな」
「はい」
今度はセレスも続く。
ミルファがちょっとだけ肩をすくめている。
ナディアはもう顔が本番寄りだ。
リーシャも、休みを挟んだ分だけ少し声が落ち着いていた。
練習が始まる。
ミラベルの声が上がる。
エマはそれを見ている。
ただ眺めているだけではない。
目がもう、盗む側の目に変わっていた。
イグニスもそれに気づいているだろう。
だが今は言わない。
ゼノは途中までその空気を見ていたが、いいところで手を打った。
「少し話があります」
七人と音楽団の視線が集まる。
「まず、ミラベルは今まで通り動きます」
ゼノが言う。
「温泉湖の舞台、週に一度の音舞殿、挨拶の儀、共鳴鈴の販売。全部そのままです」
エレナが頷く。
リィナも静かに目を伏せる。
ミュラは嬉しそうに尻尾を揺らした。
「いつも通りに戻れば良いんですね」
エレナが言う。
「はい」
ゼノは答えた。
「王都で歌えたからこそ、その勢いで親衛隊を増やしましょう」
イグニスが短く足す。
「止めるな。止めると鈍る」
ナディアが小さく笑った。
「だよな」
「二つ目」
ゼノは続ける。
「歌い手を募集します」
ミルファが即座に反応する。
「きた!」
「今回は色々な声を集めます」
ゼノが言う。
「色々な声?」
セレスが聞く。
「王都、温泉郷、近隣の村や町に広く募集します。新しいグループに限定はしません。うまければ採る。ミラベルに合うならそっちも見る。別の色なら別で考える」
場が少し静かになる。
エマが小さく言った。
「……じゃあ、あたし一人じゃないんだ」
「違う」
ゼノははっきり言う。
「お前は最初の一人かもしれない。でも、それで終わりじゃない」
エマは少し黙ったあと、ほんの少しだけ頷いた。
「審査は一カ月後です」
ゼノが言う。
「すぐにはやりません。広く届く時間と、迷ってる子が決める時間が要る」
リィナが頷く。
「その方がいいですね」
「ええ」
ゼノは答えた。
「勢いだけの子より、腹をくくって来る子を見たいので」
ミュラが笑う。
「いっぱい来るといいにゃ」
「きっと来ます」
ゼノは答えた。
「歌いたくても諦めている子もいるので」
そこで一度、歌舞殿の中の空気が少し変わった。
終わりじゃない。
広がるのだ。
ゼノはみんなの顔を見回して、最後に言った。
「ミラベルも、ここからもっと大きくします」
その一言で、エレナの目の奥が少しだけ光った。
セレスも静かに息を吸う。
リーシャは背筋を伸ばし、ミルファはもう笑っていた。
ナディアは当然みたいな顔をし、リィナは静かに頷き、ミュラは嬉しそうに尻尾を揺らす。
エマだけが、その輪の外から、その光景をじっと見ていた。
でもその目は、もう他人事の目ではなかった。
――――
次回
第79話 王都の外れに、最初の地図を引く




