第47話 王族に届いた告知
王都の朝は早い。
まだ陽が高くなりきる前から、石畳の大通りには荷馬車が走り、店先には水が撒かれ、城へ続く道にはきっちりと整えられた足音が響いていた。
地方とは違う。
目が覚めた瞬間から、街そのものが“動く前提”で出来ている。
その王都の一角、城へ仕える者たちが出入りする控えの棟で、一人の男が立ち止まっていた。
昨日、告知板の前で足を止めた使者だった。
手元には、丁寧に写し取った文面がある。
音舞殿特別公演
ミラベル新曲披露
共鳴鈴販売開始
二週間後開催
男は、その紙をもう一度見た。
ただの地方催しなら、わざわざ朝一番に持ってくることもない。
だが、湯楽郷という名。
ゼノという男。
そして――共鳴鈴。
その三つが、引っかかった。
男は軽く息を整え、奥へ進んだ。
――
王族の私的な執務室は、意外なほど飾り気が薄かった。
広さはある。
調度も上等だ。
けれど、威圧のために並べられたような無駄な華やかさはない。
窓から朝の光が差し、長机の上に置かれた書類の端を白く照らしていた。
そこにいたのは、第一王子レオニスだった。
年若い。
だが若さだけでは片付かない落ち着きがある。
以前、湯楽郷に招かれた王族の一人でもある。
向かいには侍従長。
その少し後ろには、劇場や催しを管轄する役人が控えていた。
使者が膝をつき、頭を下げる。
「朝早くより失礼いたします」
「構わない」
殿下は書類から目を上げた。
「何だ」
使者は紙を差し出す。
「昨日、都の告知板にて見かけたものです。
湯楽郷に関する告知でしたので、念のためお持ちしました」
それを聞いた瞬間、殿下の目が少しだけ細くなった。
「湯楽郷」
その一言に、侍従長もわずかに顔を上げる。
殿下が紙を受け取った。
視線が、一行目から順に落ちていく。
音舞殿特別公演
ミラベル新曲披露
共鳴鈴販売開始
そこで、殿下の手が止まった。
「……共鳴鈴」
小さく、そう繰り返す。
劇場役人が、少し首を傾げた。
「地方の楽団による新作公演でしょうか。
湯楽郷は温泉地として面白い場所とは聞いておりますが――」
「違う」
殿下は紙から目を離さないまま言った。
役人が黙る。
「湯楽郷は、ただの温泉地ではない」
朝の光の中で、その声だけが少しだけ温度を持った。
殿下は、紙を机に置いた。
「ゼノのいる場所だ」
その名が出た瞬間、侍従長が静かに目を伏せる。
覚えているのだ。
あの日、湯楽郷から戻ったあと、殿下の機嫌が妙に良かったことを。
護衛たちでさえ、あの場所の話を何度かしていたことを。
劇場役人は、まだ半信半疑の顔をしていた。
「ですが、地方の一催しに過ぎません」
その言葉に、殿下はようやく顔を上げた。
「見誤るな」
静かな声だった。
だが、部屋の空気はそれで十分に変わった。
「地方か王都かは関係ない。
あの男は、無駄なことはしない」
使者は頭を下げたまま、内心で少しだけ安堵していた。
やはり、持ってきて正解だった。
殿下は紙の上の「共鳴鈴販売開始」の文字へ指を置いた。
「音を売るつもりか」
その呟きは、半分は感心で、半分は呆れに近かった。
「……本当にやったのか」
ゼノは以前から、“歌は舞台の上だけに置いておくものではない”という顔をしていた。
その気配はあった。
だが、こうして告知の形になると、話は変わる。
歌を残す。
残した歌を売る。
それを地方の温泉郷が先に始める。
もし本当にそうなら、王都の劇場も、楽団も、商人も、いずれ無視できなくなる。
劇場役人が慎重に口を開いた。
「共鳴鈴、というのは……楽器、でしょうか」
「違う気がします」
侍従長が低く言った。
「売る、とある以上、舞台で使うものではなく、持ち帰らせる類では」
殿下が小さく笑う。
「その発想をするのが、ゼノだ」
その笑い方には、どこか楽しそうな色が混じっていた。
「あの男は、客に一度来させて終わるつもりはない。
次も欲しがらせる。
手元に残したくなる形にする。
そういうことを平然とやる」
劇場役人は、ようやく少し顔色を変えた。
「……そこまで、ですか」
「そこまでだ」
殿下は即答した。
そして、前回の湯楽郷を思い出す。
整えられた導線。
客を飽きさせない工夫。
歌姫たちの見せ方。
あの男の、奇妙なくらい澄んだ判断。
場当たりではない。
思いつきでもない。
最初から、もっと先まで見ていた男の動きだった。
殿下は告知をもう一度読んだ。
「新曲披露、か」
ミラベル。
あの歌姫団のことだろう。
劇場役人が控えめに尋ねる。
「ご興味がおありですか」
「ある」
少しも迷わず、殿下は言った。
「非常に」
そして、そこで終わらない。
殿下はしばらく黙ったまま告知を見ていたが、次に出た言葉は感想ではなかった。
「席はあるか」
劇場役人が瞬きをする。
「は?」
「音舞殿だ」
殿下は、当たり前のように言った。
「今からでも、見られる席は確保できるか」
侍従長が咳払いを一つした。
「殿下。ご自身で向かわれるおつもりですか」
「まだ決めていない」
その言い方が、逆に危ない。
侍従長は表情を変えなかったが、内心ではかなり危機感を覚えていた。
殿下は続ける。
「だが、見に行く価値はある」
「共鳴鈴とやらも、現物を見たい」
劇場役人は完全に黙った。
ここまで来ると、もう“地方の余興”では片付けられない。
使者が慎重に口を開いた。
「現地へ先に人を送りますか」
「送れ」
殿下は即答した。
「席の状況。
公演の段取り。
共鳴鈴の販売方法。
その辺りを見てこい」
侍従長が補足する。
「表立って騒がず、だ。
王都の名を前面に出す必要はない。
護衛と書記をつける」
「はい」
使者は頭を下げた。
そこで、殿下はふと少しだけ笑った。
「だが、あいつなら気づくだろうな」
侍従長も、その言葉には否定しなかった。
気づく。
多分、間違いなく気づく。
それでも、あの男は困った顔をしながら前へ進めるのだろう。
殿下は、机の上の告知を指先で軽く叩いた。
「音を売る」
静かな声だった。
「王都の誰もまだやっていないことを、先に地方でやるか」
その声には、不快感はない。
むしろ、期待の方が強い。
「面白い」
役人が、その一言でさらに顔を引き締める。
殿下が“面白い”と言う時は、大抵何かが動く。
そして、それは往々にして止まらない。
使者が退出しようとした時だった。
「待て」
殿下が声をかける。
使者がすぐに足を止め、振り返って再び頭を下げた。
「は」
殿下は机の上の告知へ、もう一度目を落とす。
「よく持ってきた」
短い一言だった。
だが、使者の背筋がわずかに強張る。
「ただの地方の催しと流さず、ここへ上げた判断は正しい」
殿下は侍従長へ視線を向けた。
「褒美を取らせろ」
侍従長が静かに一礼する。
「かしこまりました」
使者は一瞬、何を言われたのか理解が遅れた。
それでもすぐに膝をつき直す。
「ありがたき幸せにございます」
殿下はそれ以上、恩着せがましいことは言わなかった。
「今後も気づいたことは上げろ」
「はっ」
使者の声は、先ほどより明らかに強かった。
――
同じ頃、王都の別の場所でも、その告知は少しずつ目に留まり始めていた。
劇場街の裏通り。
舞台関係者がよく集まる酒場の前で、一人の男が貼り紙を見上げていた。
年の頃は三十を少し過ぎたくらい。
整った上着。
指先に薄くインクの汚れ。
楽団か、作詞作曲に関わる者らしい。
「ミラベル……」
男は、その名を小さく読み上げた。
それから視線を下へ落とす。
共鳴鈴販売開始
そこで、眉がわずかに動いた。
「何だ、それは」
歌を売る。
音を持ち帰らせる。
ただの地方舞台なら、わざわざそんな言葉は使わない。
男は告知をしばらく見たあと、鼻で笑った。
「……面白そうじゃないか」
その笑いには、侮りも少し、好奇心も少し混ざっていた。
王都というのは、情報が早い街ではない。
だが、一度気づかれたものが広がる速さは、地方とは比べものにならない。
まして、それが“新しい匂い”を持っていればなおさらだ。
――
城へ戻る。
使者が退出したあとも、殿下はしばらく告知の紙を見ていた。
「前回、あの温泉郷へ行った時」
殿下がぽつりと言う。
「はい」
侍従長が応じる。
「ゼノは、妙に急いでいるようで、急いでいなかった」
侍従長は黙って聞く。
「今思えば、あれは先を見ていたんだろうな。
村を広げ、客を受け入れ、歌を育て、残す形まで考えていた」
殿下は目を細めた。
「一度見た時より、今の方が面白い」
侍従長が、わずかに口元を緩める。
「またお会いになるおつもりで」
「なるだろうな」
殿下は、今度ははっきり笑った。
「今度は、ただの客では済まないかもしれないが」
その言葉に、部屋の空気が少し変わる。
侍従長はそれ以上何も言わなかった。
王族が気に入った地方の温泉郷。
そこにいるゼノという男。
そして、新しい文化の匂い。
それはもう、王都が無視していい類の話ではない。
殿下は最後に、紙を丁寧に畳んだ。
「まずは見よう」
静かな声だった。
「見てから決める」
そうして、王都編は動き出す。
湯楽郷ではまだ、誰も知らない。
温泉郷で生まれた歌は、もう湯気の中だけに留まらない。
王都の朝にも、確かにその名が届き始めていた。
――――
次回
第48話 鈴に、歌が入る




