前編 僕は、彼女の香りに惹かれていく。
「西場君、私って変な匂いしない?」
「えっ。えーっと……」
もうすぐ衣替えという、夏が近い季節。高校一年のとあるクラス。関川由里子は、唐突に隣の席の男子——西場幸に声をかけた。彼女は恥ずかしいのか、少し顔を赤らめて、うつむいている。
幸は聞かれたことに答えようと、彼女の方を向き、くんくんと匂いを嗅ぐ。もっとも、顔を近づけるわけではないので、よほど強いものじゃなければ届かないだろう。しかし彼は、人一倍匂いに敏感だったのだ。その方向に顔を向けると、かすかに彼女が発する匂いを感じることができた。
「変な匂いなんかしないよ?」
「そっか。良かった……」
彼は、平静を保っているように淡々と答えた。その声に安心をする由里子。しかし幸の内心はというと——
やっべえ。すっごく、いい香りがする。ボディーソープ? それともシャンプー? どこのメーカーの使っているのかな?
と、大いに盛り上がっていた。そんな気持ちを隠すのに必死に声のトーンを抑えていた。
肩まで伸びた、ストレートの髪から漂う由里子の香りは、幸の心をくすぐる。これがまさか、毎日のことになるとは、この時点で幸は思いも寄らなかった。
それにしても……なぜ僕に聞いてくるのだろう?
由里子は、クラスでは一人でいることが多かった。いじめられてるわけでもなく、どうやら彼女自身が他の人との距離を置いているようだ。薄々気付いてはいたのだけど、隣の席になったことでよく分かる。今では、その感覚は正しかったのだと確信していた。
幸は、彼女に好意を持っていた。隣の席になるまで、あまり話したことはなかったものの、彼女の前髪をいつも分けるクセが可愛いとも思っていた。そんな理由があって、席替えで隣になったことは、嬉しくて仕方なかったのだ。
その上、匂いを嗅いでくれなんて。いったい、どんなご褒美なんだ! と、とても喜んでいた。単純な男なのであった。
「あの……どうしてそんなこと聞くの?」
「あっ。あのね、西場君って、匂いに敏感そうな表情をしていたから」
「えっ?」
まずい。もしかして匂いに喜んでいたのバレている? 変態だと思われている? 幸は心配になったが、どうやら違っていたようだ。
「前ね、西村君が持ってきてた机の奥のお菓子のこと、匂いで気付いたでしょう?」
「ああ、アイツが持ってきたのがカビてたやつね。取り出したら袋の中に腐海が誕生していて、あの時は騒ぎになったなぁ」
「うん。それで、匂いに敏感なのかなって」
すると幸には別の疑問が湧く。そもそも、なぜ、聞くのか?
「どうして匂いが気になるの?」
「それは……あの、昨日、先輩に告白されて……」
「えっ?」
「付き合おうと思ってるから」
「えっ?」
がーん! 幸は、ショックで声が出そうになるのを我慢した。そんな……いきなり、失恋なのか? つらい。つらすぎる。モウ、イキテ、イケナイ……。
幸は絞り出すように言葉を発した。
「そ、そう、おめでとぅ…………」
「ありがとう。だから彼に嫌われたくなくて」
由里子の顔は、少しだけキラキラしていた。そのことも、幸には受け入れがたい事実だった。だった、のだが、次の言葉が彼に希望を与えることになる。
「だから、毎日、私の匂いを感じて欲しいの……」
「はえっ?」
幸は、その言葉に妙に色っぽい雰囲気を感じ、何かがひしゃげるような変な声を発した。彼女を見ると、とても恥ずかしそうにしている。その姿を見て幸は可愛いと興奮した。
由里子の匂いを、堂々と毎日嗅げるというのだ……! 内心では、やったぜ! という気持ちが渦巻いていた。
「わ、わかった。協力する」
「ありがとう!」
由里子は、ぱっと表情を明るくした。その顔を見て、幸は気分が高揚し、頭の中で語り始める。
趣味と実益を兼ねたことをお願いされたんだ。断るなんてとんでもない。できる限り、協力しよう! 彼女が喜んでくれるなら、それでいいじゃないか。影から応援する男。その名は……幸。
彼の脳内で早くも、英雄物語が語られていた。
この日から毎日、彼にとって幸せで、少し切ない時間が放課後に訪れることになった。
「あの西場君……お願い……」
翌日の放課後。昨日と同じように、由里子が少し顔を赤らめながら聞いてきた。これから部活動で先輩に会うのだろう。幸は、そう考えるとキリリと胸が痛む。
しかし、しょうがない。幸は彼女の方を向いて、すんすんと匂いを嗅ぐ。すると、昨日と同じような由里子の匂いを感じた。甘い、シャンプーの香り。彼女はとても清潔にしているのか、汗をかきにくいのか、シャンプー以外の香りを感じなかった。
「大丈夫だよ」
「わかった。ありがとう」
絵里子の顔が嬉しそうに綻ぶ。やや紅潮している頬を見て「ああ、この一瞬の笑顔のためにやってるんだな」と、自らの献身に悦に浸った。
スキップしそうな勢いで去って行く由里子の背中を見て、幸は今だ解決しない問題を考え始める。
「なぜ、匂いがそんなに心配なのだろう? コンプレックス?」
そう独りごちる。多分、クラスの中で皆と距離を置いているのは、それが原因なのだろう。
そして……もう一つの事実に行きつく。匂いが心配でも、変だったとしても、幸ならどう思われても大丈夫。つまり、男として何も意識されていない、下手すると嫌われてもいいとすら思っているのかもしれない。だからこそ、匂いのことを頼めるのだ、と。
「はぁぁ」
幸は一人で落ち込む。もっとも、毎日好きな人の匂いを嗅げるという特典がある以上、落ち込んでいたとしても、たいしたことはなかったのだが。彼は、少しだけ肩を落として、その日は帰宅した。
幸は、自宅に帰ると、由里子のことを姉に聞いてみることにした。姉は社会人。ポニーテールがよく似合うと幸は感じている。
「姉さん、聞きたいことがあるんだけど」
「んー? 好きな子でもできた?」
「ぶっ。いや、そんなんじゃなくて」
「図星か……そういう話大好物だよ。話してみ?」
彼は姉の好奇心を無視して、疑問だけを言うことにした。
「女子が匂いを気にすることってあるの?」
「だいたい気にするんじゃない?」
「いや、気にするにしても……隣の席の男子に聞く? つきあってる先輩に嫌われたくないとかで」
「ふーむ。好きな子にそう言われたんだ。まあ、まだ脈はありそうだなぁ」
「いや、そうじゃなくて……えっ? マジ?」
話が脱線しても、姉の言葉に食いついてしまう。幸は分かっていても、やめられない自分に落胆しつつも、話を聞くことにした。脈があるって?
「まだ、その彼氏とは距離があるってこと。あんたには聞けることが、彼氏には聞けていない。それだけ彼氏が好きなのかもしれないけど、その距離が縮まない以上、チャンスがある」
「そこを詳しく……!」
「そうだなぁ。コンプレックスがありそうなら、聞けたらいいかもなあ。当然彼氏に話していないだろうし」
「ふむふむ」
「まあ自分のコンプレックスも話してあげれば、警戒も緩んで聞けるかもしれないな」
「何を話せばいい?」
「それくらい考えな。もう一つ、多分そのうち嗅がなくていいと言われる日があると思う。その時は、絶対嗅ぐなよ!」
「えっなんで?」
「察しろ。もし、言われても嗅いだなら、アタシがあんたを締める」
「えっ。はぁ……」
幸は姉に締められないように、気を付けようと思いながら、自分の部屋に戻る。
「あれ? 聞こうと思ったこと聞けたんだっけ?」
数日後。姉から聞いた作戦を決行した。由里子のコンプレックスのことを聞き出す。すると……うまく由里子の心を開くのに成功したのであった。
コンプレックスの原因は、予想より重い話だった。




