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天命録に、俺の死は三十日後と刻まれている  作者: asnt2026


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第1話 三十日後、俺は死ぬ

「高城さん、これ……今日中じゃなくても大丈夫です」


午後九時を少し回ったころ、帰り支度をしていた田辺が申し訳なさそうに言った。


俺はパソコンの画面から目を離さず、片手だけ上げた。


「分かってる。ここまでやったら切りがいいから」


「でも、それ僕の仕事ですよね」


「明日の朝、数字だけ確認してくれればいいよ」


田辺は何か言いたそうにしていたが、やがて「お先に失礼します」と頭を下げた。


「お疲れ」


オフィスの自動ドアが閉まる。


静かになった。


これで今日、俺より後まで残っている社員はいなくなった。


高城修一、四十八歳。


中間管理職。


部下から頼まれたわけでもない仕事を勝手に引き取り、家に帰る時間を遅らせるのが得意だ。


得意というのもおかしいか。


単に、性分だった。


人に任せて待っているより、自分でやった方が早い。


何度も上司から、


「高城、お前はもう自分で全部やる立場じゃないぞ」


と言われている。


分かってはいる。


分かっていることと、できることは別だ。


画面の数字を確認し、保存する。


二十一時二十七分。


妻に連絡を入れようとしてスマートフォンを手に取ったところで、やめた。


どうせ、


《また遅いの?》


と返ってくる。


それに「今から帰る」と送ってから三十分も会社を出られないことが、俺にはよくある。


パソコンの電源を落とした。


窓の外には、いつもの街の灯りが広がっている。


四十八年間生きてきて、世界が突然変わるなんて考えたこともなかった。


当たり前だ。


そんなことを考えて生きている四十八歳の会社員がいたら、たぶん少し心配になる。


だから、その日の俺も考えていなかった。


明日の会議。


週末の予定。


家の給湯器が最近変な音を出すこと。


考えていたのは、その程度だった。


会社を出て駅へ向かう。


八月の夜は、九時を過ぎても暑い。


ワイシャツが背中に張りつく。


コンビニの前を通り過ぎたところで、スマートフォンが震えた。


田辺からだった。


《すみません。さっきの資料、B列の集計式が一つずれてるかもしれません》


思わず立ち止まる。


「……明日でいいって」


口に出してから、ファイルを確認しようとした。


その瞬間だった。


画面が真っ白になった。


いや。


スマートフォンだけじゃない。


街灯も。


車も。


コンビニも。


目の前にあったはずの駅も。


すべてが白くなった。


音が消えた。


足元の感覚までなくなった。


そして――


俺は落ちた。


          ◇


最初に感じたのは、土の匂いだった。


次に、頬の冷たさ。


目を開ける。


草。


顔のすぐ横に、見たことのない青い花が咲いていた。


「……は?」


起き上がる。


森だった。


会社も駅もない。


アスファルトも、電柱も、ビルの明かりもない。


太い木々が何十本も立ち並び、その隙間から夕暮れらしい赤い光が差し込んでいた。


俺はしばらく何も考えられなかった。


スマートフォンを見る。


画面は真っ黒。


電源ボタンを押しても反応しない。


「参ったな……」


その言葉しか出なかった。


夢。


誘拐。


事故。


どれも納得できない。


立ち上がろうとして、膝に鈍い痛みが走った。


四十八歳の膝だった。


妙にそこだけ現実的だった。


若返っているわけでもない。


腹も少し出ている。


腰も普通に痛い。


俺は自分の手を見る。


しわの増えた、見慣れた手だった。


「せめて二十代にしてくれよ」


誰に言っているのか分からない。


当然、返事もない。


――グルルル。


低い音がした。


今度は返事があった。


振り向く。


十メートルほど先。


木の陰から、大きな獣が出てきた。


狼に似ている。


ただし狼と呼ぶには大きすぎた。


肩までで俺の胸くらいある。


灰色の毛。


額から黒い角が一本突き出している。


口元から垂れた唾液が地面に落ちた。


「……犬じゃないよな」


獣が身を低くする。


逃げた方がいい。


頭では分かった。


しかし足が動かない。


学生時代以来、全力疾走などした記憶がない。


こんなところで走ったところで、五秒も持たない。


獣が地面を蹴った。


そのとき。


何かが俺の横を通り過ぎた。


金属音。


獣の体が横へ吹き飛ぶ。


若い男が俺の前に立っていた。


金色に近い茶髪。


腰には長剣。


映画かゲームでしか見たことのない格好をしている。


「下がって!」


言葉は日本語に聞こえた。


いや、口の動きと音が微妙に合っていない。


それなのに意味だけは分かる。


混乱している暇もなかった。


別の方向から、二頭。


三頭。


同じ獣が現れる。


「レオン、右!」


女性の声。


青白い光が森を走った。


一頭の足元から氷が伸びる。


動きを止めた獣へ、巨大な男が盾ごと突っ込んだ。


「どけぇっ!」


鈍い音がして、獣が木へ激突する。


その後ろから、小柄な少女が顔を出した。


白い法衣のような服。


まだ十代にしか見えない。


「おじさん、大丈夫ですか?」


おじさん。


状況に似合わないところで傷ついた。


「たぶん」


「たぶん?」


「今のところは」


少女が妙な顔をした。


その間にも、レオンと呼ばれた青年が最後の一頭へ剣を向ける。


獣は唸った。


しかし――。


俺は妙なことに気づいた。


獣はレオンを見ていない。


巨大な男も。


魔法を使った女性も見ていない。


俺たちのさらに後ろ。


森の奥。


ずっとそちらを気にしていた。


「待った」


誰も聞いていない。


「おい、待って!」


今度はレオンが振り向いた。


「何です?」


「あれ、俺たちを狙ってない」


「え?」


「さっきから後ろばっかり見てる」


獣がまた唸った。


敵意というより――怯えているように見えた。


「何かから逃げてるんじゃないか?」


沈黙。


青い服の女性が眉を寄せた。


次の瞬間。


森の奥から地面を揺らすような音が響いた。


ドン。


一度。


ドン。


二度。


木の上から鳥のような生き物が一斉に飛び立った。


残った獣が悲鳴のような声を上げ、そのまま俺たちの横を駆け抜けていく。


誰も追わなかった。


巨大な男が俺を見る。


「……あんた、よく分かったな」


「いや」


俺は獣が消えた森を見る。


「人でも、ああいう顔するから」


「顔?」


「逃げたいのに、逃げ道がないとき」


会社で何度も見てきた。


追い詰められた部下。


怒られるのを分かっていて報告に来た社員。


何かを隠している取引先。


似たような目をしていた。


青年――レオンが剣を収めた。


「とにかく、ここを離れましょう」


それには全面的に賛成だった。


          ◇


彼らは四人だった。


剣士のレオン・アルヴァート。


魔導士のミレイア・ノール。


大盾を背負ったガイル・バルド。


回復術師のフィーネ・ラティス。


聞いたことのない国。


聞いたことのない地名。


聞いたことのない魔法。


最初は何かの撮影かと思った。


五分後には諦めた。


撮影にしては、さっきの獣が生々しすぎる。


「つまり」


歩きながら俺は確認した。


「ここはアルヴェリア王国」


「はい」


レオンが答える。


「魔王というのがいる」


「います」


「君たちはそれを倒しに行く勇者」


レオンは少し困ったように笑った。


「正式には勇士候補です。十二人全員がそろってから、王城で任命されます」


「なるほど」


何一つ分かっていないが、そう答えた。


フィーネが隣を歩く。


「シュウイチさんはどこから来たんです?」


「日本」


「ニホン?」


「知らないよな」


「東方の国ですか?」


「たぶん、もっと遠い」


ミレイアが何度か俺へ魔法らしきものを使った。


結果。


魔力、ほぼゼロ。


身体能力、普通。


特殊な加護、確認できず。


レオンが気まずそうな顔をした。


俺も同じ気持ちだった。


異世界に来たのなら、もう少し何かあってもいいと思う。


炎を出すとか。


未来が見えるとか。


せめて腰痛が治るとか。


現実は厳しかった。


日が落ちるころ、小さな城壁都市へ着いた。


門をくぐる。


石造りの建物。


馬車。


見たことのない服。


空中を漂う小さな光。


ようやく俺は認めざるを得なくなった。


ここは本当に、俺が知っている世界ではない。


中央広場には人だかりができていた。


大きな石碑がある。


石碑の上部には金色の文字。


不思議なことに、読めた。


《天命録》


「何だ、あれ」


俺が聞くと、フィーネが答えた。


「王国に大きな役目を与えられた人の名が刻まれるものです。今回の十二勇士も、全員あそこに」


人垣を抜けて石碑の前へ進む。


名前が縦に並んでいた。


レオン・アルヴァート。


ミレイア・ノール。


ガイル・バルド。


フィーネ・ラティス。


ほかにも知らない名前が続く。


そして、一番下。


俺は足を止めた。


そこに見慣れた文字があった。


高城修一。


「……なんでだ」


声が漏れる。


「俺の名前がある」


レオンたちも驚いていた。


「そんなはずは……」


ミレイアが石碑へ近づく。


「天命録へ名を刻めるのは王城の神官だけです。しかも勇士候補はすでに――」


彼女の声が遠くなる。


俺には別のものが見えていた。


名前の横。


他の誰も見ていないらしい。


赤黒い文字が、ゆっくり浮かび上がっている。


まるで石の内側から血が滲んでくるように。


俺は目をこすった。


消えない。


もう一度読む。


間違いない。


高城修一


死刻――三十日後


しばらく息ができなかった。


知らない世界。


知らない魔王。


知らない勇者。


そのどれよりも、その六文字だけが妙に現実味を持っていた。


三十日後。


俺は死ぬ。


少なくとも――


この《天命録》には、そう刻まれていた。

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